seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

世論調査の「怪」と「解」

2022-06-28 | 日記
友情を失いたくなければ政治の話をするな。
小説のなかで政治の話をするのは音楽会へいって演奏を聞いてるさいちゅうに耳もとでいきなりピストルを射たれるようなものだ。
以上は開高健の小説「夏の闇」のなかに出てくる言葉だが、政治と生活が直結したものである以上、これを避けて通ることは出来ないだろう。
ということで、友情にひびが入らないよう気をつけながら少しばかり政治寄りの話をしたい。

選挙投票日が近づくこのタイミングで新聞・テレビなど各報道機関が行った世論調査の結果が報じられている。
一体この世論調査なるものにどれほどの信憑性があるのだろうとずっと前から気になっていた。加えて言うならば、それを報道することにいかほどの価値があるのだろう、といつも考えてしまう。
まさに世論調査の「怪」なのである。

世論調査の目的は何だろうと考えてみるのだが、一般的には、多くの人々=国民が何を求め、何に期待しているかを調査によって明らかにし、その時点における人々の考えを知る、ということだろうか。それによって、より多くの人々が選挙や政治課題を深く考えるきっかけにしたい、ということも含まれるかも知れない。

しかしながら世論調査はあくまで調査した時点の状態を知るということなのであって、いわば過去のものでしかない。
調査によって未来は予測できないのではないかという疑問が湧く。そこからいかなる結論を導き出そうが、それは幻想を語るようなもので、その後いかようにも変容し得るものなのである。

現に、世論調査の結果と実際の選挙結果は一致しないことが多い。
選挙に行く、あるいは必ず行く、と回答した人の割合に比べて、実際の投票率がそれを大きく下回ることの多いのがその端的な例である。
また、各政党の支持率が、実際の得票率と一致しないことは必ずと言ってよいほどだ。

これは投票日に行われる出口調査なるものとの大きな違いである。
出口調査はかなりの精度を有しているようなのだが、それにしても開票作業の始まる午後9時とほぼ同時に《当確》が出て、万歳三唱する候補者の姿をテレビ画面で見ることほど呆気にとられ、味気ないことはない。茶番を見るようである。

しかし、こうした事象は、事前の世論調査と出口調査との違いを際立たせているとも言えるだろう。
出口調査が、その直前の投票行為に関するアンケートであり、あくまで投票した人が対象である。
これに対し、世論調査はより漠然とした状態で問いかけた人々の願望を数値化したものなのだ。(当然、そこには実際には投票に行かない人の声も多数含まれている)

そうしたなか、調査結果として、一方の勢力が過半数を獲得する勢いだとか、もう一方の勢力は苦戦を強いられている、といった情報が見出しとなって流されるわけだが、これによって実際の投票に影響が及ぶことは容易に想像できるだろう。
もう大勢がはっきりしているなら今さら投票に行っても仕方がないと思うか、それでは頑張ってひと踏ん張りしなければと奮い立つのか、人によっても立場によっても違うだろうが、報道やニュースの見出しは大きな影響力を持つものなのだ。
また、一定期間行われる選挙運動の間に生じた事件や社会情勢もまた微妙に変化し、人々の幻想の揺らぎとなって影響を与えるだろう。
現に昨日あたりから、政権与党の中心にいる政治家の発言によって、年金や高齢者医療の問題が選挙の争点として浮上してきたと言われている。

多くの人々が常に確たる考えを保持し続けているわけではない。
ニュースの切り取り方や、SNSで発信されるフェイクもどきの情報にも敏感に反応しながら、投票用紙に記入する直前まで人々の感情や社会の空気はブレまくるのである。
実に曖昧模糊とした捉えどころのないものによって投票結果は左右されると言ってよいのだろう。

いつも思うのだが、そうしたあやふやなものをもっと具体的で目に見えるものとして明らかにすることは出来ないものだろうか。

分かりやすい例として言うならば、各政党が示す「公約」をもっと精密に分析することは出来ないだろうか。
素人目には、現状の「公約」なるものの多くは具体性を欠き、かつ、出血している傷口に貼る止血絆創膏のような応急処置的なものばかりではないかと感じられて仕方がないのだ。
現下の物価高に対して、低所得者や年金受給者に給付金や補助金を支給するというのは重要な観点ではあるけれど、あくまで傷口をふさぐ程度の効果しかないだろう。
最低賃金や労働者の給与をアップさせるため、さらには雇用状況や就労環境を改善するための根本的な問題分析やそれに基づく具体的な政策こそが求められているはずなのだ。

このように「公約」を実現度、財源、費用対効果等の観点から分析し、それが今の日本が抱える問題の抜本的な解決にどの程度貢献するかを示したうえで人々に問いかけることは出来ないのだろうか。

さらに言うならば、過去の選挙戦で示された各党、各候補者の「公約」が、その後どの程度実現したか、あるいは反古同然の扱いになっていないか、といった成績表のようなものは作れないものだろうか。
各政党や候補者が選挙の際に示し、約束したものがその後どうなったのかを批判的に分析し、明確にして問いかけるのはジャーナリストの重要な仕事であるはずなのだ。

