seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

換算とご破算

2014-03-06 | 文化政策
 経済学では、単に金銭価値の金銭価値の計算だけでなく、犠牲にされた全ての価値に基づく機会費用の真の額を計算しようとする。
 交通事故で亡くなった人が、仮に生きていたとしたら得られたもの……、所得だけでなく、人生の様々な楽しみや充実した生活……、そうしたことが各種アンケート等に基づいて収集されたデータを統計学的に処理したうえで、人命の損失やケガによる損失の価値が計算される。
 内閣府による計算(2004年時点)では、交通事故による死亡事故ではその損失額は一人当たり2億2600万円、重傷事故では平均8400万円と算定されるとのこと。
 これらの数字を参考にして、現在の道路整備や改良については、精神的なものも含めた人命の価値も含めて費用対分析が行われているのだという。

 さて、経済と言えば、わが国の昨年の貿易赤字は初めて10兆円の大台を突破し、11兆4745億円と前年に比べ約4兆5千億円も増加したと報道された。
 赤字拡大の要因は主に2つだと指摘されている。
 一つが昨今の円安効果を生かし切れず、輸出が伸び悩んだことであり、もう一つが、原発の相次ぐ稼働停止に伴い、火力発電向け燃料の輸入が増えたことである。円安で輸入金額もかさ上げされ、この燃料輸入増によって貿易収支は約2兆6千億円悪化したという。
 このことが原発再稼働を推進しようとする人たちの主張の論拠となっている。原発を止めたままでは日本の経済は益々悪化し、人々の暮らしも悪くなってしまいますよ、というわけだ。

 だが、このレトリックは説得力がありそうに見えて、実は論点が巧妙にずらされているように思える。ことの善し悪しではなく、そもそも比較のできない数字を持ち出して我が田に水を引くような話になっているのではないか。
 貿易赤字の要因の一つとして、原発停止によって賄う必要の生じた燃料費の増大があることは事実だが、この額には、海外から燃料を輸入することによって得られたエネルギーの質量やそれが生み出した価値=人々の得た便益の多寡が反映されていないのだ。

 一方、原発被害者の損失をいかに計ることができるのだろうか。
 復興庁の2月26日付のデータによれば、東日本大震災による全国の避難者数は約26万7千人、そのうち福島県から県外に避難している人は47,995人に及ぶという。
 原発被害によって多くの人々が故郷を離れ、慣れない土地での生活を余儀なくされている。これによって失われた一人一人の幸福や、事故さえなければ人々が享受したはずの家族の団欒や楽しみ、さらには住み慣れた土地で働くことによって得られたはずの様々な価値……、それらは貿易赤字額などとは比較にならない総量となるに違いない。

 自分に都合の良い論理構成のための数値化ではなく、より客観的で精緻な評価基準にもとづく金額換算がもし可能となるのであれば、様々な政策判断や方針の決定に有効な手立てとなることは間違いない。

 一つの例として、釧路市では、生活保護受給者への自立支援によってもたらされる被保護者の自己肯定的な変化(自尊心の回復)に対する客観的評価として「SROI」=Social Return on Investment(社会的投資収益率)という手法に着目し、評価を始めているという。
 詳述は避けるが、ある福祉施策を実施するために要した費用と、その結果、施策の対象者である被保護者が社会的に自立して得るようになった賃金や、当人に関わる地域社会に生じた効果も含めて金銭に換算することでその施策の波及効果を評価しようとするものだ。
 興味深い試みだと思う。

 さて、では私たちのアート、文化芸術の価値を測るものさしはいかなるものなのだろう。
 それは金銭に換算できるものなのだろうか。
 

医療と芸術

2013-05-23 | 文化政策
 佐久総合病院小海診療所長の北沢彰浩氏が5月16日付日経新聞のコラム「医師の目」欄に新しい医療の定義の提案として次のようなことを書いていた。
 「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。ただし治らない病気の時は人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること」が大事になる…
 …「寄り添い支える」が医療の定義に入ると「子供が熱を出すと親は子供に寄り添い支え、高齢の親が寝込むと子は親に寄り添い支える」ので、医療の専門家でない自分たちも寄り添い支える医療の担い手であることに気付き、医療をもっと身近なものに感じることができるようになり…それが医療の民主化をめざすきっかけになる…と言うのだ。

 これらの言葉に深く共感しながら、ここでいう「医療」という言葉を「芸術」に置き換えることができるのではないかと考えていた。

 芸術とは人がその人らしく生きるために、音楽や美術、演劇といったアートの力によって励まし、元気づけること。ただし治る見込みのない病気や絶望の淵にある時は、人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること。
 子供が道に迷い言い知れぬ不安に苛まれていると親は子供に寄り添い支え、高齢の親が孤立と深い疎外感に打ちひしがれて床に臥すと子は親に寄り添い支えるように、芸術の専門家でない自分たちも人の心の声に耳を傾け、その寂しさや儚さや絶望の深さや強さや美しさを感じることができる、そうした芸術の担い手であることに気付く時、芸術をもっと身近なものに感じることができるようになるのではないか……。

 北沢氏はこのコラムで医療の民主化ということを住民参加を前提として考えようと提起しているのだが、それでは、芸術の領域において、民主化や住民参加ということをどのように考えればよいのだろう。
 瀬戸内海や越後妻有における住民参加の芸術祭の成功や、様々なワークショップ、アーティストによるアウトリーチ活動の事例を目にし、耳にしながらも、それはなかなかに厄介な難問であり続けるだろうと思うのだ。
 誰もが「医療」を必要不可欠なもの、万人が欲するものと感じているほどには、誰も「芸術」の必要性やその存在意義を信じてはいないがゆえに……。
 結果として芸術は専門家の手に委ねられ、いつまでも啓蒙の対象であり続け、とどのつまり、芸術の民主化は実現することのない御題目になり下がる。

 だが、本当にそうなのだろうか。
 そんなふうに斜に構えた身振りで簡単にあきらめてよいはずはないだろう。
 私たちがこれまで取り組んできた文化政策はそのための戦略なのであるから。
 それは未だ戦いにすらなっていないのかも知れないのだけれど。

劇場が消える日

2012-11-08 | 文化政策
 劇場にとって、いつか閉鎖される日が来る、というのは宿命なのだろうか。
 東京・表参道の「青山劇場」と「青山円形劇場」が2015年3月末で閉館することが発表され、さらに都心の「ル・テアトル銀座」も来年5月末で営業終了することが決まったと報道されている。
 いずれも施設の改修費や更新費用の見込みがたたないことが理由であるという。
 青山の劇場は厚生労働省が主管する公益財団法人児童育成協会の運営、銀座の劇場はかつてセゾン・グループの文化戦略の中核拠点であったが東京テアトルに所有権が移り、パルコが委託を受け運営しているという違いはあるものの、どの劇場も高い稼働率を有し、わが国における舞台芸術の進展に大きく寄与した実績を誇るという点で共通している。
 地元の渋谷区議会では閉館見直しを求める意見書を全会一致で議決、演劇関係者が存続を呼びかける署名運動も始まったそうなのだが……。

