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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

再び、「朗読者」について

2009-08-18 | 読書
 季刊誌「考える人」2009年夏号の特集は「日本の科学者100人100冊」である。
 わが国を代表する著名な科学者の著作を1冊ずつ取り上げ、紹介している。
 物理学者で科学評論家の高木仁三郎は核化学者としてのキャリアを棄てて反原発運動に専心し、プルトニウムを利用する日本の核燃料政策を批判した人であるが、その項を武田徹氏が執筆している。
 以下、一部を引用。
 「しかし高木の参加により推進側と科学的議論で対峙できるようになって力をつけた反原発運動は逆説も孕んでいた。たとえば東海村臨海事故は、バケツで濃縮ウランを扱うことに疑問を感じない、核関係の知識を根本的に欠いた作業員がそこで働いていたために起きた悲劇だった。反原発運動が功を奏し、多くの人が核関係施設で働くことを忌避した結果として、そこでしか働けない弱者が危険に曝される悲劇が生じる」

 正義の主張、運動と思われるものが、知識を持たない弱者を悲劇に陥れるという逆説であるが、さらに恐ろしいのは、その弱者が何も知らないが故に、ある日突然、加害者に変容してしまうということである。

 映画「愛を読む人」を観たあと、気になって原作の「朗読者」の一部を再読した。
 映画は原作を凌駕したなどと思わず書いてしまったが、もちろん映画だからこそリアルに描かれている部分もあれば、小説でなければ描けない部分もある。
 どちらの表現が優れているなどということではなく、この作品の場合はその両方を味わうことでより理解が深まり、考えさせられるのだと思う。

 主人公のハンナ・シュミットは貧しい暮らしの中で非識字者として成長し、当時の政治状況の中で生きるためにやむなくナチスの親衛隊に入り、ユダヤ人収容施設の看守として働くことを余儀なくされたと想像できる。
 彼女にとって、看守としての役目を全うすることは無知であるがゆえに、あるいは職務に忠実であろうとするがゆえに倫理に適ったことだったのだ。
 私たちに彼女を裁くことは出来るのだろうか、私が彼女だったらどうしただろうか、ということに私たちは絶えず思いを寄せる必要があるだろう。
 映画の中では逆にさらりと描かれていたが、ハンナは20年に及ぶ刑務所生活の過程で必死の努力によって文字を覚え、読書することを覚えていった。その読書対象となった本には、マイケル(原作ではミヒャエル)が朗読してくれたものや文学書ばかりでなく、ナチの犠牲者たちの本やルドルフ・ヘスの伝記、エルサレムでのアイヒマン裁判についてのハンナ・アーレントのレポート、強制収容所についての研究書などが含まれていた。彼女は本を読むことで意識的に多くのことを学びとっていったのだ。

 マイケルが朗読を吹き込んだテープを送り続ける一方、ハンナからの「手紙をちょうだい」という呼びかけに応えようとしなかったのは何故なのか。ハンナは何故自ら死を選んだのか。
 そこには一括りに裁断できない感情や愛憎が複雑に絡まり、深い陰影が謎となって作品に奥行きを与えている。
 それは私たちに幾重にも問いかけ、考え続けることを強いるようだ。


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