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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

音楽と読書

2014-11-25 | 日記
 22日(土)、東京佼成ウインドオーケストラ定期演奏会を聴いた。(於:東京芸術劇場コンサートホール)
 指揮:シズオ・Z・クワハラ、ピアノ:ステュワート・グッドイヤー。
 冒頭の「ロッキー・ポイント・ホリデー」(作曲:R.ネルソン)が情熱的な指揮と統率された輪郭のクリアな音色が聴衆を引き込む。普段吹奏楽になじみのない私も思わず身を乗り出してしまった。
 休憩前の「春になって、王達が戦いに出るに及んで」(作曲:D.R.ホルジンガー)は、途中、演奏者の合唱とも呻り声ともつかない「声」が重要な要素として使われ、終盤で現れるカオス的音響=解説によれば「自由なアドリブで奏でられる反復動機を累積させたクラスター的音響」が、ザ・ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を想起させて面白い。
 演奏会の白眉は何と言っても「ラプソディー・イン・ブルー」だろうが、ピアノとウインドオーケストラの競演が素晴らしい。
 まったくのありきたりな感想になってしまうが、豊かな音の饗宴を堪能することができた。たまにはこんな時間があってもよいだろう。

 その同じ日に読了したのがレイモンド・チャンドラーの「さよなら、愛しい人」(村上春樹訳)である。
 最近の私は集中した読書の時間をまったく取ることができない。この本も読み始めてから実は2か月程もかかっている。途中、別の本を何冊か読んだためもあるが、それにしてもかかり過ぎである。現実社会では実にリアルな切迫した事象が相次いで起こり、こうした小説世界がまるでメルヘンのように思えなくもない。それゆえご縁がなかったものと読むのを諦めかけたこともあるのだが、10分刻みの電車での移動時間を重ねながら、それでも最後の100ページは一気に読むことができた。集中できさえすれば、もちろん小説は面白いに決まっているのだが。
 同作を読みながら私と同世代以上の人は、今から39年前にロバート・ミッチャム主演で映画された「さらば愛しき女よ」を思い出すのではないだろうか。
 共演のシャーロット・ランブリングが魅力的だったし、その翌年に「ロッキー」で一躍スターになるシルベスター・スタローンがまだ無名のチンピラ役で出演していた。
 ヤンキースのジョー・ディマジオの連続安打記録に一喜一憂したり、暗い部屋の中で一人チェスに没頭するフィリップ・マーローの姿が面白く印象に残っている。

 さて、「さよなら、愛しい人」は先行する翻訳がいくつもある名作だが、新訳をあえて出す意義とは何なのだろう。
 旧訳が今の時代にそぐわなくなった、古くさくなった、というのが主な理由だろう。
 しかしながら、といつも思うのだけれど、オリジナルの原文はそのままで今の時代にも十分通用し、輝きを放っているのに、何故翻訳だけが古びてしまうのか、それが不思議でならないのだ。
 つまりそれは翻訳者もまた表現者であるから、ということに尽きるのかも知れない。今の時代と切り結ぶ表現を新たな創造行為として生み出そうとするのが表現者としての欲望なのだ。オリジナルは変わらなくとも、それを見るものの視点は時代に応じて変化する。その変化を言葉に変換するのが翻訳者なのだ。

 あるいはそれは演出家の視点とも似ているのかも知れない。
 今月いっぱい開催されている「フェスティバル/トーキョー14」の演目の一つ、薪伝実験劇団の「ゴースト2.0~イプセン『幽霊』より」のプログラムにこんなエピソードが紹介されている。
 ……今年、北京で学生向けの演劇鑑賞の場で、中国の古典悲劇「雷雨」が公演されたところ、会場が笑いに包まれたとネット上で話題になった。「テキストや演技がそもそも現代に合わない」「今の若者は古典の魅力が分かっていない」など、関係者からは様々な意見が飛び交った。……
 これに対し、問われた「ゴースト2.0」の演出家ワン・チョンは、「時代遅れの脚本というのはないと思っています。時代遅れの演出方法ということなんだと思いますね」と答えている。
 似たような話を思い出す。
 もうかれこれ25年も前の新聞に載っていたのだが、アメリカの地方都市の映画館でハンフリー・ボガート主演の「カサブランカ」(1942年製作)が上演されていた。
 場内にはポップコーンをぱくつきながら足を投げ出したような若者で溢れていたのだが、彼らは映画の主人公が話す名台詞の一言ごとに腹を抱えて大笑いしていたというのだ。彼らにとってはこの名作映画も憂さ晴らしの娯楽映画でしかないのだ。

