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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

暮らしが仕事

2021-09-09 | 言葉
 「暮しが仕事 仕事が暮し」は、陶芸家・河井寛次郎のあまりに有名な言葉である。
 柳宗悦や濱田庄司らとともに1920年代に民藝運動を起こした河井寛次郎は、陶芸のほかに彫刻、デザイン、書、詩、随筆など多分野で作品を残した芸術家であるが、その生活は、仕事もプライベートも区別することのない、仕事と暮らしが混然一体となったものであったという。
 同じ敷地内に住居と仕事場、窯場が一緒に存在したことも、「暮らしが仕事」という言葉の背景にはあるのだろうが、河井は常々、日の出とともに起きて日の入りまで仕事をするお百姓さんのお仕事をとても尊いものとしていた、と紹介されている。

 たしかに農業の仕事は厳しく、作物を育てるためには一年中24時間気を配らなければならず、そこに仕事とプライベートの区別など入り込む余地はないように思える。
 また、作品制作によって日々の糧を得ることが可能な、いわゆるプロの芸術家であれば、その生活のすべてが仕事に通じるというのも分かるような気がする。

 では、作品だけでは生計の成り立たない、つまり「食う」ことの出来ない者にとっての「仕事と暮らし」の関係はどうなのか、ということを考えることがある。
 この世界に数多いる俳優、劇作家、画家や書家、彫刻家、詩人、デザイナー、ダンサー等々、その多くは自分が作品を創り出すことだけで食べていくことは出来ない。アルバイトを掛け持ちしたり、派遣社員として、あるいはフルタイムの会社員として勤めたり、学校等で教えたり……様々な手段で日々の糧を得ながら、家族を養い、制作のための材料を買いそろえ、残されたわずかな時間をようやく自分の創造のために使うのである。
 しかし、そうした時間のとらえ方――自身がめざす芸術のために費やす時間とそれ以外の時間とを区別する考え方は果たして正当なものなのだろうか。

 うろ覚えで申し訳ないのだが、昔読んだ永島慎二の「漫画家残酷物語」の中で登場人物の一人が、サンドイッチマンの仕事をしながら、「本当に描きたい漫画を描く一時間のために、十数時間をアルバイトに費やすことに何の悔いもない」と言うシーンがあって強く印象に残っている。
 それは、同じ漫画を描くのでも、ただ売れればよいとばかりに意に沿わない漫画は描かないという宣言なのだ。その彼にとって、アルバイトの時間は創作と無縁の時間ではない。それは本当に描きたいものを描くための一時間と直結した時間なのである。

 いま私は違うことを言おうとしてうまく言えずにいるのだが、誰もが思うとおりに生きられるわけではない。誰もが夢を抱きながら、その夢を実現できるわけでもない。では、その彼らは失敗者なのか……。そうではないのである。
 自分はこうありたい、こういうものを創りたい、実現したいという夢を抱き続ける者にとって、生きている時間は、そのすべてが仕事であり、暮らしなのだと私は思う。

 そしてそれは何も芸術やスポーツやビジネスの世界での成功を夢見る者のことのみを意味するのではない。
 病気や事故、ケガで本来目指していた道をあきらめた者にとっても、残された条件の下で、自分が挑戦できる最大限の可能性を探ることは出来る。たとえ病気になる前の体力は失われ、事故に遭う前の身体能力は減退し、余命も限られたとされる場合においても、生きようという意志のある限り、生きることそのものが大切な暮らしであり、仕事となる。
 それは実に貴いことなのだ。



古い船をいま動かせるのは

2021-09-05 | 言葉
 「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という、ドイツの哲学者ヘーゲルの有名な言葉がある。
 ミネルヴァはローマ神話の知恵と芸術の守護神であり、そのミネルヴァに仕える梟は、世界中の知識を集め、一つの時代が終焉を迎え、古い知恵が黄昏を迎えたときに飛び立つというもの。



 この言葉の解釈は様々あるようだが、私としては、一つの文明や時代、既存の価値や概念が終わりを迎えようという黄昏時に、過去を見定めて次の時代に向かう、という考え方が一番しっくり来るように思える。
 (ヘーゲルは違った意味合いでこの言葉を書いたようなのだけれど)
 今はまさに時代の転換期であり、これまでのグローバル経済や成長を追い求める経済重視の考え方が行き詰まりを迎えている。そうした時に、知恵と芸術という二つの目から歴史を見定め、私たちはどんな未来に向かうことができるのだろう。

 吉田拓郎が半世紀も前に作った「イメージの詩」が、稲垣来泉ちゃんという10歳の少女によってカバーされ話題になったのは最近のことだが、その歌詞のなかの、「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という一節がもう何年も前からずっと気になっていた。
 この言葉をどう解釈すればよいのだろう。
 ごく単純に考えれば、古い体制、古い組織を動かせるのは、これまでその舵取りを握ったきた古い人たちではない、ということなのだが。では、古い人たちとは誰を指しているのか。