 これほど多くの人々に愛され、惜しまれる公共財産でありながら消えゆく運命にあるのは何故なのか。何年か前にも関西にある数多くの劇場が閉鎖されるニュースが駆け巡っていた。
 どれほど優れた舞台芸術を生み出した劇場であっても所詮経済効率の前には無力でしかないこの現実を私たちはどのように考えればよいのだろう。文化的波及力などといったところで、結局現下の経済低迷の折、財政難を理由にした仕分けの前には為すすべもないのか。

 もっとも、私のような根っからのアングラ俳優にとって、このたびの騒動は結局遠い世界の話でしかない……、といささか斜に構えた物言いをしたくなってしまう。
 ル・テアトル銀座の前身である銀座セゾン劇場ではいくつもの優れた舞台を観たし、玉三郎の舞踊とバリシニコフのバレエのコラボレーションした作品や、デヴィット・ルヴォーの演出で松本幸四郎がマクベスを演じた舞台は今もはっきりと覚えているし、青山円形劇場でもたくさんの忘れ難い作品がある。
 ただ、青山劇場にはとんと縁がなかった、というか、私が関心を持つ作品が上演されていなかったというだけのことで、これは単に趣味の問題でしかない。

 要は、その程度のことなのだ。たしかにもったいないとは思うけれど、これらの劇場がなくなったからといって世界が崩壊するわけではないし、この世から演劇が消えてなくなるわけでもない。
 相変わらず渋谷駅前の交差点では芝居など一度も見たことがないような群衆が押し合いへし合い行き交っているだろうし、新しくオープンした劇場では昨日の劇場のことなどすっかり忘れて、新たな観客を呼び込むための宣伝に躍起になっていることだろう。
 あまりにひねくれた考えと言われてしまうかも知れないが、この変化とイノベーションの時代に「劇場」だけがいつまでも「不変の価値を保つ」などと思い込むのはそれこそ時代錯誤のお笑い草である。

 一方、国民はその国民のレベルに相応しい政治家しか持つことができないという意味の言葉があったと思うけれど、劇場もまたしかり、なのだ。
 その国の本当の姿を知るためには、その国の文化芸術や劇場を見れば一目瞭然であることは確かだ。
 いろいろなことを考えてしまう。
 不思議ではないか。今にも消えてしまうという今になって大騒ぎする前に、世の演劇人とやらはその劇場のためにこれまで何をやってきたのだろうか。劇場がこの世界にとってなくてはならないのだと人々に知らしめるためにどんな働きかけをしてきたというのか。
 意見書を採択した渋谷区議会の議員さんたちはこれまでに何度これらの劇場に足を運んで舞台を観たのか。
 劇場の経営者は、将来の大規模修繕に備えて基金を積むといった努力を何故してこなかったのか。
 劇場建設のコンサルタントはいるけれど、劇場経営のコンサルタントがいないのは何故なのか。
 演劇評論家は数多くいるが、劇場評論家がいないのは何故なのか。
 劇場で過ごした時間が人生を豊かにしたと本気で語る人がいないのは何故なのか。
 世のビジネスマンたちは株価の上下に関心を持つように、何故昨夜の舞台の出来栄えを話題にしないのか。
 社会保障や消費税の動向と同じように、政治家たちは、人々は、劇場で上演される舞台作品のことを何故語らないのか。

 結局、教育の問題に行き着くのかも知れないのだけれど、演劇にとどまらず、芸術というものが、人生にとって、日常の生活にとっての必需品であることを知ることは、あらゆる人々にとっての権利なのだ。
 その権利を保障し、確認するためにこそ劇場はある……のかも知れない。
 すべての小中学生、高校生が月に一度は劇場で舞台を楽しみ、議論し、批評しあう時間を持つべきだ。
 あらゆる大学が、劇場に行くことをカリキュラムに取り入れるべきなのだ。
 新設大学の認可で物議を醸す前に、文科相にはやるべきことがある。

何のための文化政策か

2012-10-04 | 文化政策
 もう半月も前のことになるけれど、研修旅行で上京した福岡大学法学部1年生20名ほどの皆さんの前で私が関わった豊島区の文化政策について話をする機会があった。
 お世話になっているO教授の教え子たちなのだが、Oさんは、豊島区が廃校を活用した文化拠点づくりプロジェクトである「にしすがも創造舎」を中心とした地域再生計画を国に申請した当時、内閣府の企画官をされていたというご縁で、ここでの活動に興味を持たれ、機会あるごとに何かと助言や励ましの応援をしてくださっている。
 「にしすがも創造舎」をご自分にとっての地域再生の「一丁目1番地」といってはばからない方で、私にとって、同じ空気感を共有できる数少ない「仲間」の一人といってもよいだろう。(言い過ぎか……)
 
 とは言え、その日集まった福岡大学の学生の皆さんにとって、東京・豊島区などあまりに遠い存在でしかなく、そこでの文化政策の話など、興味の抱きようもないのではないか、とも思えたのだが、案の定、将来の就職先として東京をターゲットに考えているかどうかを尋ねたところ手を挙げた学生は皆無であった。
 それはそうだろう、北九州・福岡市は人口150万人に及ぶ大都市なのだ、その周辺で生まれ育った人々にとって、大阪、神戸、名古屋を通り越してわざわざ東京に職を求めて移り住むなどということは、想像すらあり得ないことなのかも知れないのだ。
 
 それはともあれ、今回の講義資料を作りながらの収穫は、10年ほど前に勉強のために読んだ中川幾郎著「分権時代の自治体文化行政」からのメモ書きを改めて読み直したことだった。
 その中でも、1970年代末の畑和埼玉県知事時代に提示された埼玉県における文化行政のキーワードである、いわゆる「埼玉テーゼ」は、今もなお一般に流布している文化行政の分かりやすい道しるべと言ってよいだろう。
 すなわち、「①人間性」「②地域性」「③創造性」「④美観性」の4つのテーゼであるが、これらの一つひとつが持つ真の意味合いは、80年代に入ってからの美術館や音楽ホール等の建設に代表されるハコモノ行政の波に呑み込まれ、さらにはその後のバブル崩壊や景気低迷の長期化のなかで撹拌され、希薄化し、雲散していった。
 しかし、これらの命題に込められた意味をもう一度深く噛みしめてみた時、そこには文化政策の本質的な意義がしっかりと内包されていると思えるのだ。以下、メモ書きから引用。

 「人間性」とは、市民のライフサイクルと日常生活の全体性をみつめることを基本としながら、多様な市民の立場に立った視点から、行政の改善や改革を図ることにつなげることを企図する。
 そこにおいて、地方自治の主権者としての自律性と統治能力をもつ市民像の追求と、行政と市民の協働方式の追求は同一線上にあるといえる。

