seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

イエスタデイ / 昨日の世界 その2

2022-03-15 | 映画
 私の友人が詩に書いていたダニー・ボイル監督の映画「イエスタデイ」についてもう少し触れておきたい。
 この映画は2019年の公開で興行成績もよく話題になり、最近もBS放送などで何度も放映されているのですでに多くの人がご存じのことだろう。

 ある日、売れないミュージシャンの主人公が、世界中を襲った停電とともに交通事故に遭い、意識を失って病院に担ぎ込まれる。彼が目覚めると、そこはなぜか同時代の人々の記憶からも記録からもビートルズの存在が完全に消えた世界になっていた。
 彼が弾き語りでビートルズの「イエスタデイ」を披露すると、友人たちは初めて聴いたと言ってその歌の素晴らしさに感激する。やがてひょんなことからその演奏はSNSで拡散し、彼はたちまち素晴らしい才能を持ったシンガーソングライターとしてまつり上げられ、あれよあれよという間にスターダムに乗せられていく……という話だ。

 この映画に対する評価は毀誉褒貶さまざまあるようだが、否定的な意見でもっとも多いのが、ビートルズの楽曲はあのメンバーによって歌われ演奏したからヒットしたのであって、ほかの誰かが真似して演奏したものがこの映画のように大ヒットしてスターになるという設定はおかしい、間違っているというものだ。
 極めて真っ当な意見なのだけれど、そう考えてしまっては、この映画のネライそのものを見誤ってしまう、というのが私の意見である。

 指摘のとおり、そんなことはあり得ないのが現実なのだが、そのあり得ない「歪んだ世界」の中に主人公が放り込まれることではじめてこの映画はドラマとして成立するのである。
 その世界では、主人公が類まれな才能の持ち主として持て囃される一方、ビートルズの存在自体が否定されているばかりか、その楽曲名やレコードアルバムのタイトルまで「ダサい」「長過ぎる」「センスがない」と変更を余儀なくされ、ジャケット写真もぼろくそにケナされ、したり顔で否定されてしまう。
 その世界の奇妙な歪みに気づき、そこから何とか脱出しようと葛藤し、あがく主人公の姿こそが笑いを呼び、ドラマとなって物語を推進するのだ。

 この映画から、私たちはある切実な教訓を得ることができるのではないだろうか。
 何かひとつの事実がこの世界から消えてしまう、記憶も記録も消されてしまうことで、世界はいとも簡単にまるで違ったものへとひっくり返ってしまうということだ。

 いま、私たちのいる現実の世界でも同じことが起こりつつあるのではないだろうか。
 報道が遮断され、独裁者に都合の良い一方的な情報を鵜呑みにせざるを得ない国の人々が見る世界は、侵略におびえながらも、恐怖に打ち勝とうとして戦う国の人々の見るものとはまったく異なるものだろう。
 その「世界の歪み」に気づき、脱却する日はいつ訪れるのだろうか。

  ♪ 昨日ははるかな彼方にあった苦悩が
   今日は僕のもとに居すわろうとしている
   ああ すべてが輝いていた ―― 昨日

   不意に僕は今までの僕じゃなくなった
   暗い影が僕の上に重くのしかかる
   ああ 悲しみは突然やってきた ―― 昨日 
                      (内田久美子訳から一部抜粋)

 暗い影となって居すわり続ける今日の苦悩を乗り越え、希望の明日がかの国の人々のもとに訪れることを願ってやまない。そして、歪んだ世界の中に閉じ込められた人々のもとにも明るく輝く日の訪れることを。

昨日の世界

2022-03-15 | 日記
 友人で群馬県在住の詩人、中村利喜雄君が送ってくれた詩集「この世の焚き火」の中に、「イエスタデイ」という詩がある。
 この詩集全体はある年齢に達した人間が過去を振り返る時のほろ苦さとも悔恨とも言い難いノスタルジーを感じさせるのだけれど、とりわけこの「イエスタデイ」は、私自身の個人的な思い出とも絡み合って、腹をくすぐられるような可笑しみとともに若さ特有のみっともなさと恥ずかしさがブレンドされた記憶を喚起させられる作品だ。
(以下、要約と一部引用で紹介)

 ジョン・レノンがいなくなってから40回目の冬の夜、詩人は炬燵にあたりながら、映画「イエスタデイ」を見る。
 世界中を襲った12秒間の停電で同時代の人々にビートルズの記憶がなくなった、どこかパラレルワールドのような話……