もう一つ、これは政治家や行政機関の役割なのかも知れないが、調査によって得られる人々の要望、ニーズを、漠然としたものからブラッシュアップし、より具体的な政策レベルあるいは施策レベルにまで磨き上げるにはどうすればよいのだろうか。

単に人々が関心を持つ政治課題が、第1には経済問題である、第2には防衛・安全保障問題である、と大括りにしたところで何も見えては来ない。
経済問題にしても、賃金なのか、雇用の安定なのか、捉え方は一人ひとり違っているはずなのだ。
年金問題といっても、今現在受給している高齢者と、将来本当に年金は給付されるのだろうかと不安に思っている現役世代では捉え方に違いがあるのは当然なのだ。

限られた資源をいかに有効に使うのか、答えはその人の立場によってさまざまである。誰もが喜ぶ方法などないのかも知れない。しかし、そうしたなかでも最大多数の最大幸福をめざして時には苦い水を飲んでもらうよう人々を説得するのが政治なのだろう。

近代マーケティングの父といわれるフィリップ・コトラーが、心理学者G・D・ウィーヴの問いかけを紹介している。
「……なぜ石鹸を売るように人類愛を売ることができないのか」

社会全体がより良く、好ましいものとする政治を行わせるために、マーケティングをどのように活用すべきかという問いかけである。
平和、人類愛、戦争のない世界、貧困の撲滅、飢餓に苦しむ人々のいない世界、暴力のない世界、希望にあふれた世界……、それらを実現するためにマーケティングの手法をいかに活用すべきなのか、ということだ。

必要なのは、調査によって得られたビッグデータを顧客一人ひとりの目線で読み解き、本当に解決して欲しい問題を発見・抽出し、解決方法を見つけ出していくことである。
そこにマーケティングの手法が活用できるのではないかとコトラーは言うのだ。
そのために時間はかかるけれど、個々の政治家が、あるいは行政に携わる人たちが、愚直に人々の声に耳を傾け、ともに意見を交わし、より最適な解に一歩ずつでも近づこうとする不断の努力が求められるのだろう。

世論調査の「怪」ではなく、「解」を導き出すための努力である。

最後に一つ、自動車産業の生みの親ヘンリー・フォードの言葉をメモしておきたい。
「……人々の要望ばかり聞いていたら、私は速い馬を探しにいっていただろう」

後年の自動車社会が本当に社会に幸福をもたらしたかどうかと問われるといささか首を傾げざるを得ないのだが、フォードのこの言葉は、星の王子様の「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という言葉とともに時折思い出しては噛みしめたくなる一節である。

人々のニーズを追うだけでは本当に必要なものは見つからない。
要望や願望の上っ面からは、人々が求める根本のところは分からない。
本当に必要なものは何なのか。それを見出し、本当の問題を解決するためにどうすれば良いのか。
答えは私たち一人ひとりがより深く考え、行動することにかかっていると言えそうだ。

ネガティブ・ケイパビリティ

2022-06-22 | 読書
友人たちが私の書いたものにたまに感想を寄せてくれるのだが、最近投稿した「何も決めないという決定」「対立しながら共存する」について、それは「ネガティブ・ケイパビリティ」というジョン・キーツが唱えた概念に近いのじゃないか、と教えてくれた。
そう言われてはっと気がついたのだが、それは確かにそうなのだ。

「ネガティブ・ケイパビリティ」については、小川公代著「ケアの倫理とエンパワメント」の序章と1章に詳しく書かれている。
定義づけとしては、「相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない『宙づり』の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力」ということであり、「短気に事実や理由を手に入れようとせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態の中に人が留まることができるときに表れる能力」を意味するとある。

さらに本書では、作家で精神科医である帚木蓬生がその著作の中で「人はどのようにして、他の人の内なる体験に接近し始められるのだろうか」という問いに言及していることを紹介している。帚木氏は「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」の中で次のように書く。

「共感を持った探索をするには、探究者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない。(中略)体験の核心に迫ろうとするキーツの探求は、想像を通じて共感に至る道を照らしてくれる」

これらの言葉は、最近話題になったいくつかの文学作品において描かれる登場人物が、自分が抱える癒しがたい痛みや傷について、第三者の一方的な決めつけによってカテゴライズされたり、おざなりでありきたりの理解から発せられる同情や憐みに対して異議申し立てをする姿が描かれていることを想起させる。
それらの作品の中では、当事者の痛みに寄り添うことのない第三者の「想像力の欠如」こそが断罪されるべきであると読者は期待するのだが、その期待が叶えられることはなく多くの場合は宙ぶらりんのままに放置される。作家たちは、想像力を駆使して当事者の苦悩に寄り添いながら、そうした現実の姿をもまた冷徹に見つめるのだ。