 「地域性」とは、単に、地域の個性化を追求し、風土、歴史、産業、住民特性を重視した施策を展開するということではなく、地域のアイデンティティ(自覚された個性、独自性)の形成、開発までを射程に入れたものでなければならない。
 アイデンティティは、他者との関係性の中で形成されるものであり、他都市、世界諸地域との交流の活性化なくしては生まれない。
 異なった文化のふれあいが豊かな文化を生み出し、人々を生き生きとさせ、地域や都市を個性化させる。成功した「むらおこし」「まちづくり」は、この交流の視点を間違いなく重視している。
 個性化の視点とは、すなわち他者との交流による自己発見の視点にほかならない。

 「創造性」とは、前例や規制制度、縦割りの枠組みにとらわれず、自由な発想と積極的な提案を重要視することであり、そのためには、自治体自身が、政策主体として自立するという問題意識、危機意識が不可欠である。
 とりわけ、行政内部の意識開発を進める粘り強い仕掛け、創造的な提案を実際に着地させる仕組み、総合的な政策構築のための組織横断マトリックスが重要であり、加えて、市民意識の活性化への働きかけや市民からの政策提案を受け入れていく実際的な回路=市民との協働の視点が何よりも必要となる。

 「美観性」とは、地域の個性的な文化と、平均的な日本文化や世界共通の文化の地域内での流動性を高め、異化(個性化)と同化(共通化)の緊張関係を際立たせていくために、文化衝突や文化交流の活発な回路を意識的につくることにほかならず、これらをとおして優れた公共デザインや地域デザインが形成される。

 以上は、「行政の文化化」というものを考えるうえでの命題であり、30数年も前の考え方に違いないのだが、根底に流れるものは今もなお古びることなく、切迫性を伴って私たちに文化政策の有り様を問いかける。
 これらを忘れた文化事業は、それがいかに華々しくにぎわいを呼んだとしても、ただ空しいだけだろう。
 それが、あの日、私の前にいた20歳前後の学生たちの心にどれだけ響いたかは分からないのだけれど……。

私を文楽に連れてって

2012-07-02 | 文化政策
 6月30日付の毎日新聞に「大阪市 文楽補助金 全額カットへ」の見出しが躍っていた。
 大阪市の橋本市長が、公益財団法人「文楽協会」への補助金について、予算ヒアリングのため申し入れていた面会を人間国宝に拒否されたとして「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」と、全額カットする意向を表明した、というものである。
 市は今年度本格予算案に昨年比25%減の3900万円を計上しているが、市長は議会で可決されても執行しない方針という。
 一方、文楽トップの人間国宝、竹本住大夫さんは「面会の申し込みがあったとは聞いていません」と驚き、「こっちが会いたいです」と話した、とのこと。

 何かとてつもない行き違いか勘違いがあったのだろうか。何か言葉に言い表せないもやもや感が胸に残る。当の橋本市長はなぜこれほどまでに文楽を目の仇にするのだろう。
 もっとも府知事時代に大阪(現・日本)センチュリー交響楽団への補助金を全廃するなど、文化助成に大ナタを振るってきた人だから、文楽だけを狙い撃ちにしているわけではないのかも知れないのだが。

 この問題については、同じく毎日新聞6月1日付夕刊の特集ワイドで大きく取り上げられていた。
 これによると、当時、府知事だった時には一度見に来ただけで、「こんなんに3時間も4時間も座っているのはつらい」と切り捨て、「2度目は行かない」と言ったとか。その後、府知事は文楽協会への大阪府補助金3631万円の約43%を削減した。
 これに対し、多くの識者から批判の渦が巻き起こったのは周知の事実。その後、橋本市長は「文楽は守るが、文楽協会は守らない」と発言し、これまた波紋を呼んだとか。

 市長にとっては文楽も歌舞伎も落語もポップ系の歌手もアイドルも芸能人も違いはないようだから、公的に守るべき文化なんて青くさい論ははなから聞く耳を持たないのかも知れない。
 でも、この場合、圧倒的に権力を持っているのは市長の側なのだから、「特権意識にまみれた今の文楽界云々」という発言はいかがなものだろうか。

 もちろん様々な意見があって、文楽擁護派のコシノヒロコさんも文楽の素晴らしさや守るべき文化の大切さを訴える一方、文楽の側にもこれまで甘えがあったのではないか、観客を育てるという努力をしてこなかったのではないかと苦言を呈している。
 それは十分に理のある話で納得もするし、文楽界にもしっかりしろよと声もかけたくなるけれど、それにしても大阪市長は約267万人の人口を擁する大都市・自治体の代表であり、顔でもある。そうした立場にある人が自分の価値観を一方的に押し付け、その価値観で相手の矜持も培ってきた伝統も何もかも問答無用で捻り潰そうとするのは考え物である。
 自治も文化もケンカではない。ただ議論に勝てばよいというものではないのだ。

 いっそ若い世代に人気のある市長のことだ。それなら持ち前の弁舌とカリスマ性で若者たちに呼びかけてはどうだろう。
 「みんなで文楽を観に行こう! 文楽協会はけしからんが、文楽を観ないのは大阪人の恥や!」くらいのことは言ってもらいたい。
 たとえばそれで10万人の若者たちが呼びかけに応じて文楽のチケットを買って観に行ってくれたら、それだけでカットされた補助金くらいカバーできるというものだ。
 橋本市長はその功績によって我が国の古典芸能の救世主として永遠に名を残すことになるだろう。そうなればもう誰にもハシズムなどとは言わせない。
 「私を文楽に連れてってー」と皆で声高らかに歌うことにしよう。

福祉とアート

2012-06-25 | 文化政策
 「ある人がある朝、なぜエスプレッソではなくラテを飲むことにしたかを理論モデルにできるなら、経済の自動安定化装置をデザインでき、中央銀行は不要になる。が、経済は人間の感情を巻き込んだ複雑なシステムだ。経済の管理は科学ではなくアート(芸術)であり続けるだろう……。」

 これは、4月25日付の毎日新聞で専門編集委員の潮田道夫氏が紹介していた白川方明日銀総裁の演説の一部だ。金融政策アート論である。
 中央銀行への国民の信頼と支持は、インフレ目標のような機械的装置で獲得できる単純なものではない。誠実謙虚に政策に向き合う姿勢からしか生まれないからだ……。
 私は金融政策には全くのシロウトだが、こういった考え方には共感を覚える。
 何と何を掛け合わせれば公式どおりに答えが出る、というようにはいかないのが世の中の道理である。そうした人間の不可解さを含めて探求の対象とするのがアートであろう。
 せんじ詰めれば、人間や社会、世界全体、宇宙そのものを対象として真理を探究しようとする営為は何であれアートなのだ、と言ってよいのだろう。

