seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

思い出したくない夢の話

2022-08-18 | 日記
最近、眠りの浅い日が続いていて、そんな時に夢を見ることが多い。
つい先日は、過去の自分がしでかした、それこそ穴があったら入りたくなるようなある失敗を夢の中で繰り返した、というか、思い出してあたふたとしてしまった。
その日の午前中いっぱい、そのことを思い出しては自己嫌悪に陥っていたのだが、不思議なことに、夕方になってよくよく考えてみると、それが一体どんな出来事で具体的にどのような失敗だったのかをすっかり忘れているのである。

ああ、失敗した、困った、という確かな感触だけがあって、そのぬるっとしたイヤな手触りに追い立てられるような気がしていたのだが、それが実際にどんなことだったのかを完全に忘れてしまっているのである。

これをどう考えればよいのだろう。
人間は忘却する動物だということなのか。忘れるからこそ生きながらえるということがあるのかも知れない。あるいは、実際には何も起こらなかったし、そんな大それた失敗は何もしていないのに、どこかで見聞きした映画やドラマでの出来事を単に自分のこととして刷り込んでしまったことが夢枕にあらわれたということなのかも知れない。それだけのことなのだ。

家族にもそんな話をして、この悪い夢を他愛のない一夜の笑い話として処理しようとしたのだった。
ところが、である。こうしてここまで書いたところで突然思い出してしまったのである。

あの出来事は夢などではなかった。
それどころか、あれは心に深い傷を残すほどの完全な失敗としか言いようのないもので、その場で収拾がつかなくなり、追い詰められた私がどうやって収まりをつけたのか、今では思い出したくもない暗黒の記憶なのである。
どうやら自分のなかでは思い出に蓋をして決着をつけたつもりになっていたようなのだ。それが何かのきっかけで夢の形をとって顔を出したということなのか。
もちろん、それがどんな出来事だったのかをここで明かすわけにはいかない。それは私の名誉に関わることだからである。

……とまあ、こんなささやかな夢の話から始まるミステリードラマを構想することはできないだろうか。

誰にも言えないある秘密を抱えた主人公が、夢の中でその秘密に復讐される話である。
その秘密が何なのか、ドラマが終わるまで分からないままなのだが、疑心暗鬼に陥った主人公は、周りの誰もかれもがその秘密をタネに自分を亡き者にしようとしているという妄想に憑りつかれてしまい、最も親身になって心配してくれていた友人を衝動的に殺してしまう。
彼は刑務所の独房の中でようやく安息の時を取り戻すのだったが、今度はその友人の亡霊の影に脅かされることになる。彼はその影に向かって叫ぶのだ。自分の隠された秘密を。
……気がつくと、彼はとある病院のベッドの上にいて、自分が殺したはずの友人や医師の前で自分の犯した罪について告白をはじめる。その話を聞きながら、友人と医師はそっと目くばせするのだった。
それは友人と医師がたくらんだある犯行の現場を目撃した主人公が、そのことをすっかり忘れてしまっているばかりか、彼自身がその犯罪に手を染めたと思い込んでいることを確信した合図でもあった。
その友人たちにとって、主人公の彼はまだまだ利用する価値のある操り人形なのである。



こんな話は目新しくもないし驚きもないと思われる向きも多いことだろう。
しかし、昨今の要職にある人々の記憶喪失ぶりや、改ざん、捏造、はぐらかし、責任転嫁、フェイクの垂れ流しなどの体たらくを見るにつけ、このドラマが何らかの教訓にはならないものだろうかと思うのだけれど、どうだろう。
だって、本当のことを言わないままでいるって、とてもつらいことでしょう?