 どんな名作映画も、小説も、時間という理不尽な荒波に洗われてみれば、滑稽な姿を露わにしてしまう。
 それを今の時代に即して適合したものに仕立て上げ、新たな意味や価値を付与するのが、ここで言うところの演出家であり、翻訳者の仕事なのだろう。
 あらためてそう思えば、形となって後代に残らないだけ、演劇という表現は幸福な芸術ジャンルであると言えるのかも知れない。

棚からハムレット

2014-11-21 | 演劇
 いつもながらの感想ではあるのだが、芝居というものは形として残らない。写真、映像、上演台本、パンフレット等、その断片は残るけれど、当然ながらそれらは芝居そのものではなく、薄れゆく記憶を補完する材料でしかない。
 ということで、幾日も前に観た舞台のことを思い出すようにメモしておくことはそれなりに意味のあることかも知れないと改めて思う。
 この2か月ほどの間にかなりの芝居を観ているはずなのに、日々は残酷にも足早に過ぎてゆき、記憶は次々と更新されてしまうからだ。

 ということで、今思い出しているのが、今月7日に中野ザ・ポケットで観たCAPTAIN CHIMPANZEEの公演「棚からハムレット」だ。
 この劇団とは知り合ってかれこれ10数年が経つのだが、今回私がこの公演に足を運んだ大きな理由の一つは、私の好きな俳優、上素矢輝十郎さんが客演していたからだ。
 輝十郎氏とは、彼が、「ごとうてるひこ」と名乗っていた頃、それこそ17、8年前に「うるとら2B団」の舞台に出ていたのを拝見して知己を得た。
 立ち姿が美しくカッコいいのはもちろんだが、情のこもったいい芝居をする俳優で、私にないものを感じさせてくれる得難い存在なのである。
 今回の芝居は、シェイクスピアの「ハムレット」を下敷きに、登場人物たちの現実の生活と、劇中で演じられる「ハムレット」の劇が幾重にも重なったメタ演劇コメディなのだが、輝十郎さんは、主人公・公子の死んで亡霊となった父親と、その劇団を乗っ取った叔父の二役を演じていた。
 生活に疲れ、父親を憎む娘と、距離を測りかねつつ励まそうとする父、叔父役それぞれの役作りがコミカルながら説得力があり、涙を誘う。

 この芝居を観ながら私はケネス・ブラナーが監督した映画「世にも憂鬱なハムレットたち」を思い出していた。
 ケネス・ブラナーはこの映画について、「危機状態にある俳優たちの行動ぶりを自嘲的に眺めたもので、自分という存在について自身が描いている失望をコミカルに捉えた作品」であり、「俳優という存在そのものが、誰もが感じている自己妄想を強調した実例であるということ、それがどんなに面白いかをこの映画は描いている」のだと言っているが、確かにオーバーラップする部分がある。
 「棚からハムレット」もまた、それぞれに問題を抱え、絶望状態にある無名の三流役者たちが、ハムレットを上演する過程で立ち直ろうとする芝居なのである。

 この芝居そのものが、CAPTAIN CHIMPANZEEという劇団や多くの小劇場演劇を担う「無名」の劇団、役者たちの抱える様々な問題そのものをテーマに描いているとも言える。
 そうした諸々のことを考えさせてくれる、その意味でもこの舞台は私にとって忘れがたいものとなった。