 「主人公は『エリナー・リグビー』の歌詞の/あるところがどうしても思い出せない
  エリナー・リグビーの墓の前に佇んでも/記憶は戻ってこない
  そしてある人から言われる/人は見たものしか歌えない」

 「ほんとうに?
  想像力と空想する力があるじゃないか」

 映画の終盤、主人公は渡されたメモを頼りに海辺に暮らす78歳のジョン・レノンを訪ねる。

 「ビートルズを知らないのか/主人公はジョンに聞く/彼は首を横に振る
  船員として満ち足りて生きてきた彼は/主人公に言う
  大事なのは愛だ/好きな人を見つけて一緒に暮らせ
  そしてハグをして別れる」

 詩人の目は映画の世界から1980年の東京に移り、雑踏と喧騒にまみれ、仕事に疲れて行き場をなくした彼自身の内面へと入り込んでいく。
 そしてその年、彼は結婚するのだ。招待客の前で彼ら二人はチューニングが狂ったままのギターで「贈る言葉」を歌う。ジョン・レノンが死んだその年の暮れ、彼は仕事を辞める。翌年二人は東京を離れた……。

 断片的な引用と下手くそな要約では詩の魅力を伝えようもないが、こんなことが「イエスタデイ」という詩の中で語られる。

 ここで私が個人的な思い出というのは、この中村君の結婚披露宴での出来事だ。
 まだ若かった私は友人代表として行ったスピーチでどうやらしくじったらしいのだ。ウケをねらったはずが、どちらかの親戚の不興を買ったらしく、𠮟責に近いヤジを食らってあたふたとしてしまい、そのあと自分が何をしゃべったのかまったく覚えていない。
 このことはトラウマとなって残り、その後しばらくは結婚式恐怖症といってもよいくらいだった。芝居仲間の結婚式で司会の仕事を頼まれた時も頑なに断って、それをまた後になって悔やむといった具合だった。これではいけないと一念発起し、その後は知人友人の結婚披露宴のたびに司会役を買って出ることにして場数を積み重ね、いつの間にか千人規模のイベントの司会まで平気でこなせるようになったのだが、だからと言って中村君の結婚披露宴での失敗は心の奥底で燻り続け、忘れることはなかったのである。

 そんな時、ごく最近になってこの詩「イエスタデイ」を読み、こんなことがあったねとLINEに書いて送ったところ中村君からは、「悪いな。スピーチまったく覚えてないよ」という返事が来たのだった。
 往々にしてそんなことはある。周りは誰も覚えてなくて、自分だけが思い出してはブルブルと震えるということが。
 「ということで、もう忘れておくれ」と中村君からのLINEには書かれていた。
 こうして私は長年の呪縛からようやく解き放たれたのだった……、という笑い話である。オチはない。

バック・イン・ザ・U.S.S.R

2022-03-12 | 日記
 つい最近、たまたまザ・ビートルズの「バック・イン・ザ・USSR」を耳にする機会があったのだが、現下の国際情勢の中でこれを聞くと何とも複雑な感情に捕らわれる。以下、その一部分を引用……(山本安見訳)
 ♪ 懐かしのU.S.S.Rに帰ってきた
   この国に住んでる人たちよ
   アンタたちは本当に幸福ものだぜ

   ウクライナの娘たちには まいっちまう
   西洋なんて 屁とも思っちゃいないのさ
   それにモスクワの娘たちときたら
   ”我が心のジョージア”を僕に大声で歌わせるのさ

 もちろんこの歌はロシアの旧体制時代に作られたもので、当時はウクライナもソ連邦に属する一地域だったのだが、1991年、ソ連邦の崩壊に伴い、ウクライナは独立を果たした。
 2003年、モスクワの赤の広場で行われたポール・マッカートニーのライブコンサートにはプーチン大統領も足を運び、この歌を聞いたというのだが、一体どんな思いで聞いていたのだろう。当時はロシアもNATOに対してまだ親和的な立ち位置にあったようだが、この20年の間にプーチンは腹蔵する苛立ちを募らせていたのだろうか。

