seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

マイケルに微笑を

2009-06-28 | 雑感
 誰しも他の人には分かってはもらえないかも知れないが心の中で大事にしている自分だけのアイドルという存在があるのではないだろうか。
 私の知り合いでは、50歳を過ぎていまだに昔のアイドルグループを追いかけているなんて人がいる。こちらもおばさんなら、向こうだって腹が出て頭の薄くなったオジサングループなのだが、当人にとってそんなことはどうでもよいのだ。
 真面目な話、それで人生が少しでも明るく感じられるならそれでよいではないか、と思う。

 昔、私の少し先輩で大学の卒論テーマに美空ひばりを選んだ人がいる。私たちは「何でひばりなんだよ」と大いにバカにしたものだ。私たちにとって「ひばり」はすでに過去の歌謡界を代表する遺物でしかなかったし、ちょうど彼女が実弟の引き起こした不祥事などで全国の公的施設から締め出しを受けるなど、バッシングの嵐の最中でもあった。
 しかし、彼はそんなことをまったく気にも留めず「ひばりは天才だあっ」と断言して憚らなかった。
 いまにして思えば、私たちには何も見えていなかったし、何も聴こえてはいなかった。彼の目(耳)のほうが確かだったのだ。

 さて、私にとってのアイドルは誰かといえば、無声映画時代のチャーリー・チャップリン、フレッド・アステア、ブルース・リー、そして先日その訃報が世界中を駆け巡ったマイケル・ジャクソンであると答えよう。
 皆その身体表現において既存のものとは全く異なる世界を作り出すという独自の才能を発揮した人たちである。彼らの映像を私は何度繰り返して見たことだろう。
 何度見たところで自分が彼らの領域に近づくことなどできっこないのは分かりきっているのだけれど、彼らの動作、手足の動き、その一挙手一投足がかもし出す空間の特有の美しさに私は魅了されたのだ。
 そのうち二人は長寿を全うし、二人は夭折した(といっていいだろう)。

 映画「パリの恋人」のアステアはすでに55歳になっていたけれど、ピンクの靴下を履いてオードリー・ヘップバーンを相手に華麗に踊った。
 アステアのように還暦を過ぎてなおダンサー・俳優としてあくまで現役を通すという生き方をマイケル・ジャクソンに重ね合わせることは難しいように思う。
 50歳という死が早すぎるかどうかは比較の問題だろうが、太宰治の39歳、チェーホフの44歳、夏目漱石、レイモンド・カーヴァーの50歳という享年と引き比べても決して若死にとは言えないかも知れない。
 けれどそこに否応なく夭折の気配が漂うのは、ネバーランドに籠もり、ピーター・パンたろうとした彼がこの10年程は現役のエンターティナーとして姿を見せることが極端になくなっていたことに起因するようにも思う。
 あるいは、ビデオ時代の申し子にふさわしく、80年代の若々しいその姿が鮮烈な映像として私たちの記憶に焼きついているからだろうか。

 その後半生はむしろ無残ですらあった。「リトル・スージー」のような心に響く曲を作った彼が真偽のほどはともあれ児童にたいする性的虐待の罪に問われたという事実はファンならずとも受け入れがたい運命の皮肉というしかない。
 
 今はただその冥福を祈りたいと思う。
 「スマイル」はチャップリンが自ら主演・監督した映画「独裁者」のために書いたテーマ曲だが、これを歌うマイケルの声は限りなくやさしい。
 今夜はその歌声にじっくりと耳を傾けることにしよう。

ベースボールの歌

2009-06-26 | 言葉
 5月末に大阪市で行われたある講演会のなかでサントリーラグビー部清宮克幸監督が「ラグビーはリーダーシップのスポーツ、男を自立させるスポーツと言われる。少年の頃からベンチを見て監督の指示を待つ野球と比べて、社会に出てビジネスで成功する人が多いと指摘される」と述べていることが報道されている。
 これには野球関係者から一言あるのではないかと面白く読んだ。

 今から140年も前、明治4年(1871年)に紹介されたベースボールだが、その40年後にはもう野球人気は一般に広く浸透していたようだ。
 『東京風景』は明治44年(1911年)刊だが、同年刊の 『慶応義塾之現状』中の「野球部」の項には、「綱町グラウンドに於て野球競技行はるるときは、来観者毎時殆ど萬を以て数るを見ても、義塾野球部の如何に盛大なるかを察す可し。」 と書かれていてその人気ぶりを示している。

