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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

閃きは突然?

2010-06-19 | 読書
 「直観的な閃きは突然、予想もしない形で生まれるという神話がいつまでも生き延びているが、それは社会的な交流やコラボレーションを通じた出合いが洞察を生み出していることを意識しない者が大部分だからである。」
 「洞察も日常の思考と異なるものではない。洞察も一歩ずつ進み、自分の思考がどんな働きをしているか意識的には気づかないときでも、私たちは日常的に脳の処理作用を活用している。自分独りで突然の霊感を感じたとしても、そのもとをたどれば、しばしばコラボレーションに行き着く。」

 上記は、前回もふれた「凡才の集団は孤高の天才に勝る『グループ・ジーニアス』が生み出すものすごいアイデア」(キース・ソーヤー著)からの引用だが、同様の例は私たちの身の回りにも散見される。

 先日のことだが、ある友人と話をしていて、共通の知人が作成を担当したある計画書のことが話題になった。その計画は一定の評価を得て広く知られることになったが、当の知人は当初その執筆に行き詰っていた。
 それで私がその全体的な構想をまとめ、裏付け資料や図表の作成を除く下書きまでを手伝ったのだった。それ以降は、上司のチェックを受け、提出するという一連の作業を知人が自身で行った。
 「あの計画づくりに彼はずい分悩んでいたよね」という話になった時、その話し相手の友人が、「あの時は自分がかなり手伝ってあげたよ」と言ったので驚いてしまった。
 私も友人も、お互いが知人の仕事に協力していたことをその時まで知らなかったのだ。おそらく知人は、計画作成に悩みながら、あちらこちらでSOSを発信し、情報を得ていたのだろう。

 また、別の話。
 友人と私が共同で立ち上げたと私自身が認識しているあるプロジェクトに関して、その友人が人前で「あれはわたしが考えた企画だ」と話すのを聞いて驚いたことがある。その人はプロジェクトの企画が自分自身のアイデアだと思い込んでいるようなのである。
 実際は、何か事業を起こそうと仲間内で話し合いになり、私が以前からやりたいと思っていたことを提案した。友人はそのアイデアをさらにふくらませ、ネーミングや事業展開の具体化を図ったということなのだ。

 私はなにも友人の働きにケチをつけたいわけでも、自分の関与を誇示したいわけでもない。
 個人的な創作においても、ましてや組織・集団でのプロジェクトにおいては、さまざまな人との交流やコラボレーションのなかからこそアイデアは生まれる。
 であればこそ、すばらしいアイデアを生み出すためのコラボレーションのあり方は、まさに研究に値することなのだろう。

 かつて、いくつもの新しい有効なアイデアを生み出していた組織・集団が、いつの間にか決まり切った事業をただ反復しているようにしか見えなくなるとき、それはコラボレーションや関係者間のコミュニケーションに何らかの問題があることの証左に違いないからである。


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