seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

夢の変容装置と美しい爆弾

2022-10-27 | 日記
眠りながらいつでも見たい《夢》を見ることができたらいいなあと思う。これは子どもの頃からのささやかな願いだった。
その意味で《夢》は希望や願望と似通っているのだった。

いつも欲しいと思っていたオモチャが手に入って遊びまくる夢であるとか、あこがれていた女の子と手をつないでニコニコ歩いている夢であるとか、ご馳走を好きなだけ食べて満腹になる夢であるとか、その内容は年齢や自分が置かれた立場などによって様々に変化していったが、たいてい夢は思うように見ることが出来ないか、見たとしてもそれらはいつも奇妙な具合に変形してしまい、目覚めの瞬間、こんな夢なら見なければよかったのにと後悔するのがオチなのだった。

それならばいっそのこと、誰か、自由に見たい夢を見たいだけ見ることの出来る機械を発明してくれないものかと思ったのだが、どうだろう。
もちろん薬を服用することによる夢の操作という手段がないわけではないのだけれど、薬なるものを今ひとつ信用できない私には、かえって副作用による気分の落ち込みや依存症になってしまうことなどが心配のタネなのである。
それよりも見たい夢のシチュエーションやパターンを思いつく限り機械にインプットしておき、それらを組み合わせて脳波を刺激することで夢を喚起するといった手法のほうが牧歌的であり、どこかユーモラスなSFを想起させて面白いと思うのである。

これは一興ではないだろうか。

この機械の性能を発展させることで、例えばわれわれの心に巣くったネガティブな感情をポジティブなものに変換してしてしまうことが出来るのではないか。
いつもクヨクヨ気に病んでばかりいる人は陽気で笑い声が絶えないようになり、いつも死にたい死にたいと言っている人は元気でやる気満々の生活を送るようになる。
これは、マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスに変換するように、絶望感が多ければ多いほど、幸福度が増すように仕組まれた機械なのである。

さらに、ネガティブな言葉、否定的な言葉をポジティブで肯定的な言葉に変換してしまう翻案装置なんてものがあってもよいと思う。
こちらが発する言葉のネガティブなものを相手の喜ぶようなものに変換する装置である。当然、逆もまたあり得るだろう。
いくら悪口を言っても相手には肯定的に伝わるし、顔つきまで怒りの顔や苦虫を嚙み潰したような顔が、相手には心地よい笑顔となって見える……見えてしまうのだ。
これは政治や外交交渉の場ではきわめて大きな効果を発揮するに違いないのである。
けんか腰の交渉が、知らず知らずのうちに友好的で笑顔の絶えない社交の場に変換してしまうのだから。

不幸にして戦争になってしまった場合にも、武器弾薬を幸福を詰め込んだプレゼント爆弾に変容させる装置なんてものがあり得るとしたら、それこそノーベル平和賞レベルの発明である。

放射能を詰め込んだ「汚い爆弾」の代わりに、空中で爆発すると「幸福」をまぶした粉が降り注ぎ、その街に住む誰もが楽しくうきうきとして歌いだしたくなるような「美しい爆弾」を誰か作ってくれないものだろうか……

走れメロス / 約束と裏切り

2022-10-24 | 読書
教科書にも載って親しまれている太宰治の「走れメロス」は、暴虐邪知の王を糺そうとして囚われの身となったメロスが妹の婚礼に出るために友人セリヌンティウスを人質として故郷に帰ったのち、様々な困難を乗り越えて再び約束の刻限までに友人のもとに戻り、その二人の熱い友情は疑い深かった王の心をも変えてしまうという実に読後感のさわやかで感動的な物語である。

この物語を太宰はどのような心境のもとに書いたのだろうか。
それを計り知ることは難しいが、これを書くきっかけになったのではないかと言われている有名なエピソードが作家・檀一雄との間に起こった「熱海事件」である。
熱海で仕事をしている太宰を呼び戻すため夫人から預かった金を懐に檀一雄が逗留先の宿に向かうのだが、二人して遊興三昧で飲み続けスッカラカンとなってしまう。太宰は菊池寛のところに借金歎願に行くと言って壇を人質にして熱海をあとにするのだが、5日待っても、10日経っても音沙汰がない。
ノミ屋のオヤジに連れられて東京に向かい、太宰の師である井伏鱒二の家に行ったところが、太宰は井伏とのんびり将棋を指していた。
当然の如く壇は太宰に怒鳴ったのだが、この時、太宰は泣くような顔で暗く呟いたのだ。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

「約束」という言葉の裏にはいつも「裏切り」がつきまとっている。この世の中で約束が果たされることはまずないからなのだが、そう言い切ってしまうと身も蓋もないのが社会というものである。

また、「約束」には暗黙のうちに「期待」が込められているとも感じて知らず知らず重圧を感じたりもする。あなたとの約束が守られることを期待していますよ、と言わんばかりの相手の笑顔がいつか脅迫めいた面相に豹変するのを想像しては逃げ出したくなる。
まあそれはいささか病的に過ぎるとしても、「約束」にはどこかそうした押しつけがましさがあるように感じるのだ。

では、自分が相手の「約束」に「期待する側」だった場合はどうか。
この場合、期待が外れたからといって相手に失望してしまっては社会的な軋轢を生んでしまう。この場合、期待すること自体がともすると反社会的だということになりかねない。すべては勝手に期待したこちらのせいなのだから。