 働き方研究家の西村佳哲さんの書いた「自分の仕事をつくる」という本の中に、イヌイットは雪を示す100種類の名前を持っており、それを使い分けるということが紹介されていた。私たち日本人はせいぜい5種類くらいだろうか。
 指し示す言葉の厚みは、その事象に対する感受性の厚みを示している……。
 さらに西村さんは、続ける。
 コンピュータ画面の色の表現能力はたとえば1670万色。
 パントーンという色見本帳は約1100色で構成されている。
 だが、これらは省略化された情報に過ぎず、その色見本によって逆に私たちの世界観は狭くなっている。
 イリノイ大学の実験では、人間が知覚可能な最高音と最低音の間にある耳で明瞭に区別できる音の数は1378音だという。
 だが、もちろん、それが全ての音であるというわけではないのだ。

 この世界には私たち人間が知覚することのできない色や音が無数にあり、それらによって世界は成り立っている。そうした世界の成り立ちを見極め、探求するのがアートなのである。
 今は世の中が複雑になりすぎて分業化が進んでしまったけれど、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代、科学と芸術は同義だったのだ。1枚の絵画を仕上げるために、彼らは、光と色彩を分析し、さらには人体を解剖し、その由って来たる所を探求し、再現しようとした。

 ある審議会に出席した時のこと、一人の民生委員の方に「文化とは何ですか? 芸術とは何ですか?」と問われて、しどろもどろに答えながら大汗をかいてしまった。改めて公式の場で問いかけられてこうですと明確に答える言葉を私は持っていなかった。
 やがてその方が言ったのが「私は福祉に携わる者ですが、福祉というのは文化そのものだと思うんですよ」ということだった。なるほど。

 NHKのEテレで紹介されていた、被災地の障害者の人々の芸術表現を支援するアーティストの語った「アートは福祉です」という言葉も記憶に残っている。

 たしかにそうだ、と今の私は確信する。アートは福祉であり、福祉はアートなのだ。
 障害者であれ、高齢者や要介護者であれ、貧困の中にある人々であれ、彼らを憐れみや施しの対象と見ることなど論外であるとして、彼らを単に支援の対象とするのではなく、文化芸術を享受する機会の提供などでもなく、彼ら一人ひとりが感情を持ち、声を発し、表現する意欲と動機と個性を持った人間として認め合うこと、表現のための共同の場を創り、ともに声を発し、互いに耳を傾けあうこと、そしてその声を世界に届けるための仕組みを作ること、それこそが今求められているのではないだろうか。

 いま、生活保護受給者に対するいわれなきバッシングが世上に広まりつつある。
 ほんの一部の不正者の行いが拡大報道され、非寛容な声が否応なく弱者の心を鞭打つ。不正を糺さなければならないのは当然だが、そのことによって真に受け止めるべき人々の声が封殺されることだけは何としても防がなければならない。
 後ろ指を指されるようにではなく、正々堂々と受けられる制度にしてください、というある母子家庭の母親の声が心に残る。
 私たちは耳を傾けているだろうか。

クオリアが形成される街づくり

2012-05-20 | 文化政策
 先月23日(月)のこと、「“西池袋”を刺激する! Ⅱ 準備セミナー『みどりの公園で街が変わる』」と題した催しに顔を出してきたのでメモしておきたい。
 NPOゼファー池袋まちづくり(劇場広場研究会)が主催し、立教大学、東京芸術劇場、池袋西口商店街連合会が協力機関として名を連ねるこのセミナーでは、いま改修工事中の東京芸術劇場が9月にリニューアルオープンするのに合わせ、劇場前の池袋西口公園、すなわち劇場広場で安心安全・美しく楽しい池袋西口を作る、そのためにどうすればよいのかを地域の人々と一緒に考えようというものである。
 宮崎雅代氏(NPO法人日本トピアリー協会理事長)、甲斐徹郎氏(立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科非常勤講師)、阿部治氏(立教大学ESD研究所長・社会学部教授)の基調講演に続き、東京芸術劇場副館長の高萩宏氏や主催NPO理事長の石森宏氏,副理事長の小林俊史氏が加わったパネルディスカッションが行われた。
 宮崎氏からは「トピアリーについて」、甲斐氏からは「緑化によるコミュニティづくりの効果について」の話があったが、このセミナーのミッションは、トピアリー(園芸辞典によれば「樹木を装飾的あるいは夢のある形に仕立てたものの総称」)を用いながら、池袋西口公園を中心に緑化を媒介として街全体を作り変え、「汚い・怖いイメージが強い/来訪客・学生が寄り付かない/ランドマークになり得ていない」という現状を劇的にイメージアップすることを目的とするものだ。

 その手法はともあれ、今回の話の中では甲斐徹郎氏の話が面白かった。
 まず甲斐氏は、緑化によって町全体を劇的に変化させ、商売を大成功させた事例として、熊本県北東部にあって27軒の旅館が連なる黒川温泉をたくさんの写真をもとにそのビフォー/アフターを紹介した。
 たしかに殺伐とした様子の町並みが、粘り強い取り組みの緑化によって激変し、入湯手形1000円で3軒の温泉をはしごできるといったアイデアも盛り込みながら、今では多くのリピート客が訪れる温泉街になっているという。
 ここから導き出されるキーワードとして甲斐氏が持ち出したのが「クオリア」である。
 
 クオリアという言葉は、茂木健一郎氏の活躍もあってよく知られるようになったが、簡単に言うと、「何々の感じ」といったところか。イチゴのあの赤い感じ、とか、空の青々としたあの感じ、〇〇を見てワクワクとするあの感じなど、主観的に体験される様々な質、などと紹介される言葉である。
 演劇や舞踊などの生の舞台芸術やライブの音楽演奏には、映像化されたり録音されて再現される複製芸術からは得られない感覚質が確かにある、その「感じ」といえばよいだろうか。
 甲斐氏によれば、ブランド名やヒット商品名など記号が並べられるだけの街と、クオリアが形成される街とは大きく違うのだという。
その違いが何かを一言でいうのは難しいが、記号によるデザインが消費の量で測られるとするならば、クオリアを形成するデザインは人の動きを誘引する。そのことによって単に人が増えるのではなく、ふれあいが増えていく。ふれあいながら、出会いながら、そのことが刺激となって、生活そのものが楽しくなっていく……。
 たしかにそんな街づくりが実現するならば、このうえないことではあるだろう。

 甲斐氏は、そうしたクオリアを形成する素材に満ち溢れているのがこの「西池袋」なのだと言う。
 第1に、劇場が発信する感性
 第2に、大学が発信する多様性
 第3に、人の行為を誘発させる緑
 第4に、商売と暮らしを統合することのできる経営者
 こうした要素が備わったこの地域には、大きな可能性が潜んでいると言うのである。

 さて、時間があまりにも少ないため、議論が熟するには至らなかったのが返す返すも残念でならないのだが、当の東京芸術劇場から何が発信しようとしているのか、発信することによって地域社会にどのような波及効果をもたらそうとするのか、そんな話を是非ともじっくり聞いてみたいところだった。

 経営学者の野中郁次郎氏によれば、「創造する力は単に個人の内にあるのではなく、個人と個人の関係、個人と環境の関係、すなわち『場』から生まれる」のだそうだ。
 この地域にはそんな「場」の遺伝子があると確信するがゆえに、多くの課題を抱えながらも、人と街がともに成長し、多様なクオリアに満ちた「場」へと発展することを切に願う。

若者はなぜ「就職」できなくなったのか?