 一方、日本のラグビーの歴史は、明治32年(1899年)に上記の慶応義塾大学から始まったとされる。

 ラグビーと野球の因縁は深い。
 野球人気の加熱ぶりに対抗して、『東京朝日新聞』は明治44年8月29日から9月19日にかけて「野球と其害毒」というアンチ野球キャンペーンを掲載した。 第1回は第一高等学校校長・新渡戸稲造の談話である。
 「野球と云ふ遊戯は悪く云へば巾着切の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。」(東京朝日新聞8月29日付)

 野球に対する敵愾心が「大人気なく」というか「微笑ましく」も露骨に表されていてとても面白い。それだけ野球の人気がすさまじかったということなのだろう。
 「武士道」を書いた新渡戸稲造にとっては、「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」を旗印にしたラグビーの方が似つかわしかったのに違いない。

 野球という訳語は正岡子規の後輩で中馬庚という人が明治26年頃に、野外の遊戯ということで、庭球に対して野球と命名したといわれる。
 子規のベースボール好きは有名だが、野球という訳語が浸透するずっと以前、彼は自身の幼名である升(ノボル)をもじって、「野球:ノ・ボール」という雅号を使っていたそうである。
 このほか正岡子規は、打者、走者、直球、死球などの言葉を訳し、これらは今も私たちの日常語として使われている。

 子規の竹之里歌には、次のような歌がある。

 「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
 「若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ」
 「九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり」
 「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」
 「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

 遊びの原型としての楽しさ、いとおしさがこれらの歌には込められていると感じ入るけれど、これを作った明治31年頃、すでに子規は病のために歩行の自由を失っていたのだ。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」には、ベースボールに親しむ子規の姿が印象深く描かれている。子規にとって、野球は俳句同様に人と心を通わせるための大切なコミュニケーションツールだったのである。
 野球は日本人の精神形成や生活に深く根付いているのだとつくづく感じる。

 さて、近代日本の幕開けから敗戦、高度成長期、バブル崩壊、そして現下の経済危機、その時代の要請に伴ってビジネスモデルも様々に変化している。
 チームワークが何よりも優先された時代、猪突猛進の強いリーダーシップが求められる時代、その時々に応じてスポーツの人気も変転してきたのだが、今、この時代にもっともふさわしいスポーツ=ビジネス形態は果たしてなんだろうか。

 子どもの頃、私たちは野球という遊びを規則にしばられることなく、三角ベース、キャッチボール等、自在に工夫しながら楽しんだものだ。
 あの頃がとてつもなく懐かしい。

伝えること 伝わること

2009-06-23 | 雑感
 16日付の毎日新聞夕刊コラムに劇作家・演出家の佐藤信氏が次のように書いている。
 「通りがかりの人の足をとめる。足をとめた人に、一定時間、芸を見つづけさせる。最後に、拍手とともに、足元に置いた帽子の中に、なにがしかのお金を入れてもらう。
 大道芸と呼ばれる路上パフォーマンスは、この三つの構成要素から成り立っている。というか、演劇をはじめ、すべてのライブパフォーマンスもまた、煎じつめれば、この三要素に行きつくのは間違いない。」

 あらゆる商売もまたそうした三要素によって成り立っている。行き交う客の足を引きとめ、商品を手にとってもらい、いくばくかの金銭と交換に受け取ってもらうということ。
 極めて単純なことが、しかし、いかに難しいか。

 ある人にとってはとても大切なものが、ある人にとってはまったく関心の埒外にある。あげく、特定の人間の独りよがりなものでしかないなどと揶揄される。「表現」という行為は常にそうした評価にさらされる宿命を背負った、ある種の戦いなのだ。であればこそ勝たなければならないのだが、そのための戦略を描くのはなかなか容易ではない。

