seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

poetry note No.11

2020-08-27 | ノート


見慣れた光景が切り取られて非日常に変わる。
不穏な雲の間からぎらつく太陽が光を投げかけ、この街を見たことのない色に染めかえる。
青に灰色を混ぜたような空と建物の色のコントラストが物語を孕んで、私をけしかけるようだ。速く、はやく、逃げろ、逃げろと。
息を切らせ、よろめくように走りながら、
なぜか、ジャン・ギャバンが主人公の犯罪者を演じた映画「望郷」を思い出していた。
現代のぺぺ・ル・モコはこの街の何処にひそんでいるのか。

その男はこの街からの脱出を夢に見る。
それは叶わぬ夢だ。
この街のなかでだけ思いのままに振る舞うことを許された男。
かりそめの自由に絶望を感じ、
約束された死に希望を見出すかれは、
あらかじめ幽閉された犯罪者。
その女の香りはかれが捨ててきたはずの故郷の街を思い出させ、
そのまなざしはかれを死に導く。
差し伸べた両手に女をかき抱くことはできず、その影をつかもうと藻掻く手はいつまでも空をきるばかり。
条件つきの恋、不可能を宿命づけられた愛、
その成就のためにかれが選んだのは、一本のナイフ!

息を切らせ、よろめくように地べたを這いずり回りながら
私は夢に見るのだ。
現代のペペ・ル・モコはこの私なのだと。


poetry note No.10

2020-08-27 | ノート


水の底から見透かされているような、
雲の透き間から見下ろされているような。
不思議な時間だ。
たゆたう私は、その間を行ったり来たりしながら、
やがて蒸気となって消えていく。かげろうのように。
この川は遠い海につながっているし、
この空をたどれば地球の裏側にだって行けるはずなのに、
私はいつまでも橋のうえに佇んだまま。
何を見ていたのか。何が見えるというのか。

劇中歌

2020-08-16 | ノート
 昔の芝居には劇中歌がよく使われたものだ。今、思い返せば不思議なことだが、唐十郎にしろ、別役実、佐藤信など、当時よく見た大先輩世代の芝居にも必ず劇中歌が唱われていたものだ。
 その淵源を辿ることは私の手に余ることだし、このノートの目的はそこにはないのではしょるけれど、遡れば浅草歌劇やエノケン、ロッパの芝居にも歌はつきものだった。松井須磨子だって、「復活」の劇中で「カチューシャの唄」を唱って大スターの座を不動のものにしたのだ。
 そもそも、能楽、歌舞伎、文楽など芸能の源には歌舞音曲がその始まりから重要な要素としてあった、と思えば不思議でも何でもないのだろうが。

 前置きが長くなってしまったが、私が若い頃に出ていた舞台でも多くの歌が唄われた。そのほとんどは台本も手元になく、当然音源も手に入らない状態なのだが、今もって記憶に残って、折りにふれ歌詞とメロディーが頭に浮かぶ歌が一つある。
 それを記録しておきたいのだ。

 1974年頃だったろうか(何と大昔!)。当時、渋谷にあった天井桟敷館を借りて上演した舞台の劇中歌だ。私は、「企画集団逆光線」というところに旗揚げから所属していて、その歌詞は集団の主宰者で作・演出家の小和野清史さんが書いた。作曲は故・山田修司さん。 芝居のタイトルは「微睡みのコラージュ」だったか。
 いつもは作・演出の小和野さんが物語性とメッセージ性に富んだ戯曲を書き、それを上演するのが集団のスタイルだったのだが、その時の舞台は、俳優たちがやりたいシーンのアイデアや台詞の断片を持ち寄り、文字通りそれらをコラージュして創り上げるという方法を試してみたのだ。
 ただ、それだけではまとまりがないので、個々のシーンをつなぐサブストーリーを小和野さんが書き、そこに登場するのが以下の歌なのである。
 メロディーを聞かせられないのがとても残念なのだが、とっても良い歌です。
 タイトルはあったかなかったか、仮に『電話ボックス』としておきます。