2011-11-03 | 文化政策
 先月16日、池袋にある「みらい館大明」で新たに始まった若者支援事業の記念シンポジウムが行われ、「若者はなぜ『就職』できなくなったのか? ~生き抜くために知っておくべきこと」の著者である法政大学キャリアデザイン学部の児美川孝一郎教授を基調講演者、パネリストとしてお招きし、お話を伺った。

 グローバル経済の進展のなか、1990年代後半以降、企業は新規学卒採用を大幅に縮小し、正社員を非正規雇用に置き換える取り組みが進んだ。もちろん政府による規制緩和という後押しがあってのことである。
 それは企業内教育への投資の縮小をも意味するが、同時に社会的には子育て・養育・教育を放棄する家庭の問題や、他方で、「教育家庭」でありすぎるがゆえに子どもをスポイルしてしまう家庭の問題もまた顕現化してきた。
 また、学校においては、高校進学率98%、大学進学率54%を達成するも、実質的な教育の空洞化が進み、若者にとってはいつの間にか生きづらい社会が出来上がっていたのである。
 これまでの制度や慣行の解体の影響をストレートに受け、未曾有の世界を生きる今の35歳以下の若者を取り巻く状況を児美川教授はいくつかのキーフレーズにまとめている。
 それは、新卒一括採用の縮小であり、日本的雇用の縮小・解体であり、セーフティネットの底抜け、貧困・格差、将来展望の閉塞、非婚・非産、リスクの個人化といったことである。
 これらに対し、親世代は、自らの時代の常識や標準を子世代に当てはめてしまう。その結果、子世代の意識や生きづらさを理解できないのだ。
 事実、私が読んだ中小企業化同友会のレポートにも、学校関係者の話として、学生にいわゆる中堅・中小企業への就職を紹介すると、親から学校にクレーム殺到するとあった。

 これらのことは、子どもや若者たちの大人への移行の長期化・複雑化とともに、不安定化、困難化をもたらし、彼らはますます個人化し、現在享楽志向や「親密圏」への退却を余儀なくされている。
 子どもと若者は社会の貴重な資源である。「宝」といってもよい。その彼らがまっとうに生活し、働いていく場を作れないのであれば、この私たちの社会に持続可能性などない。
 急務となる喫緊の課題は、「家庭・学校・企業(正社員)のトライアングル」からこぼれ落ちた層の支援であり、そこに地域社会(コミュニティ)の役割があるのではないかというのが児美川教授のお話であった。
 大人社会全体の責任として、家庭も学校も労働市場も企業もまた変わる必要があるのだ。では、どこから始めるか。

 「みらい館大明」では、若者支援の取り組みとして、地域社会を取り込みながら、生涯学習やアートの視点からアプローチする試みを始めようとしている。
 池袋という街は、もともと多様で雑多なもの、多くの若者たちを受け入れ、育んできた街だった。
 長崎アトリエ村、池袋モンパルナス、トキワ荘……。
 美術学校に通う学生、無名の芸術家、マンガ家、演劇人等々、若者たちはこの街をインキュベーター装置として自らの道を発見し、才能を磨き、刺激し合い、影響し合いながら育っていったのである。
 石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄・・・、トキワ荘時代にはその誰もが20歳そこそこの若者だった。すでに大家だった手塚治虫ですらまだ20歳代の若者だったのだ。

 そうした芸術の道をめざす若者たちはもとより、あらゆる人々が自由に集まり、交流し、人生を豊かにすることについて語り、学び合うような場をつくりたい、というのが私の夢でもある。
 大切なのは、本当の問題を発見していく能力である。
 アートをとおして、本質を見つめ、物事の成り立ちや構造を発見し、再構築していく力を身につけることができるのではないか。
 
 これまで行政が取り組んできた就業支援施策の多くは、ハローワークと自治体が共同した企業との面接会やマッチングであり、さらにはセミナーを行い、自己アピールの仕方、履歴書の書き方、面接技法などを教えるといった取り組みである。そこでの成果指標としては、面接会への参加者数や実際の就業者数がカウントされる。
 だが、そのことが若者にとって本当の支援になっているのか、根本的課題解決、自立につながっているのか、ということを改めて考える必要があるのだろう。
 
 若者たちがいかにエンパワーメントを身につけ、多様な価値観や生き方を身につけることができるか、ということこそが問われるべきではないのか。
 生涯学習、アートを通して、新たな働き方や自分なりの生き方を発見してほしい、と思う。
 そのための場、学習の場であり、発表の場であり、交流の場を地域の様々な場所に展開し、それらが好循環を生み出しながら豊かな社会を創り出していく、そんな時代のくることを夢見たい、と思うのだ。


東京のイベント力 

2009-10-01 | 文化政策
 今週発売の週刊「東洋経済」の特集は「大解剖!東京の実力」である。
 今週末にも決定する2016年のオリンピック・パラリンピックの招致に絡めながら、東京の実力をさまざまな観点から評価している。

 その中の記事「東京マラソンを成功させた東京のイベント力」は、「東京マラソン」、「熱狂の日音楽祭~ラ・フォル・ジュルネ」、「東京国際映画祭」を取り上げ、それぞれの仕掛け人たちのインタビューを織り交ぜ、他都市でのイベントと比較しながら査定するものだ。

 「東京マラソン」はこれからのビジネスモデルを考えるうえでの事例として神田昌典著「全脳思考」の中でも取り上げられているほどの成功事例といえるだろう。
 「熱狂の日音楽祭~ラ・フォル・ジュルネ」はクラシック音楽を人々に身近なものとすることを目標として、100万人規模の集客に成功している。
 これらに比べて今年22回目を迎える「東京国際映画祭」はやや旗色が悪いかもしれない。
 世界の名だたる映画祭と比較すると、これといった特色がなく、集客の面からも見本市的な意味合いからも後発の韓国・釜山映画祭にすらすでに後塵を拝しているという論調である。
 
 集客が評価の全てでないことは当然のことと認識されているとは思うのだが、それはそれとして気になる新聞記事があった。
 映画祭の出品作の一つに日本のイルカ漁をとらえた米国の記録映画「ザ・コーヴ」が決まったのだが、本作は、動物愛護者等の声を喚起し、物議を醸した作品でもある。
 その上映にあたって、東京国際映画祭側が「何かことが起きても映画祭には責任がない、制作者側が責任を持つ」という文書を取り交わしたというのだ。
 トラブルを怖れたとしても、映画祭の主催者がそのような取り決めをするようなことで、本当に信頼される映画祭たり得るのかというのがこの記事の主張である。
 リスクを負わないことは多額の資金を扱う制作者サイドから言えば当然のことなのかも知れない。しかし、それにしてもあまりに信念や理念がなさ過ぎやしませんかというのだ。

