seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

総理という俳優

2009-11-17 | 言葉
 俳優・鳩山由紀夫氏を評して「筋がいい」と言うのは、内閣官房参与の劇作家・平田オリザ氏である。
 初の所信表明演説にあたって演出(助言)した感想は、「指摘したことは全部できる。本番にも強い。駄目な役者は動揺すると声が高ぶるが、音の高さが一定していて、ぶれない」と絶賛である。
 そんな記事が何日か前の新聞各紙に出ていた。
 夫人が宝塚出身で、自らミュージカルやファッションショーに出演し、お茶目なフリを見せる総理のことだから、もともと芝居ごころが豊富なのだろう。

 これはよいことだと私は思う。
 以前、オバマ大統領就任の頃にも書いたことがあるのだが、これからの政治家にとって「演劇」は必須科目といってよいのではないかと思うのである。
 何も人前で「よい人」を演じろとか、朗々とした台詞回しで演説しろとか言うのではない。
 より「自分らしい」自分を人々の前に提示するために、演劇を学ぶことは必須ではないかと思うのだ。

 演劇を学ぶということが、誰か自分以外の何者かに成りすまして人の目を欺こうとか、本当の自分を押し隠して他人の心に取り入ろうとしたりするのでないことは当然のことだ。
 平田氏は、自分をより自分らしく見せるのにも技術がいると言っているのであり、そのために演劇が応用できるということを実証しようとしているのだろう。
 自分らしいと思う自分をそのまま表現することほど難しいことはないのであって、その目測を誤ったがゆえに人はしばしば余計な誤解を受けてしまう。
 自分はオタクたちの理解者であると自認し、アニメやマンガに詳しいことをひけらかそうとして軽薄さを露呈したり、ざっくばらんな人柄を演出しようとして、かえって人を見下したような物言いが反発を招いたりした誰かさんは、結局自分らしさを表現する技術を持ち合わせていなかったということに尽きるのではないだろうか。
 そもそも「自分」とは何か、ということが大問題である。これこそが自分であるという自分はおおむね誤謬に基づいた認識であることが多いのだから。

 何かを表現しようとする時、私たちはあまりに余計なものを身に纏いすぎるのである。
 優れた演技とは、そうした余計な衣服を脱ぎ捨て、裸になった自分をさらけ出す行為にほかならない。そのため、演技者には、自分をとことん客体化し、不必要な衣服と必要な衣装を選別する眼が求められる。
 演出者は、より客観的な立場で、演技者に対して余計なものを身に纏っていることを気づかせる役割なのだ。
 それらは「自分とは何か」ということを徹底的に突き詰めて考える作業にほかならない。

 平田氏という日本を代表する劇作家・演出家をブレーンとして、鳩山氏はどんな総理を演じるのか。
 本当に自分らしい声で台詞が言えればよいのだけれど、最近どうも違ったところからヘンな声が聞こえてくるようで気になってしかたがない。

「ろじ式」の夢

2009-11-04 | 演劇
 「フェスティバル/トーキョー09秋」が10月23日から開幕した。
 そのオープニング公演となる、松本雄吉率いる維新派の「ろじ式~とおくから、呼び声が、きこえる~」を先月24日と千秋楽の11月3日、2回にわたって観る機会があった。(作・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久)
 会場は廃校校舎を文化創造拠点へと転用し、アートNPOが運営する「にしすがも創造舎」の体育館特設劇場。
 校庭には屋台村が出現、さまざまな料理とともに開演前には音楽ライブが繰り広げられる。観客は、屋台村の「路地」を通って劇場へと誘われるのだ。

 維新派の東京公演は6年ぶりとのことだが、恥ずかしながら私にとっては今回が初見なのである。その高名は以前から聞き及び、テレビ放映された舞台の映像も観てはいたのだったが、実際の舞台に接する機会がなかった。こうした機会を多くの観客に提供するというのもフェスティバルならではの意義なのだろう。
 期待値の高い公演ということで多くの観客を呼び、開演前には当日券を求める行列ができていたが、どうしても入場できず涙を呑んだ人も多かったと聞いた。

 さて、「ろじ式」というタイトルからどうしても連想するのが、つげ義春の漫画作品「ねじ式」だろう。両者に直接的な関連性はないように思われるが、「ねじ式」が「ねじ」を方程式として展開するつげ義春の悪夢であるとするならば、「ろじ式」はまさに「ろじ」という方程式を通して覗き見る松本雄吉の夢想なのだ。
 その「夢」とそれを解きほぐし展開する「式」のありようにおいて両者は通低しているといえるのではないだろうか。
 作品の一場面、「鍍金工」に登場する少年工たちの姿はまさにつげ作品へのオマージュにほかならない。

 「ろじ」とは何だろう。中上健次の小説における「路地」との関連はあるのか、ないのか、と考える。両者を結びつけて考えるのは無理があるように思えるけれど、中上作品における「路地」がやがて「世界」に向かって披かれていったように、「ろじ」もまた、松本自身の少年の「時」を基点としながら何万年もの時間を遡り、さらにはアジアへ、地球の裏側へと披かれ、繋がっていく。それを仲立ちするのが「海」である。その点において両者は共通しているのではないか。
 
 それにしても舞台上に何百個と並ぶ木枠で縁取られた立方体の標本箱は圧巻である。それを出演者たちが自在に移動させ、並べ替えながら様々な情景を創り出していく。
 立方体のなかに浮かぶ標本は古代魚や鳥類、さらには原人と思われる骨の化石である。(そのほとんどが役者たちの手作りだと聞いた)
 冒頭、深海のイメージの中からアメーバ状の生命の始原の姿が浮かび上がり、二足歩行をはじめた猿人類の誕生を経て、人類の歴史をたどりながら戦後の焼け跡の「路地」、作者の松本雄吉自身の少年の夢の時間へと至る。そのことはぼんやりとではあるけれど、(私の見間違いかもしれないのだが)いつの間にか標本箱の中身が入れ替わり、焼け跡で見つかったような不発弾であったり、兵士のヘルメットであったり焼け落ちた家の水道管であったりすることで示される。
 (そうした場面で連想したのは、松本とほぼ同世代といえる天児牛大が主宰する山海塾の舞台「金柑少年」の冒頭シーンだった。そこにも何がしかの共通する鍵があるのかも知れない。)
 その旅はやがて、やはり海を媒介としながらアジアへと向かっていくようだ。

 劇全体は、内橋和久の圧倒的な音楽にのせて役者たちの発する言葉=大阪弁特有のイントネーションやリズム、語尾の面白さを活用した「遊び」によって綴られる「詩」の世界である。
 その豊かなリズムに身を浸しながら、私もまた夢を見る。
 それは本当に得がたい「体験」というしかない時間なのだった。