♪♪
 どこの街に行っても 立っている
 一途な個室 電話ボックスよ
 どこの公園にもある ベンチのように
 もう わたしのことを忘れてくれるといい

 どこの街に行っても 待っている
 一途な個室 電話ボックスよ
 どこのホテルにもある ベッドのように
 もう わたしのことを忘れてくれるといい


poetry note No.9

2020-08-16 | ノート
朽ちかけた樹の根元にも生命はひそんでいる。
生きてさえいればどうにでもなるよ、と囁かれたような気がした。
明日のことばかり気にしたってしょうがないよ。
いま、この瞬間を一生懸命生きるんだ。

75年前の夏を思う。75年という時間を思う。
幾人ものひとが死に、幾人ものひとが生まれ、みな必死に生きた。
死は終わりを意味しない。
その生きた時間はこの蒼空に充満し、この地上に堆積し、
人々の心にとどまり、朽ちかけた樹の根元にもひそんで、
いまを生きるぼくたちを鼓舞する。




poetry note No.8

2020-08-16 | ノート
青い空を鋭角な線が区切り、くっきりと迷いのない輪郭を描く。
樹々の葉むらは風にあおられ、ゆらぎ、形は一向に定まらない。
そのどちらが好きだとか、正しいとか、自分に問いかけてみるのだけれど、それは仕方のないことだ。
そのあいだにたゆたう空気は夏の日射しに沸騰して屈折する。
そこに光は見えているのに、
めまいがしたのは、あんまり上を見すぎたせいだな。



詩、のようなもの No.7

2020-08-09 | ノート
こっちに来ちゃいけないよ、危ないからね。
子どもが見てはいけない世界。
子どもが知ってはいけない世界。
子どもが知っているはずのない世界。

日盛りの太陽に首筋を焼かれながら、
少年が蟻んこの巣穴を見つめている。
鼻孔をひくひくとふくらませ、大粒の汗と涙に顔じゅうを濡らしながら。
偏愛と憎悪はうらはらで、被虐と嗜虐は紙一重。
少年の夏は残酷だ。
孤独と引きかえに、きみは何を手に入れる?

おかあさんがいなくなってしまったんだ。
おかあさんはどこに行ったのかな、ぼくを置いて。
おかあさんはもうすぐ帰ってくるよ、
きみの妹か弟を連れて。
もしかしたら、新しいおとうさんも一緒かな。

ぼくがほしいのはそんなんじゃないよ、ぼくがほしいのは。
握りしめた虫メガネは、逃げまどう蟻んこたちを焼きつくすためのもの。
ポケットの虫ピンは、眠る虫にとどめを刺すためのもの。
みすぼらしい標本箱のなかで虫の屍骸は光り輝く、きみの孤独と引きかえに。
少年の夏は残酷だ。
それはやがて、甘美な思い出になる。




詩、のようなもの No.6

2020-08-07 | ノート
あの夏の日。子どもたちの声が聞こえていただろう。
誰かの名前を呼ぶ声が聞こえ、それに応える誰かの声が聞こえ、
セミの鳴き声があたりの空気をふるわせ、風がそよいで草や花のあいだをわたっていただろう。
その瞬間。
誰もいなくなってしまったんだ。
そこにあった音はかき消され、静寂と沈黙が、すべてを包み込んだ。

だけど、声は残る。
それは、今もあらゆるものの傍らに佇んでささやきかける。
それは、この世界に満ちて、満ちて、何かを突き動かそうとするだろう。
その声を、かすかな音を、耳で、身体全体で受けとめるんだ。ぼくたちは。ずっと。


詩、のようなもの No.1

2020-08-06 | ノート
まだ明るさの残る西の空を背景に黒ずんで向日葵が立つ。
そのさびしさもかなしみも世界のあらゆるものと無縁だ。
けれどそれはそっとわたしの傍らに佇む。
何も言わずただそこにあるだけなのに、おまえはくじけそうなこの心を鼓舞してくれるのか。

