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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

マーガレット・サッチャー

2012-04-24 | 映画
 映画「マーガレット・サッチャー」についてもう少し書いておきたい。
 うまく説明できるかどうか分からないのだが、ここで言いたいのは、この映画がひとえにメリル・ストリープの「一人芝居」のために設えられた「舞台=世界」であるということだ。
 本作が、いわゆる政治家の伝記映画でないことは明白だろう。彼女がどのような主義主張を持ち、その思念と哲学をどのように鍛え上げ、どのような葛藤の中で政治家としての地歩を固めていったのかというようなことが詳細に描かれているわけではないのだ。
 その意味で本作には、政治家志望の若者にとっての参考になるとか、人生哲学を学び取ろうとする人々に何らかの示唆を与えるといった要素がまるでない、と言ってよい。

 とある食料雑貨店でミルクを買うためにレジに並ぶ老女のクローズアップで始まる映画の冒頭、誰もこの老いた女性がかつての英国首相であるなどとは気がつかない。
 次のシーン、彼女は薄い焦げたトーストにゆで卵と紅茶という質素な朝食のテーブルに夫デニスとともにいる。ひとしきり夫との会話が交わされた次の瞬間、テーブルの前にぽつねんと座っているのは彼女一人であり、夫の姿は老女の見た幻影に過ぎなかったことが観客に示される。雑貨店でミルクを買ったのも、軽い認知症を患う彼女の徘徊の有り様であったのだ。
 これは、老残のなかにある一人の女性の幻想の物語であり、あらゆる権威を剥ぎ取られた王の物語である。まさに狂気の淵を歩く「リア王」のごとき老いた英雄をメリル・ストリープは演じるのだ。
 そのあとに展開される若き日々の姿も、強烈なリーダーシップで国を率いる姿も、すべては幻想に過ぎない。あったかも知れず、なかったかも知れない、そんな「うたかたの夢」をこの人物も、私たちもまた生きるしかない……。
 そうした夢の世界に生きる老女の独り語りによってこの映画は成り立っている。無論、語るのは女優メリル・ストリープである。

 この映画では、メリル・ストリープのそっくりさんぶりが大きな話題となった。メイクアップ、髪型はもちろん、イギリス英語のアクセント等々、まるでマーガレット・サッチャーが乗り移ったかのような演技は称賛に値する。
 ところで、思い返してみると、彼女がメイクアップに頼ったのは最晩年のシーンであり、壮年期の場面ではそれほど凝ったメイクをしていたわけではない。
 映画を観ている最中、私たちはメリル・ストリープの演じる姿に疑いもなくサッチャーの姿を思い描いていて、そのあまりの似姿に驚きも感じるのだが、後になってパンフレットの写真を見ると、そこには本来のメリル・ストリープが映っている、ということを発見して二度驚かされる。
 これこそがまさに「演技」の力にほかならないのだろう。

 うまく説明できないのだけれど、通常、映画を観るとき、私たちは登場人物に感情移入しながら、スクリーン上の人物が実在のもの、現実にこんな人物がいるのだということを感じながら観ている。
 だが、この映画では、実在のサッチャーの姿を私たちは知っており、なおかつ、そのサッチャーをメリル・ストリープが演じているということを知りながら、そのうえで感情移入するという回路を辿ることになる。
 この映画が、より演劇に近接しているということの何よりの証左だろう。
 優れた俳優の演技を観ることの快楽がそこにはある。

 余談だが、彼女が党首選に打って出ようとした時、参謀格の議員の勧めで、声のトーンを下げるため、トレーナーについてボイストレーニングをするシーンがある。
 「英国王のスピーチ」のシーンとダブって思わず笑みを浮かべてしまったが、政治とはまさに演劇なのだということを雄弁に語っていて私はとても気に入っている。


鉄の女たち

2012-04-23 | 映画
 この1カ月ほどの間に観たミュージカルと2本の映画について書いておきたい。
 まるで関連のないように思えたこれらの作品が記憶のなかで混ぜ合わされると、一本の筋が通るようにそれなりに意味を帯びてくるのが面白い。