 さて、演劇はあまりにもマイナーなようで、東洋経済誌には取り上げられていなかったのだが、上記と比較してみた場合、我らが「フェスティバル/トーキョー」の制作者の姿勢はあらゆるリスクを引き受けてアーティストの表現を守るという姿勢に貫かれている。深く敬意を表する所以だ。

 別の新聞記事では、横浜開港150周年記念イベント「開国博Y150」が閉幕したが、157億円をかけたイベントは有料入場者数が目標の4分の1にとどまったことが紹介されている。
 入場券は金券ショップで半額、主要テナントが会期途中で撤退、ステージショーの観客がたった数人・・・。
 「目標500万人」だけが独り歩きし、目標の達成可能性や収益性を適切に判断するリーダーが不在のまま走り続けてしまった、とその記事は締めくくっている。
 副市長が責任をとって退任したとか、前市長の責任論が浮上しているとかいろいろに言われているけれど、巨大イベントというものの怖ろしさが垣間見える。
 文化イベントやフェスティバルの本当の意義は何なのか、私たちはしっかりと見据えなければならない。

 新型インフルエンザが猛威をふるい、東京ではついに「流行注意報」が発令された。
 さまざまなリスクが存在する。それらを回避できればそれに越したことはないのだが、人間の力には限界がある。
 それでもやるべきことを全力でやり遂げるのが私たちの使命である。
 冷静さと熱気をともに保ちながら、とにかく前に向かって歩くしかない。

出番を待ちながら

2009-08-28 | 文化政策
 25日付、毎日新聞夕刊に高橋豊専門編集委員が「考えさせられる引退俳優らの老後――『芸能人年金』も存続困難に」という見出しで文章を書いている。
 引退した女優のための慈善ホームで繰り広げられるドラマ、ノエル・カワード作「出番を待ちながら」の舞台や、南フランスの俳優専門の老人ホームでの人間模様を描いたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の名作映画「旅路の果て」の話題にふれながら、このたび廃止が決定した社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の芸能人年金共済制度(芸能人年金)について問題提起するものだ。
 この制度がスタートしたのは1973年4月。芸団協所属団体の会員と配偶者が加入できる私的な年金制度であり、いわゆる「退職金」がなく老後の生活の保障もない実演家にとっては貴重な支えとなるものであった。

 これが廃止に追い込まれる事態となった契機の一つが3年前の改正保険業法施行で、金融庁などがこうした私的な制度も規制の対象にすると判断したため、継続が難しくなったという。
 芸団協専務理事で俳優の大林丈史氏は、収入が不安定な芸能人のために柔軟な運営をしていたこの制度が廃止せざるを得なかったことについて「とても口惜しい。国はなぜ、私たちのようなささやかな『助け合い年金』まで廃止に追い込むのだろうか」と語っている。

 文化芸術の社会的な意義や明るい側面にばかり目が行きがちで、それを担う実演家、アーティストの生活面にまで配慮の行き届かないのが現状である。
 文化立国といい、ソフトパワーの重要性が喧伝されながら、そうした面が欠落しているのはまさに文化政策の貧困であることの証左なのかも知れない。

 先週20日、イデビアン・クルーの公演、井手茂太振付・演出「挑発スタア」のプレビューを見に「にしすがも創造舎」に行った際、アートNPOの代表Iさんと短時間だが話をする機会があった。
 Iさんはわが国の文化予算が決定的に少なすぎることを指摘したうえで、こうした状況を変えるには政治を変えるしかないと考え始めていると言う。
 まず、文化庁の予算を4倍に増やし、そのうちの半分を国内から選定した100の文化施設に配分する。そのうえで各文化施設がアーティストを雇用し、作品の創造・発信や市民向けワークショップを展開するようにすべきだと言うのである。
 現状における文化庁の助成制度は、個々のアーティストや劇団が企画を提出して採択されたものに対して事業予算の一定割合が助成される。
 そのなかからアーティストや劇団は会場使用料という形で各文化施設に経費を支出するのである。
 つまり、カネの流れがまったく逆になっているのが今の姿であり、これではいつまで経っても腰をすえた本当の意味での創造活動や文化施設が拠点となった文化発信などできはしないとIさんは言うのだ。
 その話に深く同感しながら、いまの政治状況は、はたまた来るべき政権は、どのような方向に風を吹かせるのかと考え込んでしまう。

 先週末の旅の間、東京芸術劇場副館長の高萩宏さんが書いた「僕と演劇と夢の遊眠社」を読んでいた。
 これは80年代に急速に成長し、90年代の初めに解散した劇団の歴史を制作者の視点から綴ったものだが、それは同時に、一人の制作者が先の先まで見通したビジョンもないまま、闇夜に10メートルほど先までしか見えない灯りを頼りに必死に道を切り開きながら歩んできた苦闘の歴史でもある。

 印象的な部分を引用する。
 「あのころ、僕はいつもトンネルの中にいるようで『この課題を片付けたら明るいところに出られる、そしたら落ち着いて全体のことを考えよう』と思いながら前へ前へと走りつづけていた」

 そこには、芸術とビジネスの問題、組織を持続することの課題、芝居で生活することの困難さ、舞台芸術の社会的意義など様々な論点が示されている。
 興味深くとても面白い本である。

ハコモノ批判?

2009-08-06 | 文化政策
 たまに地方新聞のようなものに目を通す機会があるのだが、これが結構面白かったりする。
 8月5日付の週刊「新宿区新聞」がそうだった。
 この日記では政治がらみの話はしないのが原則だが、お許しいただくとして、そのコラム欄に次の一文があった。

「『アニメの殿堂』?税金の無駄ですね。だけどやめられない。なぜか?官僚が決めているからです。今の与党は官僚のいいなり。だから政権交代が必要です。」野党のある若手候補の演説マニュアルだそうだ。「政権交代」「脱・官僚」を言えば七面倒くさいマニフェストは不要だ。

 国立メディア芸術総合センター構想が、すっかり政争の具になっていることが鮮明に読み取れる。
 青木保文化庁長官は「アニメ・マンガから映像作品や工学的な技術とアートを結びつけるテクノ・アートなどメディア芸術は、その先端性と魅力ある作品で日本が世界に誇る文化芸術である」と言っている。
 そのうえで、アニメ・マンガ分野を継承する人材の問題など難題が多いことを指摘しつつ、創造性と発信性を維持発展させるためには常に対策が必要であり、メディア芸術の中心となるような施設・機能の設置も視野に入れるべきとしているのである。
 しかしながら、『国営のマンガ喫茶』なる言葉の前にそうした理念がすっかり霞んでしまって、まともな議論のできなくなっているのが現状なのである。

