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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

福祉とアート

2012-06-25 | 文化政策
 「ある人がある朝、なぜエスプレッソではなくラテを飲むことにしたかを理論モデルにできるなら、経済の自動安定化装置をデザインでき、中央銀行は不要になる。が、経済は人間の感情を巻き込んだ複雑なシステムだ。経済の管理は科学ではなくアート(芸術)であり続けるだろう……。」

 これは、4月25日付の毎日新聞で専門編集委員の潮田道夫氏が紹介していた白川方明日銀総裁の演説の一部だ。金融政策アート論である。
 中央銀行への国民の信頼と支持は、インフレ目標のような機械的装置で獲得できる単純なものではない。誠実謙虚に政策に向き合う姿勢からしか生まれないからだ……。
 私は金融政策には全くのシロウトだが、こういった考え方には共感を覚える。
 何と何を掛け合わせれば公式どおりに答えが出る、というようにはいかないのが世の中の道理である。そうした人間の不可解さを含めて探求の対象とするのがアートであろう。
 せんじ詰めれば、人間や社会、世界全体、宇宙そのものを対象として真理を探究しようとする営為は何であれアートなのだ、と言ってよいのだろう。

 働き方研究家の西村佳哲さんの書いた「自分の仕事をつくる」という本の中に、イヌイットは雪を示す100種類の名前を持っており、それを使い分けるということが紹介されていた。私たち日本人はせいぜい5種類くらいだろうか。
 指し示す言葉の厚みは、その事象に対する感受性の厚みを示している……。
 さらに西村さんは、続ける。
 コンピュータ画面の色の表現能力はたとえば1670万色。
 パントーンという色見本帳は約1100色で構成されている。
 だが、これらは省略化された情報に過ぎず、その色見本によって逆に私たちの世界観は狭くなっている。
 イリノイ大学の実験では、人間が知覚可能な最高音と最低音の間にある耳で明瞭に区別できる音の数は1378音だという。
 だが、もちろん、それが全ての音であるというわけではないのだ。

 この世界には私たち人間が知覚することのできない色や音が無数にあり、それらによって世界は成り立っている。そうした世界の成り立ちを見極め、探求するのがアートなのである。
 今は世の中が複雑になりすぎて分業化が進んでしまったけれど、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代、科学と芸術は同義だったのだ。1枚の絵画を仕上げるために、彼らは、光と色彩を分析し、さらには人体を解剖し、その由って来たる所を探求し、再現しようとした。

 ある審議会に出席した時のこと、一人の民生委員の方に「文化とは何ですか? 芸術とは何ですか?」と問われて、しどろもどろに答えながら大汗をかいてしまった。改めて公式の場で問いかけられてこうですと明確に答える言葉を私は持っていなかった。
 やがてその方が言ったのが「私は福祉に携わる者ですが、福祉というのは文化そのものだと思うんですよ」ということだった。なるほど。

 NHKのEテレで紹介されていた、被災地の障害者の人々の芸術表現を支援するアーティストの語った「アートは福祉です」という言葉も記憶に残っている。

 たしかにそうだ、と今の私は確信する。アートは福祉であり、福祉はアートなのだ。
 障害者であれ、高齢者や要介護者であれ、貧困の中にある人々であれ、彼らを憐れみや施しの対象と見ることなど論外であるとして、彼らを単に支援の対象とするのではなく、文化芸術を享受する機会の提供などでもなく、彼ら一人ひとりが感情を持ち、声を発し、表現する意欲と動機と個性を持った人間として認め合うこと、表現のための共同の場を創り、ともに声を発し、互いに耳を傾けあうこと、そしてその声を世界に届けるための仕組みを作ること、それこそが今求められているのではないだろうか。

 いま、生活保護受給者に対するいわれなきバッシングが世上に広まりつつある。
 ほんの一部の不正者の行いが拡大報道され、非寛容な声が否応なく弱者の心を鞭打つ。不正を糺さなければならないのは当然だが、そのことによって真に受け止めるべき人々の声が封殺されることだけは何としても防がなければならない。
 後ろ指を指されるようにではなく、正々堂々と受けられる制度にしてください、というある母子家庭の母親の声が心に残る。
 私たちは耳を傾けているだろうか。

スパイ/寡黙な

2012-06-13 | 映画
 映画「アーティスト」は、最先端の技術を活用しながら「無声映画」という新たなジャンルを現代において切り開いたのだ、という言い方が出来るかも知れない。本作では、当然ながら、俳優が発するはずの「声=台詞」は周到に無音化されているのだが、むしろそれ以外の音は巧みにデザインされ、作品が持つ意図を十全に発現しようとする。

 それはある種のスタイルなのであるが、スタイリッシュと言うならば、ジョン・ル・カレの原作・製作総指揮により映画化された「裏切りのサーカス」はまさにその極致と言えるだろう。
 監督のトーマス・アルフレッドソンは、前作「ぼくのエリ 200歳の少女」で世界中を震撼させたのちの本作が英語による長編映画の監督デビューとなる。
 原作の「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は文庫版で550ページに及ぶ大長編なのだが、その饒舌な文体を極限にまでそぎ落として昇華し、結晶化させたうえでさらに削りに削ったと言えるような省略と飛躍、その反面、極度に拡大凝視される老スパイ、ジョージ・スマイリーの表情、腹の中を探り合うスパイたちの内面の葛藤など、全体を貫くデザインの粋は映画という表現ならではのものだ。