「千羽鶴」を読む

2022-08-14 | 読書
読書というものは不思議なもので、むかし途中で投げ出したまま、どうしても読めなかったものが、ちょっとしたタイミングで読み直したらとても面白かったという体験は誰もが思い当たることではないだろうか。
私にとって、川端康成の「千羽鶴」がまさしくそうで、それこそ大昔、中学を卒業して高校に入学する前という中途半端な精神状態の時に読み始めたのだが、ついに読み切れずそのままになってしまっていた。

もっともこの小説をその年齢で理解しろというのがそもそも無理なことだろう。今頃になって再会できたのはかえって良かったのかも知れないのだ。

登場人物は、三谷菊治という会社勤めをしているらしい20代半ばと覚しき青年を中心として、彼を取り巻くのが、かつて菊治の父の愛人だった茶の師匠栗本ちか子であり、ちか子が仲立ちする形で紹介され、のちに菊治の妻となる令嬢ゆき子、さらにはちか子の後に父の愛人となり、父の死後、ちか子が主宰する茶会での再会後、菊治と道ならぬ関係となる太田夫人とその娘文子である。
その彼らの織りなす愛憎劇を志野と織部の茶器が静かに見つめる、というのが大まかな構成である。

愛と欲、未練と諦念の入り組んだ人間関係のなかを行き来する茶器は、何百年もの間、数多の人の手に渡り、愛されながら、人々の運命をその冷たくもあり、なまめかしくもある肌理のうえに映し出し、見つめてきた。
その茶器をある種の狂言回しとして、菊治と彼を取り巻く女たちの運命が描かれる……。

茶器は茶器そのものとして、ただそこに在ることで、それを所有し、触れる人間の懊悩や欲望をしずかに映し出す。その冷然とした光にあぶり出された自身の宿命に抗いきれない人間たち。
ある者は自ら命を絶ち、ある者は姿を消そうとし、ある者は断ち切れない思いを抱えたまま、引き裂かれた愛のはざまに沈み込んでいく。

太田夫人と娘の文子、菊治の妻となるゆき子らの姿はどこか抽象的であり、無機質な美しさを有した現実離れしたものとして描かれるのだが、そこに対置されるのが茶の師匠、ちか子である。

下世話で現世的な知恵と狡猾さを持ち、好悪や身のうちにわき起こる憎悪の感情を隠そうともせずに他人の心の中にまでずかずかと入り込んで平然としたその姿は、川端の筆によって見事なまでの実在感を与えられている。
ちか子の存在は、シテが舞う厳粛な能舞台に乱入した狂言師のような滑稽さをまとっているが、その姿が生々しい現実感を伴って描かれるほどに、彼女に翻弄されるような主人公たちの美しさはより抽象度を増すように感じられるのだ。

「千羽鶴」は5つの短篇からなり、その続編「波千鳥」は3つの短篇で構成されている。
それらは昭和24年から数年にわたっていくつかの雑誌に分散発表された作品がまとめられて長編となったもので、こうした連作形式は「雪国」や「山の音」にも共通する書き方である。
戦後のこの時期にはすでに書き下ろしで長編を発表する方法もあったはずなのだが、川端にとってはこの連作方式が体質に合ったものだったのだろうか?

それはそれとして、本作は創作ノートが盗難に遭うという不幸によって中断を余儀なくされたものとのことだ。
この先、菊治とゆき子夫婦と姿を消した文子の運命がどのように展開するのか、そしてそれを川端がどのように構想していたのか、興味は尽きない。

今日は何の日?

2022-08-04 | 日記
今朝6時頃に目が覚めて、ぼんやりラジオを聴いていたらNHKで「今日は何の日」というコーナーをやっていて、いついつの今日はこんな出来事がありましたという紹介をしていたのだが、その中で、渥美清(以下敬称略)の亡くなった日というアナウンスが聞こえてきた。
26年前のことで、享年68歳だったというので驚いてしまったのだが、そんなに若かったのかというのが率直な感想である。

渥美清といえば「男はつらいよ フーテンの寅」を思い出すが、その最晩年の姿は病気のせいもあって痛々しく、もっと齢を取っていた印象だったので、まだ68歳だったということには虚を衝かれたようでうろたえてしまった。