 同紙では、閉館された「新宿コマ劇場」跡地の問題がクローズアップされ、地元商店街の会長さんたちや新宿区長の座談会の様子が掲載されている。
 ある商店会長の言葉。
 「コマ劇場が閉鎖されて劇場には文化的な価値や、人を引きつける魔力があることを改めて再認識した。コマ劇場はやはり、歌舞伎町のシンボルだった。採算性から東宝は劇場について消極的だ。だが、私は劇場の雰囲気は大切だと思う。」
 このくだり、なかなかの文化論になっていて全部を引用したいくらい実に面白い。
 歌舞伎町の再生に向けての繁華街のあり方や風俗、文化、ギャンブル論など、さまざまな論点が出席者の議論によって展開されている。

 さて、ちなみにこの新聞が取材対象としている地区は今や最注目の選挙区であり、テレビ報道でも主要な二人の候補者の動向が特集されていた。
 その一方のK氏だが、政府の補正予算について「それこそバラ撒きの典型だ。ハコもの整備に3兆円、基金積み増しに4兆円と、これだけで補正の半分以上を占める」と手厳しい。その「ハコもの」にはメディア芸術総合センターも当然含まれているのだろう。
 だが、コマ劇場跡地問題についてK氏は、「歌舞伎座」をつくるのが一番だと思う、とのこと。
 あれあれ、これも「ハコもの」だとは思うのだが、選挙戦ではややこしいことをつべこべ言わないのが礼儀なのだろう。

ボランティアという思考

2009-07-09 | 文化政策
 5日、「にしすがも創造舎」を会場として行われた豊島区の文化ボランティアセミナーの一環として行われたシンポジウム「文化ボランティア活動の可能性」に機会があって参加した。
 「文化ボランティア」という言葉は昨年亡くなった前文化庁長官の河合隼雄氏が普及させようとして造った呼称なのだけれど、何が「文化」で何が「ボランティア」かというのは人それぞれに解釈や理解が異なり、それをひと括りにして語ろうとすると意外とややこしい話になる。この日出席していたパネラーもそれぞれの立場で異なった活動をされている方々である。
 このセミナーにしても文化ボランティアの育成を目的としているようなのだが、この日のシンポジウムはともかく、それを座学として「学ぶ」という設定は難しい、というか少しポイントがずれているのではないかと思ったりもする。

 さて、パネリストの方々は、「原爆の図丸木美術館」学芸員の岡村幸宣氏、池袋の廃校となった小学校を地域の活動の場「みらい館大明」として転用、その運営を担うNPO法人いけぶくろ大明理事長の杉本カネ子氏、(株)ヌールエデザイン総合研究所代表で「目白バ・ロック音楽祭」実行委員長だった筒井一郎氏、読み聞かせ活動を展開する「ドラマリーディングの会」代表の福元保子氏など多士済々である。
 
 会場からは、ボランティアの人々は、本来行政が担うべきことを体よく代替させられているだけなのではないかとの質問もあったが、おそらくそうではないだろう。
 もちろん「文化ボランティア」そのものの解釈に人それぞれ違いがあるように、実際の活動の様相も形態も異なりはしても、パネラーの発言から伺えるのは、誰もがしっかりとした目的意識を持ち、そこに社会的意義と自己実現を結びつける「物語」を持っているということだ。
 そうしたなか、「目白バ・ロック音楽祭」を企画運営していた筒井氏のからは何度も事業計画という言葉が聞かれた。営利目的でないとはいえ、1億円規模での事業を運営する場合、そこには冷徹なビジネスセンスが求められるのである。
 それはもう行政の思惑などはるかに超えた公的存在としての確固とした意義を有するものである。

 最近読んだビジネス書、神田昌典著「全脳思考」のなかに次のような一節があり、シンポジウムでの話を思い浮かべながら深く感じるものがあった。以下引用。
 「今までメインストリームではなかった存在を中心に据えることにより、思考の枠が広がり、今まで考えつかなかったことが不思議なくらい簡単な、しかも効果的な解決策を生み出すことができるようになるのではないか。
 私はそうした考えから、いくつかの社会福祉法人を訪れたことがある。(中略)
 そこで衝撃を受けたことのひとつは、社会福祉法人の経営者は、通常ビジネスで名経営者と言われている人の、何倍も優秀であることだった。障がい者のための作業所を設立するために、もらった賞与はすべて寄付してきた元教師。何年も街頭で募金を呼びかけ、バザーを開催してきた元OL。
 困難をものともせず、なすべきことを実行し、必要なことを実現していた。
 発想力、そして行動力に溢れた大変魅力的な人たち・・・(中略)
 共同作業所で働く障がい者の平均給与は月給1万円程度。そうした中で月5万円、7万円と支払えるように大変な工夫をしている。
 (中略)正直、不況だとあえいでいる通常のビジネスが、ぬるま湯につかっているとしか思えないほどのショックを受けた。」

 文化ボランティアあるいは福祉ボランティア、もしくはNPOなど、どういう組織形態だろうが、どう呼ばれようがかまわないのだけれど、これまでとはまったく違った視点から社会的問題の解決に取り組む人々の存在がこれからの社会には絶対的に必要なのである。
 彼らと話をしながら、私はそのことを確信する。



国立の? マンガ喫茶?

2009-07-02 | 文化政策
 国立メディア芸術総合センターをめぐる議論がかまびすしい。
 その是非については、税金の無駄遣いとして政権与党を批判する勢力や政権内にありながら「国立のマンガ喫茶」と揶揄した元大臣のみならず、アニメ界など関係者の間でも意見が分かれている。

 なぜこうした事態になったのだろう。安倍政権の頃から検討されていたというなら、今このタイミングで、しかも補正予算という形で出された理由は何なのか。
 117億円という予算規模を桁外れのムダと見る向きもあれば、テーマパークのアトラクション1個程度に過ぎないこの予算で何ができるのかと疑問視する意見もある。

 最近は頻繁にこの話題が新聞に載るものだから、様々な意見があるものだと思うけれど、どれも一理あって、読むたびにそうだなあと頷くばかりで我ながら誠に情けない。
 里中満智子氏の言うように、すでにその多くが失われたばかりか、劣化が著しい原画を保存・修復することの意義や、海外で海賊版が出回るなか、この施設によって著作権者は日本にいるとアピールすることの必要性を訴える意見には説得力がある。
 その一方、現場は疲弊しており、作品を制作できなくなりつつある状況下で、発信・アーカイブに予算を投入しても意味はないという意見の切迫感も胸に迫る。