 先日、十二代目結城孫三郎さんの話を聞く機会があった。結城座は江戸時代の寛永2年(1635年)に初代結城孫三郎が旗揚げして以来、370年を超える歴史を持つ糸あやつり人形劇団である。
 江戸幕府公認の五座の中で、現在「座」として存続するのは結城座だけだという。
 存続もまた戦いである。糸あやつり人形芝居を人に観てもらい、そのことで生計を維持し、座を存続させるということには言葉に尽くせぬ労苦が積み重なっている。
 孫三郎氏は時には酔客の前で演じることもあったようだ。彼らは舞台上の人形になど興味はない。酒に酔い、女の子のお尻を撫でては嬌声を上げることにしか関心はない。
 そんな酔っ払いの目を舞台に向けさせ、ひと時ではあっても芸を見るようにするという工夫の積み重ねが今の結城孫三郎氏に至る結城座の歴史となって連なっているのだ。それはとてつもなく強いものに思える。

 これもまた先日のこと、ある高名な演出家が韓国の劇作家の作品を素材として高校演劇部の生徒たちを指導したドラマ・リーディングの舞台を観た。会場には、友人たちや保護者と思しき大人たちがいてそこそこ賑わっている。
 申し訳ないことに仕事疲れのあった私は半分ほどの時間を眠ってしまったらしい。小一時間のドラマはそれなりの余韻を残して終わった。急いでいた私はすぐに帰りのエレベーターに乗ったのだが、一緒に乗り込んできた数人の女子学生がいた。彼女らの友人が出演していたのだ。
 「あんなことしてて面白いのかなあ」「いいんじゃん。好きでやってんだし」
あとはお喋り・・・。
 がんばれ、と私は心のなかで舞台上の彼らにエールを送る。

 村上春樹の新作長編が発売2週間足らずでミリオンセラーとなったことが大きく報道された。
 表現されたものが伝わるという、そのことに意味としての違いはないはずだが、その質量において彼我の隔たりはあまりに大きい。言葉を失うほどだ。
 何が伝わり、何が受け止められたのだろう。

ユーリンタウンはどこにある

2009-06-09 | 演劇
 6月5日、高円寺に新しく出来た劇場「座・高円寺1」にて流山児★事務所公演「ユーリンタウン」を観た。
 オフ・ブロードウェイのアングラ小劇場で爆発的なヒットとなり、2001年にブロードウェイ進出、2002年トニー賞を脚本・楽曲・演出の主要3部門で受賞したミュージカルの名作を坂手洋二の上演台本、流山児祥の演出により、小劇場の役者、ミュージカル俳優50名が入り交じって創り上げた「オレタチのブロードウェイミュージカル」である。
 脚本・詞:グレッグ・コティス、音楽・詞:マーク・ホルマン、翻訳:吉原豊司、音楽監督:荻野清子、訳詞・演出補:浅井さやか他。

 「ユーリンタウン」とは、直訳すると「ションベンタウン」なのだそうである。
 舞台は近未来の架空都市。地球が旱魃に襲われ、水飢饉のなか節水のために水洗トイレが廃止され、誰もが有料公衆トイレの使用を義務付けられた監視社会。それを変革しようとするホームレスたちが自由を求めて立ち上がる。
 すべてのトイレを管理しているのはUGC社。そしてこの恐ろしい監視システムを賄賂によって作り上げたのがUGC社長クラッドウェルその人である。
 貧民街では、金がないためにトイレを使用できないホームレスたちが大騒ぎ。そんな彼らを管理人ペニーは容赦なく取り締まる。そんななか、ペニーの助手ボビーの父親が立ちションをして逮捕され、「ユーリンタウン」に送り込まれてしまう。失意のなか、ボビーは美しい娘ホープに出会い、「革命」に目覚めるのだが、ホープはクラッドウェルの愛娘なのだった・・・。

 率直に言って、この舞台は傑作であると断言してよいと思う。
 実はフレッド・アステアをはじめとする往年のミュージカル映画大好きの私なのだけれど、日本のミュージカル、とりわけいかにも音楽大学で正規の発声を学んできましたという感じの個性もなにもないのっぺりした舞台には辟易していた。
 この作品はそんなモヤモヤ感を吹き飛ばしてくれる舞台である。踊れない俳優、歌えない俳優がいたっていいのだ。このミュージカルには熱い志が横溢している。
 好演者の多い流山児組の俳優たちだが、なかでもクラッドウェルを演じた塩野谷正幸が奇怪な存在感を発揮して出色である。決して器用な俳優ではないのだが、最近の彼の舞台のなかでも得がたい役どころだったと思われる。