 まず、3月中旬に天王洲銀河劇場で観たのが、ミュージカル「9時から5時まで」である。
 翻訳・訳詞は青井陽治、振付上島雪夫、演出は西川信廣。草刈民代、紫吹淳、友近の3人が大企業で働くOL役、石井一孝がセクハラ&パワハラ・パワー満載の上司役で出演している。
 この舞台のもとになったのが、1980年公開のアメリカ映画「9時から5時まで」(Nine to Five)で、コリン・ヒギンズが監督。ジェーン・フォンダ、リリー・トムリン、ドリー・パートンの演じる3人のOLが、日頃の仕打ちに腹を据えかねてボスに復讐しようとするブラック・コメディである。
 この映画をもとに、ドリー・パートン作詞・作曲でミュージカル化され、2007年のワークショップ、2008年のLAトライアウトを経て、ジョー・マンテロ演出で2009年4月7日よりブロードウェイのMarquis Theatreで初演された。私が観たのはそのミュージカルの日本での初演である。

 次に観たのが映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙」で、言うまでもなく、イギリス史上初の女性首相で、その強硬な性格と政治方針から「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーの半生をメリル・ストリープ主演で描いたドラマである。
 監督は「マンマ・ミーア!」のフィリダ・ロイド。マーガレットを支えた夫デニス役をジム・ブロードベントが演じている。
 第84回アカデミー賞ではストリープが主演女優賞を受賞、「クレイマー、クレイマー」(79)、「ソフィーの選択」(82)に続く3つ目のオスカー像を手にしたのは周知のとおり。

 そしてもう一つ、ごく最近になって観た映画が、「ヘルプ~心がつなぐストーリー」である。脚本・監督・製作総指揮:テイト・テイラー、原作:キャスリン・ストケット。オクタヴィア・スペンサーがアカデミー助演女優賞を受賞、ヴィオラ・デイヴィスが主演女優賞にノミネートされている。
 原作は2009年に発表された同名小説で、世に出るまで60もの出版社から断られたが、刊行されるや口コミが広がり、映画の高い評価もあって全米で1130万部突破、42か国で翻訳出版という異例のロング&ミリオンセラーになったという作品である。

 これらの3本に共通するものは何か……。
 まず、女性が主人公であること、そろって男性の影が薄いということ。そして、いずれも何らかの差別がテーマとして扱われているということ、と言ってよいだろう。
 「9時から5時まで」は、以前共演したことのあるTさんがアンサンブルで出ている縁で観に行ったのだが、実をいうと、この時代に30年以上も前の企業が舞台になった話をなぜやるのだろうと思ってしまった。紫吹淳はさすがに舞台女優としての実力を見せていたが、ほかの二人がはっきりいって期待外れだったこともあり、あえて記録しておこうという気にもならなかった。だいたい、今や女性たちは十分強くなって、こんなセクハラ上司退治の話など、もはやおとぎ話ではないのか……。
 まあ、これが男の浅はかさというか、鈍感さの証なのではあるけれど、3本の作品を通しで続けて観ると、ここに描かれた問題がまさに今も社会の根底に根を張って、決してなくなってはいないのだということに気づかされる。

 これら作品の背景となった年代や舞台を見ると、「ヘルプ」は1960年代初頭のアメリカ南部の田舎町であり、「9時から5時まで」は1970年代終わり頃のアメリカの大都会である。「サッチャー」は、それと同じ時代の1979年にイギリス初の女性首相となり、80年代をとおして「鉄の女」と呼ばれながら国を変えるため男社会の中で奮闘した。
 「ヘルプ」で描かれたその時代、特に保守的な地域の女性たちにとっては働きに出ることなど夢のまた夢であり、早く結婚して子供を産み、良妻賢母となることが最良の生き方だった。ほぼ同時代の英国に生きたマーガレットは、そうした生き方に反旗を翻し、父の影響もあって政治家を志し、社会的な階層差別や女性蔑視の世界を戦い抜く。
 改めてそうした視点から見直すと、「9時から5時まで」は時代錯誤の作品などではなく、そうした女たちの戦いを鼓舞し、自分よがりな男どもを笑いのめした痛快な作品なのである。

 「ヘルプ」は、黒人差別という視点を基点としながら、彼らを差別する者が差別される者でもあり、差別される者がさらに弱い立場にいる者を差別し搾取するという現実をも描いている。
 それを観たあとの印象が思いのほか爽やかであるのは、作劇の妙だろうか、あるいは時代を経て、差別への抵抗や戦いの成果が少しは実りつつあることの証左なのだろうか。

 「マーガレット・サッチャー」では、今の日本の何も決められない政治状況を嘲るように強烈なリーダーシップを持った女性政治家の姿が描かれるが、同時にその危うさをもしっかり描きこんでいる。絶対の強者は存在せず、絶対の正義もあり得ないのだろう。
 それにしても「鉄の女の涙」という邦題は疑問である。「涙」はいただけない。