 日本動画協会によれば、動画の仕事の9割超は海外に流出しているというし、国内の制作会社では、1人あたり年間300万円の売り上げしか確保できない状態だという。
 今の日本では新人育成のための土壌がやせ細り、すでに若手が育っていくというシステムが壊れつつあるのだ。
 こうした事態は他のものづくり産業とも共通した構造にほかならない。
 かつては漫画を読むとバカになると言われ、悪書扱いにされ焚書まがいの運動まであった時代と引き比べるとまさに隔世の感があるのだが、国家レベルでそれを守ろうと考え始めた時、すでにそれは衰退の道を辿り始めているのかも知れない。
 本気でメディア芸術を発展させようとするのであれば、しっかりと議論し、課題を明らかにしながらその克服に向けて総力をあげて取り組むべきだ。
 結局、この施設を作って国が何をしようとしているのかが伝わってこないということに問題があるのではないだろうか。

 近年、各地域でマンガやアニメを核とした「街おこし」が盛んになりつつある。
 それらは単に海外でも評価の高いアニメやマンガを観光の目玉にすえて人集めをしようということかも知れないのだけれど、せっかくの機会である、人材を育て、産業として成り立つような創造環境をいかに整備するかということについて真剣に考えたいものだ。

虚と実

2009-03-17 | 文化政策
 米国の美術館、博物館などのミュージアム数は現在およそ1万7千500といわれる。ほとんどの施設を非営利の民間法人が設立・運営している。
 収入の基盤となるのが個人、企業、団体からの寄付であり、運営費のおよそ35%を賄っている。寄付集め専門の職員をかかえる施設も多いとのこと。

 そうしたなか、金融危機後の急速な景気悪化を受けて寄付金が大幅な減少となり、多くの美術館が深刻な運営難に陥っていると報道されている。
 施設によっては、スタッフの大幅な解雇やコレクションの売却までも浮上しているそうで、米国博物館協会では、「公共性の高い美術品の売却は美術館の倫理に反する」との反対声明を出すなど、関係者は必死の戦いを強いられている。

 2月4日、東京芸術劇場で開催された国際シンポジウム「今日の文化を再考する」では、著書「超大国アメリカの文化力」の邦訳が刊行されたばかりの仏の社会学者フレデリック・マルテル氏を招き、巨大な資金力を武器にして文化帝国主義とも揶揄されがちな米国文化のシステムについて話を聞いたばかりだが、「100年に一度」ともいわれる経済不況の津波の中で、そのシステムはどのように変化しようとしているのか。

 ある宴席でのこと、お世話になっているS大学のG教授に今般の経済危機が文化政策に及ぼす影響について訊ねたところ「今度の危機は古い経済システムが壊れようとしているのであって、未来のシステムである文化政策に影響はない」との力強いお言葉。でもそれはいささかお酒も入ってテンションが相当にハイになってからのご託宣であり、心配性の私は気が休まらない。

 さて、また別の宴席でのこと。時には敵対する関係にありながら、その眼力には尊敬の念を抱いているある方と話をした。その方いわく、自分は文化には門外漢であるというのだが・・・
 「虚実というくくり方をするならば、文化は虚業に過ぎないのではないか。大半の一般大衆は実業しか信用しないだろう。小さな政府にしろ、大きな政府にしろ、虚でしかないものに税金を投じるべきではない。そうした声のあるなか、虚に過ぎないものを実のあるものと信じさせるために文化政策の担い手たちは、文化がこんなにも生活に役立つものであるとか、経済力を喚起するとか、街に輝きをもたらすとか、言葉を尽くして実と結びつけるよう懸命に取り繕っているのではないか」

 これに対してどう反論しよう。

 経営コンサルタントの堀紘一氏がある雑誌でこんなことを言っている。
 「世界中の人が汗水たらして働いて稼ぐGDPは約5千兆円に過ぎない。世界第2位の経済大国といわれる日本のGDPでも約5百兆円しかない。しかし実需に結びつかないヘッジファンドなどが動かしている資金は、日本のGDPの10倍以上の6千兆円もある。だけど実際には6千兆円なんて金は、どこにも存在していない・・・」
 
 経済こそ「虚」あるいは「幻想」に過ぎないのではないだろうか、と悔し紛れに私は口走る。

 何を虚とし、何を実と信じるのか、それは人が皆それぞれに抱く信仰のようなものなのではないか。
私たちが本当に見出すべき「価値」はそうしたところにはないはずなのだ。

 米国のある美術館では、多くの観覧者や観光客を引き付けるために展示室を削ってショップや高級レストランを誘致したり、寄贈者となる金持ちの未亡人の歓心を買うための企画や寄付金を原資とした投資に憂き身をやつし、奔走することもあるという。
 それがほんの一部の極端な例にすぎないにしても、報道にあったような現下の米国における美術館・博物館の運営の危機が、そうした虚飾をそぎ落とし、旧来の文化システムを破壊して、芸術作品が本来的に有する価値や存在意義を顕わにする役割を果たすことになるのであれば、それは逆説的な意味で歓迎すべきことと言えなくはないように思える。

日本の文化システム

2009-02-06 | 文化政策
 2月4日、東京芸術劇場中ホールで行われた国際シンポジウム「今日の文化を再考する―米国・フランス・日本の文化システムを巡って」を聴講した。今月末から開催されるフェスティバル/トーキョーのプレ・オープニング企画である。
 このたび「超大国アメリカの文化力」(岩波書店)の邦訳が刊行されたばかりの仏の社会学者フレデリック・マルテル氏と元仏文科相ジャック・ラング氏を招き、詩人・作家の辻井喬氏と劇作家・演出家の平田オリザ氏がパネリストとして参加、外岡秀俊氏が進行、根本長兵衛氏がコーディネーター役を務めた。

 この手のパネルディスカッションではどうしても日本側は旗色がよろしくない。そもそも日本に文化システムなんてあったの?なんて疑問も出てくるほどで、他国の事情を拝聴しながら溜め息を漏らすというのがいつものパターンである。
 平田氏も「このシンポジウムのタイトルはおかしい。米国・フランスの文化システムとシステムレスの日本を巡って、ではないか」と悔し紛れの軽口を放っていた。
 ディスカッションの肝は他国の文化システムは果たして移管できるのか、ということだろう。文化は否応なく他国や異文化の影響を受けながら発展するという性質を持つ。これに対してシステムは、歴史や地域性に根付いたものでなければ発展しない。
 結局、いくらうらやましいと思っても、米国やフランスのシステムをそのまま真似たのでは日本には馴染まないということになる。
 しかし、後進国日本の有利な点は、他国の成功例や失敗例を見てそれを批判的に取り入れることができるということなのである。まだまだ、諦めるには及ばないだろう。

 会場には平日の昼間というのに、熱心な聴衆がいっぱいに詰め掛けていた。その様子を見ながら根本氏が「これだけ文化に関心のある人々がいるのに、政治状況が一向に変わらないのは何故なのか」と問題提起していた。
 政治にはもう期待できないとの声は確かにある。しかし、文化芸術への寄付税制にしろ、教育システムにしろ、最終的には政治に拠らなければ変えることはできない領域である。
 期待するしかないではないか。
 そうした政治状況を変える力を私たちが持てるのかどうかということが、問われているのかも知れないのである。