 先ほどの歌詞に続くのは、「なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海のこわさを」という言葉なのだが、意味深ではある。
 古い体質の組織も新しい時代に乗り出さなければならない。しかし、古い人たちは新しい海のこわさを知っている。だから、新しい人たちがその船の舵取りをすべきだ、ということなのだろうか。
 だが、その新しい人たちには船を動かすための技術や知見は備わっているのか、ただ古いものを否定し、新しいというだけで舵取りを任せることが果たして妥当なのか、古いものと新しいものの違いとは一体何なのか……。
 考えれば考えるほど分からなくなってしまう。

 この数日、秋の気配が濃厚になると同時に、にわかに政局の慌ただしい風が吹き始めるようになって不穏である。その風向きにばかり気を取られて、目の前の舵取りばかりに夢中になっていると、ことの本質=本当に向かうべき目的地を見失いそうでならない。
 ミネルヴァの梟が見定め、飛び立った方向に思いを寄せたいものだ。

マスク越しの愛

2021-09-01 | 演劇
 演劇のエチュード(練習のための即興劇)にこんなのがあったのを思い出した。
 二人の俳優が、与えられた一語の台詞、つまり、「こんにちは」であったり、「おはよう」という言葉であったりを使って即興でシーンを作り上げるというものである。
 二人の俳優が舞台上に登場する。台詞はたった一言「こんにちは」あるいは「おはよう」というその場で指示された言葉に限定され、お互いにそれ以外の言葉を発してはいけないのだが、その条件のほかは泣こうが喚こうがまったくの自由である。その制約のもと、二人が芝居の上でコミュニケートしながら、どれだけの世界を作り上げられるか、というのがこのエチュードの眼目である。
 
 そんなエチュードを行う場面が漫画の「ガラスの仮面」にあったような気もするのだが、ま、それは不確かな記憶である。でも、その限られた条件のもと、たった一語の言葉を使って想像を超えた世界を繰り広げる北島マヤと姫川亜弓……というのは、いかにも興味深いと思うのだが、どうだろう。
 このエチュードの効能は、ともすれば勝手で独りよがりな芝居に陥りがちな俳優の矯正、という点にある。
 相手がどのようなシチュエーションを仕掛けてくるのか、あらかじめ分かっていないため、双方の俳優はお互いに全神経を研ぎすませながら、相手の言葉の息遣いや感情、表情をくみ取り、そのうえで相手の考える世界観や芝居の展開を想像し、反応するしかないのだ。その過程を通して二人は、相手の呼吸を受け止めたうえで演じるということを学ぶのだ。

 思うのだが、このエチュードをマスクをしたり、相手の表情が分からないといった状況で演じたらどうなるのだろう……? まったく支障はないのか、あるいは従来とは異なった反応や展開が見られるのか。
 コロナ禍のもと、芝居の稽古やリハーサル中もマスクをして演じることを余儀なくされていると聞く。それで演技は成立するものなのだろうか。
俳優によっては、本番になって初めてマスクを外した相手役の顔を見ると新鮮な気持ちで演技できる、といった声もあるようだが、本当にそうなのだろうか……。

 8月31日付毎日新聞に映画監督山田洋次氏へのインタビューが載っていて、映画製作における新型コロナの影響は? と問われた山田監督は次のように語っている。
 ……撮影中はスタッフはもちろん、俳優もマスクを着けているので表情が分からない。そんなのリハーサルと言えません。監督がスタッフや俳優に自分の思いを伝えるというのは言葉だけではなく、身ぶり手ぶり、目の色から察する、ということなんです。パソコンやデータで伝えられるものではない。……

 ところで、子どもの生育、とりわけ赤ん坊の成長にとって、言葉の分からないうちから、親や周囲の人間に見つめられ、微笑みかけられたり、しかめ面をされたり、怒った顔や泣いた顔など様々な表情を通じてコミュニケートする意味合いは実に大きいと言われている。
 現在、コロナ禍のもと、保育園でも学校でも、場合によっては家庭でさえも、マスク越しの育児やパソコンの画面越しの教育が否応ないものとして行われている。
 しかし、表情の半分以上が布に覆い隠されたり、スキンシップが制約された状態で読み取り得る感情にはやはり限界があるだろう。このことが常態化した日常で子どもの生育や教育に及ぼす影響は想像以上に大きいと思うのだが、これを何とかして補完する手立てはないものだろうか。
 そこで演劇の様々な技法や訓練方法を活用するという手はあるだろう。そこに一つのヒントがあるのではないかと考えるのだが……、どうだろうか。