ちなみに今年は川端康成の没後50年でもあるのだが、川端は沖縄が日本に返還される前の月に亡くなっている。享年72歳で、ノーベル賞受賞の時には68歳だったのだ。
当時の映像を見るともっと齢を召されていた印象だったので、そのギャップにはいささかたじろいでしまう。

ちょっと話は飛躍してしまうけれど、先日、吉田拓郎が“一旦”卒業宣言というのをやって、テレビでは、kinki kidsと吉田拓郎がMCを務めて人気だった「LOVE LOVE あいしてる最終回・吉田拓郎卒業SP」というスペシャル番組が放映されていた。

吉田拓郎といえば、多くの世代に多大な影響を与えたばかりか、日本のポップス界にも測り知れない功績を残しているシンガーソングライターだが、その彼は今年76歳になる。

今から26年前、渥美清が亡くなった年の10月に「LOVE LOVE あいしてる」が始まったのだが、川端康成の没年である1972年に吉田拓郎は「結婚しようよ」や「旅の宿」を大ヒットさせ、一躍メジャーな存在となっている。
さらにその2年前、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた1970年に吉田拓郎は「今日までそして明日から」を歌い、すでに知る人ぞ知る存在だったのだ。

何かを言いたいのではなく、何か新しいとこが見つかるわけでもないのだが、こうして比較することで補助線が引かれ、これまで見えなかったものが見えてくるようにも思える。
それが面白いのだ。



今夏は異常気象が続いている。
猛暑日がこれほど続くのも記録的だというし、東北・北陸地方ではかつてないほどの大雨に見舞われている。無事を祈るばかりだ。
そんななか、今日は久しぶりに散歩に出た。歩きながらいろいろなことを思い出す。
思い出しながら歩くのだ。吉田拓郎の歌が聞こえてくる。



高校演劇

2022-08-03 | 演劇
今年の夏、全国高校総合文化祭演劇部門(全国高等学校演劇大会)に出場した東京都立千早高校演劇部の「7月29日午前9時集合」がヤングケアラーをテーマにした作品ということで話題を呼んでいた。
7月26日付毎日新聞の小国綾子氏のコラムで紹介されていたが、その他の新聞や演劇専門家の間でも話題になっていた。以下、一部引用させていただく。

舞台は夏休みの教室で、9月の文化祭に向け、高校生男女3人が不登校気味の仲間を案じつつ、演劇の脚本選びをしているという設定。
その合間の会話の中に、テーマであるヤングケアラーに関する話題が織り込まれる。遠いところにある問題のようでいて日常的でもあるその問題は、他人ごとのようでありながら、ごく身近にいる仲間の問題でもある。

その中で発せられる男子生徒の独白が印象的である。

「……新聞を見ても自分のことのような気がしない。ニュースを見ても自分と結びつかない。大変なことがあったとしてもぼくたちは相談しようとも思わない。解決するとも思っていない。(略)相談するって選択肢も持てない。本当はつらいとか苦しいとか言えばいいのかもしれないけど、それすら思い浮かばない……」

実にリアルである。ことさらに訴えかける身振りや作劇はなく、現状をただ提示することによって、ヤングケアラーの状態にある子どもたちの抱える問題の根深さがより浮き彫りになるようだ。
こうした脚本は、演劇部員たちが日ごろの学校生活のなかで会話を見聞きし、集めた言葉が下敷きになっているという。

あらためて演劇の持つ働きや役割について考えさせられる記事である。
演劇は、日常の中に潜む問題の芽を浮き彫りにし、再構築するなかで客観的な視座を提示する。
それを受け止めるのは観客なのだが、たとえ劇場に行くことが出来ず、こうした記事を読んでこの舞台のことを知った私のような読者にも何らかの力を及ぼすだろう。
最近よく耳にする言葉でいえば、「バタフライ・エフェクト」のような変化を社会に及ぼすかも知れない。

新聞の片隅の記事やSNSでの発信などにより、思いもよらない形での影響をもたらすことも含めて、そのすべてが《演劇》の持つ力なのだろうと思う。