もっとも良いのは、相手の「約束」を単なる社交辞令と考えて真に受けないことだ。社交は社会生活を円滑に運ぶための技術(テクニック)だからである。

社会を円滑に動かすために、人や会社、組織は「契約」という約束を形にしたものを取り交わすのだが、それを担保するのが法律=社会的ルールであり、それに違反した場合には時に罰則が科せられ、社会的信用が失墜してそこに居場所はなくなることさえあり得る。
「契約」は「約束」を公的に確実なものとすることで社会を円滑に運ぶための技術(テクニック)なのである。

ところで、政治家の公約は公になされた約束であるはずだが、その約束が真っ当に果たされたという話は一向に聞こえてこない。
誰もが政治家の公約はただの口約束でしかないと達観してしまっているのだろうか。
一方、英国のトラス首相は党首選での公約を果たそうとして混乱を招き、辞任を余儀なくされた。トラス氏の口約束に期待して彼女を党首に選んだのは保守党員であり、彼ら皆の選択ミスというしかないのだが、思わぬ事態に結果責任を問われたのは当の本人である。トラスは期待を裏切ったというのだ。
このあたり、なかなか難しい判断である。そもそも公約など反故にすべきだったのだろうか。
約束事に政治がからむと話は途端にややこしくなってしまうようだ。

さて、こうした「約束」に「友情」が合わさり綯い交ぜになると話はもっとややこしくなる。
私にもかつてあった青春時代に、そんな約束がこじれて友情を損なった苦々しい経験が山ほどある。それをいやな思い出としていつまでも抱えておくのではなく、それを反転させて、「走れメロス」のようにさわやかで純粋な胸の熱くなるような物語に昇華することができたらよいのになあといつも感じている。

「走れメロス」について太宰治は次のように述べている。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります」

悩むな! 考えろ!

2022-10-12 | 読書
坂井律子著「〈いのち〉とがん 患者になって考えたこと」(岩波新書)を読んだ。
たまたま書店で目について買った本で、いわゆる闘病記のようなものかと思いつつ読み始めたのだったが、刺激を受けるとともに、共感と向日性の意欲のようなものをかき立てられる思いがした。
読みながら付箋を貼り付けていったのだが、読み終わったあともその付箋の箇所を読み返したり、そこで感じたことを反芻したりして、なかなか書棚に収められないままいつまでも机の脇に置いたままになっているのである。

著者は1年10か月を過ごしたNHK山口放送局長としての単身赴任生活を終え、編成局総合テレビ編集長に着任して1か月が過ぎたばかりの時、体調不良が重なって受けた検査の結果、思いも寄らぬ膵臓がんと診断される。
手術は成功するが、「手術はスタートライン」の言葉どおり、著者はそれからの2年間、術後の激しい下痢生活、脱水での入院を経て再発、抗がん剤治療、再手術、再々発、再度の抗がん剤治療……と、「容赦なき膵臓がん」とともに生きることを余儀なくされてしまう。

本書は、その著者が、再々発が判明した2018年2月から11月までの間に書き綴った、《がんに罹った「私」の記録》なのである。
一人の患者が、がんになって感じたこと、思ったこと、がんになって学んだこと、疑問や時に抑えきれぬ憤りも含めて、身の内に湧き起った様々な思いが率直に綴られている。

著者の職業はテレビ番組の制作者であり、番組・作品を通して第三者である視聴者に何かを伝えることを使命としている。
そうした番組を作るうえで、より客観的で専門的な知見を盛り込むために必要なのが広範な取材であり、医学的学術的な裏付けに基づく専門家の見解であったりするのだろうが、本書において、著者がスタンスとしてこだわったのは、そうした伝達のプロフェッショナルとしての立場ではなく、あくまでも一人の患者としての視点を保つことであった。
どんな患者でもやろうと思えば出来る範囲の勉強や体験をもとに見聞きし、考えたことを書く……、そのことを通して当事者である患者一個人の思いを伝え、それを受信し、共感してくれた人々とともに考えながら、より多くの人が分かり合い、支援を受けられる社会になればいいという希望がそこには貫かれている。

こうした姿勢に基づいて綴られたこの本を読みながら、私は深く共感したし、教えられたり、刺激されたりすることばかりだった。
あくまでも一患者の立場にこだわりながらも、自分が受けようとしている治療について、使用される抗がん剤について、食事のあり方について、主治医と患者の関係について……、少しでも疑問に思い、知りたいと思ったことをとことん追求していく姿は、まさにテレビ番組の制作者、ディレクターとして培った力が十二分に発揮されていると感じる。

そうしたなか、友人が貸してくれたDVDで映画「アポロ13」を手術後の痛みを忘れるために見たという著者が、その映画から、ちょうどその頃考えていた「集学的治療」を想起し、さらに主治医と患者の関係に思いを寄せながら次のように書いた言葉には深く共感させられた。

「ひとつでない正解を探して、医師が患者に向き合って考えてくれるのであれば、患者もまた『考える患者』にならなければ……、と私は思った。そして、『絶体絶命』の病気と向き合わざるを得ない生活を、『考える』ことこそが支えてくれると実感していた。」

そしてこの言葉は、最終章の「あとがきにかえて 生きるための言葉を探して」のなかで紹介されている一挿話……、行きつけの小さいけれど硬派の近所の書店で目が釘付けになったという、人文書のすべてに付された真っ赤な帯に書かれた言葉につながるのである。
  「悩むな! 考えろ!」

たしかに! 悩むということは逡巡することであり、前には進めない。
悩んでいるひまがあったら「考えろ!」ということなのだ。

私たちは「考える」ための道具としての「言葉」を持っている。その道具をもっともっと使い勝手よく研磨するためにも、学び、考え続けることが何よりも重要なのだろう。
私は本書を読みながら、そうした生き方を実践した著者の姿に深く感銘を受けたのだった。