 実はこの作品にはいくつもの先行する作品のパロディーが楽曲に潜んでいるようなのだが、それを読み取る、あるいは聴き取る力が私にはない。
 けれど、ミュージカルという形式そのものをひっくり返すような仕掛けがこの作品には仕組まれているのだ。メタ・ミュージカルとでも言えるような、ミュージカルの常識を裏切った構造が露呈するエンディングは爽快ですらある。
 それでいて、ちゃんとミュージカルとしての見せ場もしっかりと作りこまれている。50人の俳優の群集劇として成立させた演出の手腕、舞台上の俳優たちがいくつかのパートに分かれながら同時にさまざまな感情を表出させるシーンのハーモニーの美しさはミュージカル=音楽劇ならではのものだ。

 私が訪れた日は平日だったので観られなかったのだが、週末には開演前、劇場の内外で高円寺阿波踊りや中野エイサー、大道芸人、パフォーマー、ダンサーたちの繰り広げる「祭り」も同時開催されているそうだ。
 「劇場は市民のための広場であり空き地である」と言い切る流山児祥の志と仕掛けにも拍手を送りたい。
 青白いアート至上主義に引き籠もるのではなく、大衆受けに迎合するのでもない、聖も俗も併せ呑みながら、あらゆるものを巻き込む熱としたたかな戦略がそこにはある。

再び、「グラン・トリノ」について

2009-06-08 | 映画
 クリント・イーストウッドが監督・主演した映画「グラン・トリノ」の素晴らしさについては、すでに多くの人が様々なメディアで発言をしている。
 そうしたなか特徴的なのが、エコノミスト誌をはじめ、経済関係の論説においてこの映画に言及する記事が多くみられるということだろうか。
 6月4日付け毎日新聞では、国際経済学専門の竹森俊平慶応大学教授が「『グラン・トリノ』と金融危機」という文章を寄せている。
 いかにも映画好きらしく、映画的表現にも目配りの利いたよい文章だと思うけれど、そのなかで「まるでアメリカそのものの『葬式』のような映画になっている」と評している部分が端的に表しているように、「グラン・トリノ」はまさに現在のアメリカを暗喩するものとして経済人の関心をも呼んでいるのだろう。
 
 主人公が住んでいるのは、かつて自動車産業の生産拠点だった場所なのだが、いまは荒廃して白人のほとんどが居なくなり、マイノリティーの住民に占拠されるに至ったアメリカ中西部の町である。

 竹森教授は記憶に残った場面として次のように書いている。
 「老人がアジア人の青年に、自分が長い時間をかけて集めた自動車工具の素晴らしいコレクションを見せる場面。現下の経済危機、ことにそれに伴って起こったビッグ・スリーの経営危機と考え合わせるとまことに胸が痛む場面だ。アメリカもかつては『ものづくりの国』だった。その伝統が金融の思想が支配する経営戦略によって、めちゃくちゃになったことを想起させるのである」

 そしてもう一つの場面。老人と青年の「告別」の場面である。
 「老人は朝鮮戦争の時に受け取った自分の勲章を、青年の胸に刺す。寓意的な意味は言わずもがなであろう。アメリカが将来をアジアに託しているのだ」

 アメリカが将来をアジアに託している、という意味がこの映画の背後にあることはそのとおりだと思うけれど、このシーンの解釈については若干異議がある。
 殺す必要のなかった朝鮮人兵士を殺したことに心の底で深い罪の意識を持ち続けている主人公が、まさにそのことによって得た勲章を、夢や将来を託すためにアジアの青年に委ねるものだろうか。
 あえて言うなら、老人が遺言のなかで「グラン・トリノ」を自分の家族ではなく、青年に譲り渡したことにこそ、その意味は深く込められているのではないか。
 勲章を託す場面は、謝罪と融和を象徴するものと捉えるべきではないのだろうか、というのが私の感想である。

 いずれにせよ、そんなことを考えさせる深い社会性をこの映画は有している。
 それが単純な主義主張などではなく、すぐれた映画表現と娯楽性を兼ね備え、イーストウッドというスターが出演する興行的にも成功した作品たりえていることが素晴らしいのだ。

 舞台芸術は、果たしてこれに拮抗する作品を生み出しえているだろうか。

グラン・トリノの至福

2009-06-03 | 映画
 クリント・イーストウッド監督・主演の映画「グラン・トリノ」を観た。
 慌ただしい日々のなかでは稀有なことだが、ぽかんと空いた時間を縫って映画館に駆けつけ、まばらな客席に身を埋めてスクリーンに目を凝らすのは何ともいえない至福の時間である。ましてそれがこのうえないような素晴らしい映画である場合にはなおさらである。