 ゲイリー・オールドマンは私も昔からあこがれる俳優の一人なのだけれど、本作のスマイリー役は、寡黙かつ緩慢な動きに制御されながら、ただそこに佇むだけでまるで一流のダンサーの踊りを見るようなスリルに満ちていると感じさせられる。彼自身はポール・スミスのスーツに身を包み、ただ立ってこちらを見やっているだけなのだけれど……。
 原作者も「ただメガネを拭くだけで殴り合いのシーンと同じくらい観客をぞくぞくさせる俳優」と評して絶賛したそうだが、まさに同感である。

 未見の方にはぜひ映画館で観ることをお薦めするけれど、鑑賞前にパンフレットの2、3ページ目に載っている梗概と人間関係図をある程度頭に入れておくことは必須だと申し上げておきたい。私の知人は予備知識なしにこの映画を観て、何が何だか分からなかったと言っていた。本作に限ってはネタバレ歓迎なのだ。
 それにしても、アカデミー会員のオジサンたちには、この映画、面白かったのかなあ。

アーティスト/寡黙な

2012-06-12 | 映画
 米国で1歳未満の乳児に占める白人とマイノリティー(ヒスパニック系を含む)の人口比が逆転し、白人が50%を割り込んで初めて少数派になったことが5月17日に発表された米国勢調査局の統計で分かったとCNNが伝えている。
 将来的に米国の多民族化が一層進展し、マイノリティーが重要な政治的、経済的役割を果たすようになるだろうと専門家筋は予想しているそうだ。

 こうした情報の一方で興味深いのが映画界である。こんな報道がある。
 今年2月の第84回アカデミー賞授賞式に先立って、ロサンゼルス・タイムズ紙が、同授賞式の鍵を握る米映画芸術科学アカデミー協会の会員の人種や年齢構成を分析した興味深い結果を発表したのである。
 映画界の最高峰、アカデミー賞の会員は、映画会社などの重鎮をはじめ、映画プロデューサー、映画監督、脚本家、俳優など、映画界を代表する人々によって構成されているが、このほど投票者5765人について、ロサンゼルス・タイムズ紙が分析した統計結果によれば、構成員の94%が白人で、77%が男性で占められ、さらに平均年齢は62歳であることが分かったというのである。
 アメリカの映画人口の多数を占める黒人、ヒスパニック系に関しては、メンバーの中でそれぞれ僅か2%以下であり、50歳未満のアカデミー会員は14%しかいないことも判明したという。
 今回改めて白人至上主義、高齢者のメンズクラブであることが数字で証明されたことで、今後は人種、年齢、性別の多様化に向けた動きが加速されることが期待されている、とこのニュースは伝えている。

 これら2つの報道を並べてみると実に面白い。米国の代表的文化である映画がすでに時代遅れで少数派に成り果てた白人のジイさんたちに牛耳られているという事実……。
 あと30年もしたら誰も映画なんて観なくなってしまうのではないだろうか、と考えると恐ろしくて夜も眠れなくなる。何を隠そう、私自身は映画に関してはカチカチの保守派なのであるが、そのこと自体、長年の間にそうした彼らの価値観によって教育されてきた証左なのかも知れないのである。

 今年、アカデミー賞の主要5部門を獲得した「アーティスト」はそうしたアカデミー会員たちのノスタルジックな夢が凝縮した作品であるということは言えるのだろう。
 ミーハーな私はこの作品を十分に楽しんだけれど、その私にも、主役のジャン・デュジャルジャンが果たして主演男優賞に相応しい演技だったかどうかは分からない。
 通常の映画の登場人物が、あたかも実在する人間であることを前提条件として、その感情なり行動が俳優の肉体や演技を媒介として造型されるのに対し、この映画の主人公はあくまで「映画」自身なのであって、主役のジョージ・ヴァレンティンは、多くの映画好きたちの夢が投影された影にしか過ぎないように思えるのだ。
 事実、ジャン・デュジャルジャンはその演技設計において、往年のスターであるダグラス・フェアバンクスやルドルフ・ヴァレンティノ、比較的新しいところではジーン・ケリーらを徹底的に研究したことだろう。無論、それは実在する彼らの実像などではなく、スクリーン上に映し出された彼らの「影」像であったはずだ。
 数多くの過去の映画へのオマージュにあふれ、その白黒画面もいったんカラーフィルムで撮影したものをデジタル処理によりモノクロに変換するといった技術をふんだんに活用しながら創り上げられた本作は、映画そのものの白鳥の歌なのかも知れない。
 この先、映画にはどんな未来が待っているのか。それは作り手たちの問題であって、私のような一観客が問題とすべきことではないのだろうけれど。

 はるか何年かのち、アカデミー会員の過半が女性やマイノリティーの若者で占められるようになった時代……、そんな時代が来るかどうかは分からないけれど、その時、映画は何を映し出すのだろうかと、ふと思った。