 それにしても、この何日かのロシア側の発表や外相の会見などを見聞きする限り、人道回廊の無効化をウクライナ側のせいにしたり、小児科・産科病院をロシアが攻撃した際にも、あの病院はウクライナ軍が占拠していた場所で市民に被害は及んでいないといったことを公式の場でしれっとした顔で話している。その自己正当化の厚顔無恥ぶりには開いた口がふさがらない。

 ある識者の話では、ロシアの外交官はそうした訓練を受けているから、ウソをウソとも思わず、プーチンの発した言葉と整合性を取ることだけを目的に罪悪感もなく話が出来るそうなのだが、本当だろうか。
 その真偽のほどはともかく、しかし、これはわが国の官僚と呼ばれる人たちにもどこか似たところがあるように思えてきて怖ろしくなる。人間の業ともいえるもので、多かれ少なかれ、私≒私たちはそうした要素を心のどこかに隠し持っているのかも知れないのである。

つながるもの

2022-03-10 | ノート
 水辺を歩く。久しく見上げることもなかった空はどこまでも広がって、あの空ともつながっているのだ。つらく困難で厳しい冬の戦いに耐え忍ぶ人たちのことを考える。祈る。



 この川も海も空も、それを見るこの私も、孤絶しては存在しない。みな何かとつながっているのだ。否応なくつながる紐帯は人を束縛し、監視し、抑圧し、時に憎しみすら生むのだが、そのつながりなしに生きてはいけない。
 その息苦しさを嫌悪し、憎悪し、唾棄し、忌避しようとしながら依存しないではいられず、逃れることのできない「つながり≒しがらみ」、それが《絆》と呼ばれることもあるのだろう。

 人を結びつけるそのか細い糸を遡った先の先に過去の「私≒私たち」がいて、父と母とその母たちがいて、流れていくその向こうに未来の「私≒私たち」がいる。



 遠い昔、私の父は戦いのあとに抑留された極寒のシベリアから海を渡ってこの国に帰り着き、母は終戦の混乱のなかを、生まれ育った異国の都市から、着の身着のまま海を越えて祖父母のふる里の村にやって来た。
 船に揺られ、波しぶきを掻いくぐり、交差するはずのない糸が偶然と因果の悪ふざけによって絡まり合い、そして私が生まれた。
 それが僥倖なのか奇禍なのかは問わないが、この国に暮らし、あの国の人々と同じ地球に生きることの意味は問われなければならないだろう。
 時を超え、空間を飛び越えて、あの時代と今、この場所と戦火の街はつながっているのだ。

 人々を傷つけ、縛りつけ、殺戮と絶望をもたらすあらゆるものを断ち切って、思いやりと慈しみによってむすばれる安らかな夜の訪れることをただ祈る。

水辺を散歩

2022-03-01 | ノート
 私の家から、かつての日光御成街道岩淵宿のあった場所までは徒歩15分ほどの距離で、さらに荒川と隅田川が分岐する旧岩淵水門まで行って帰ってくると約一時間、6千歩ほどとなって散歩にはうってつけである。瀬戸内の海辺に生まれ育った私にとってこうした水のある場所で過ごす時間はとても心地よく、かけがえのないものだ。



 ある日、隅田川の支流である新河岸川の上をたくさんのカモメが飛び交い、土佐日記にあるように、「今し、かもめ群れゐて遊ぶところあり」という風情だった。橋の欄干に群れをなして止まっているのを見て、慌ててカメラを向けたのだったが、みな一斉に飛び立ってしまい、写っていたのは置いてきぼりをくって何とも頼りなさそうな一羽だけなのだった。
 少しユーモラスな顔つきに見えなくもないのだけれど、チェーホフの「かもめ」に出てくるトレープレフに撃ち落されて剝製にされてしまったカモメのようでもあり、そうなると様相は一変する。女優とはなったものの夢破れたニーナの悲痛な「わたしはカモメ……」という叫びが聞こえてきそうで、この画像に残ったカモメに何だか同情したくもなってくるのだ。



 そのカモメを写真に撮った場所から上流に数百メートル遡ったここは岩淵の渡船場跡である。源義経が奥州から兄頼朝のもとに参じる途次、ここを通ったとある。ちょうど今、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれている時代だ。
 800年以上も昔のこととなれば伝説と化してロマンを纏うのだろうが、結局は己らのために相手方を討ち果たそうとする妄執であり、我執なのだ。現代の他国を侵略しようとする独裁者の夢と何も変わらない。そんなことを考えた。