 クリント・イーストウッド演じる主人公ウォルト・コワルスキーは自身と同じ78歳。頑固で口が悪く、偏見に満ち満ちた人格である。神を信じず、他人にも息子たち家族にも心を許さない。ギャングまがいの行動をとる無礼な若者たちには、それが白人だろうが、黒人、ヒスパニック、アジア系だろうがお構いなしに罵声を浴びせ、時に応じて銃を抜き、気に入らない相手には平気でつばを吐く。
 若い頃朝鮮戦争に出征した経験を持つ彼は、その後フォードの自動車工として定年まで勤め上げた。唯一の楽しみは、1972年に自らステアリング・コラムを取り付けたヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」をピカピカに磨き上げ、ビール片手にそれを眺めること。
 その彼が、ひょんなことから隣家に引越してきたモン族の一家と知り合いになり、姉のスー、弟のタオと次第に心を通わせていく。
 きっかけはタオがウォルトの宝物ともいうべきグラン・トリノをこともあろうに盗み出そうとしたことなのだが、それはタオの従兄であるスパイダーたち不良グループに命じられてのことだった。
 自分の庭でいさかいを始めた不良どもに銃を向けて追い払ったウォルトは結果としてタオを彼らの手から救い出すこととなった。
 やがて、明るく機転の利くスーとの交流から、次第に心を通わせ、その一家に溶け込んでいくウォルトは、引きこもり状態で希望のない生活をしているタオの「父親=人生の師」ともいうべき存在となっていく。彼はタオに仕事を与え、挨拶の仕方にはじまるいわば「男の流儀」を仕込んでいくのだ。

 そうした物語の進展の過程で、ウォルトが朝鮮戦争のなかで癒すことのできない心の傷を抱えていることが明らかになる。スーやタオたちとの交流には、無意識ながらそうした過去への贖罪という意義もあったのかも知れない。
 そうした過去の消しがたい失敗という記憶を抱いたウォルトは、タオを不良グループから守ろうとするなかで再び大きな失敗をする。
 そのことが結果として取り返しのつかない暴力を呼び込んでしまうのだ。
 いきり立つタオをなだめ、こうした時こそ「冷静になれ。冷静になって考えるんだ」と諌めるウォルトはやがて大きな決断をし、ドラマは衝撃のラストを迎える・・・。

 この映画の大きな要素の一つとなっているのが、モン族の人々の存在である。
 一部の中国の人々からはミャオ族と呼ばれることもあるモン族は、中国をはじめとして、タイ、ミャンマー、ラオス、そしてベトナムと、歴史上移住を繰り返してきた流浪の民である。
 ベトナムに住むモン族は、中国における同化政策に抵抗し、19世紀に東南アジアのタイ、ビルマ、ラオス、ベトナムに移住していった。
 さらに、ベトナム戦争の時期、ラオス建国当時にアメリカ政府はインドシナの共産化を防ぐためにモン族を傭兵として戦略に使ったのだが、結果的に、モン族は敗北し、タイへと大量に流れ込んだ。
 難民キャンプを経て、その後、2004年からアメリカ政府がモン族をミネソタ州に受け入れると発表、30万人のモン族がアメリカへ移住したといわれる。

 この映画にはそうした歴史的背景があるのであるが、そうしたアジアの人々を見つめるイーストウッド独特の眼差しは限りなく温かい。
 映画には主人公の姉弟を演じる二人をはじめとして、プロフェッショナルの俳優ではない多くのモン族の人々が出演しているのだが、そうした彼らを演出する監督の手腕もまた見どころの一つである。

 主人公ウォルトが住む地域は、すでにアメリカの自動車産業の衰退を背景として荒廃した住宅地が並び、そこにヒスパニックやアジア人、黒人、イタリア系、ポーランド系など多様な人々が住み着いている。
 家族ですら理解し得ない状況のもと、この映画で描かれるのは、コミュニケーションが崩壊した中での人間関係の在り様である。生命を賭しても守り抜かなければならないものは何かということを主人公はその生き様を通して私たちに訴えかける。

 この映画は静かな興奮と覚醒、そして深い感動を観るものに与えてくれるまぎれもない傑作である。