水辺に打ち捨てられた「救命施設」の看板。
雨かぜに晒され、褪せかけた文字のその下を無数の蟹が蠢き、這い歩く。
そこで誰が救われたのか、誰がいなくなったのかをわたしは知らない。
蟹は知っているのかな。

さまざまな路線が交差し、何両もの電車が行き交う。
日がな一日その眺めを倦かず見つめていたっけ。
この瞬間は二度と訪れない。人もまた昨日出会ったばかりなのに明日には別れる日がやってくる。
また会えるといいな。

みんな知ってるだろうけど、
ヒトの細胞も骨も数ヶ月から数年で全部入れ替わるんだって?
なのに、わたしの中の悪いこころが消えてなくならないのは何故だろう。
そこに巣くった病巣もまた。

黄昏の公園のベンチに坐るひとの影。あれはわたしなのか。
ありえなかった人生をふり返り、ありえたかも知れない人生を夢に見ながら、その人影は物思いにふける。
匕首をポケットにそっと忍ばせてわたしは背後に立つのだ。
何事かに決着をつけようとして。

ブック・オフ

2020-08-02 | 読書
 書棚の整理をしていて、おそらくもう読み返すことはないけれど、ゴミに出すには忍びないと思う本を14冊ほど選んで近所のブック・オフに持って行ったのだが、査定額は291円だった。100円以上の値がついたのはそのうちの2冊だけで、1冊は30円、残る11冊はそれぞれ1円の値付けである。
 いろいろと考えさせられる。
 1円の値がついた本は、誰もが知っている著名作家のベストセラー本なのだが、つまりそれだけ多くの人が手に取って読んだ結果、買い取りを行う店舗に持ち込まれ古書として出回る割合も高くなり、市場においてはもう飽和状態となっていることを示しているのだろう。
 値は希少なものにこそ微笑むのだ。

 本の価値とは何だろうか、と改めて思う。
 蔵書やコレクションは、それを保有している人にとってこそ価値があるというのが基本だと思うのだが、しばしばそれらが驚くほどの高値で取り引きされるのは、それに市場価値という別の要素が付加されるからだろう。著名な作家の稀覯本などにはとんと縁がなく、興味もない私にとっては、書物がそのように市場に流通し、取り引きの対象となること自体に理解が及ばないのだが、それは単に私が無知だからなのだろう。
 美術品や骨董品のオークションの世界はもとより、それらを鑑定する業が成り立ち、それに人生を賭するような人たちが多くいるという現実を考えれば、それは不思議でも何でもない自明の世界なのだ。
 そのうえで、あえて私にとっての本の価値とは何かと言うならば、それはそこに書かれていることが私の興味を喚起する度合いであり、かつ、私がその本を手にして読むことそのものを享受し、そのことを「快」と感じる瞬間の価値であると言えるかもしれない。
 さらに言うなら、私の貧しい書棚に並ぶ書物たちは、私がいずれそれらを手にして読むことを享受するだろうという「期待」の大きさによって価値づけられている、と規定することもできるだろう。そしてその「期待」は、市場原理とは相反するものであるがゆえに、私にとってはよりかけがえのないものだと言えるのではないか。

 私自身が廃棄することを選択したそれらの本に1円という値がつけられたこと自体には、私自身の「期待」値がそうであったように異論はなく、受け入れるしかない。ただ、それらの本を重い思いをして運んで行った《労力と時間》に見合うかと言われれば、どうかな、と嘆息するしかない。それだけのことだ。

 最後に付け加えるなら、私が持ち込んだそれらの本への評価はあくまで私個人のものであり、本の内容そのものを価値づけるものでないことは言うまでもない。
 願わくば、その本たちがゴミ箱の片隅で不当な待遇を受けるのではなく、より良い読者と出会い、その手に取られることを「期待」する。
 私の支払った《労力と時間》は、その「期待」が実現することによって十分に報われるのだから……。