まさに、「想像力は他者との共感に至る道筋」であり、「病気や苦悩に寄り添いながら、その状況をじっと見守る営為と、物語を言葉で紡いでいく営為は地続き」なのである。

改めて、「ネガティブ・ケイパビリティ」が、芸術作品を生み出すために必要な能力であるのみならず、仕事上の課題解決や組織のマネジメントにおいてもまた極めて有効で不可欠なものであると感じる。

「役に立たない」ことの意味

2022-06-20 | 日記
散歩をしていると様々なことが思い出されるし、いろいろなことを考えてしまう。
最近はよく昔の若かった頃の恥ずかしい行状が突然甦ってきたりして、自分のことなのにいたたまれない思いをすることがある。
青春期の悪戦苦闘なのだが、そこから自分は何を得たのだったろうか、などと考えてしまうのである。
私がこれまでやって来たことの大半は、世の中の「役に立たない」ことばかりだったような気がするが、そのことに本当に意味はなかったのだろうか。



そんなことを考え、歩きながら、ふと川端康成の「伊豆の踊子」を思い起こしていた。
小説の主人公の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出たのだったが、そうした感情は思春期の誰もが感じるものなのだろうか。

いささか個人的なことを言えば、私が十代の半ばに芽生えたひねくれた感情は、あらゆる権威や押しつけがましい力に対する名づけようのない反発になってその後の人生を大きく踏み外す結果をもたらしたように思う。
人生において「役に立つ」はずの高等教育なるものからは早々にドロップアウトしてしまったし、努力とか修練とかいう、大人たちが親切にも忠告してくれる言葉にはわざとのように反対の道をあえて選ぶような振る舞いに自分を追い立てるようだった。
そうした闇のような時期は誰もが経験することなのかも知れないが、私自身はそこから脱却することがなかなか出来なかったのだ。

それにしても「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことなのだろう。
人生をとおして人は何を得ようというのだろう。

「伊豆の踊子」の主人公は、旅芸人の一家との出会いと交流の中でその心をあたたかくときほぐされていき、最後の場面では素直で自然な感情のなかに身を委ね、甘く快い涙を流すのだが、私にとってそれに匹敵するものは何かと考えると、それこそ「演劇」であり、「病気」だったのかも知れないと最近になってよく考えるのだ。

演劇についていえば、結局私は「芝居で食う」ことが出来なかった三流の俳優でしかないし、病気は長く放置したことの「つけ」によって、腐れ縁のように一生付き合う羽目になっている。
自分の努力や心がけだけではどうにもならない世界に私はいるわけなのだが、逆に、そうした不条理な状況の中で悪戦苦闘することの意味というものを改めて噛みしめているのでもある。

スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作「最後の大君」(村上春樹訳)の訳者あとがきの中で紹介されているのだが、フィッツジェラルドは娘のスコッティ―にあてた書簡の中で、このように語っている。

「……人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです……」

……それはあるいはフィッツジェラルドの文学と、そして人生のひとつの要約になっているかもしれない……と、村上春樹氏は書いているが、たとえはじめから勝ち目のない負け戦のような人生でも、少しでもそれに抗おうと苦闘すること自体に価値があるのであり、その苦闘をとおして自分は満足感を与えられるのだ、ということだろうか。
私も同感である。

もう一つ、覚えておきたいエピソードがある。
イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」(須賀敦子訳)の最初の章に書かれている言葉である。

「……私たちが古典を読むのは、それが何かに『役に立つ』からではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。……」

そのうえでカルヴィーノは、思想家シオランの言葉を引用し、次のエピソードを紹介する。

「……毒人参が準備されているあいだ、ソクラテスはフルートでひとつの曲を練習していた。『いまさらなんの役に立つのか?』とある人が尋ねた。答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』……」

素敵な話ではないか。
私は、権威づくの押しつけは嫌いだが、こうした役にも立たない習練に嬉々としてうつつを抜かす姿を見るのは大好きである。
私自身もかくありたいと願う。

対立したまま共存する

2022-06-19 | 日記
今朝の新聞の一面に建築家・安藤忠雄氏のインタビュー記事が載っている。
聞き手は池上彰氏で、安藤氏が大阪中之島公園内に設計・整備し、大阪市に寄附するとともに、運営費用については広く寄附を募った「こども本の森 中之島」の話を中心に、子どもの頃から本に触れ、読書することの大切さを語った記事である。

今年80歳の安藤氏だが、10年以上も前に癌が見つかり、胆嚢と胆管と十二指腸を摘出、さらにその数年後にも癌のため、膵臓と脾臓の全摘出手術を受けたという話はよく知られている。
その安藤氏が今も毎日一万歩を歩き、元気に仕事で世界中を駆け回っているというのは奇跡とも思えるが、仕事が彼を駆り立て、元気の源になっているというのは確かなことだろう。何かを失ったら、それを補完する方法を見つければよいだけの話なのかも知れないと、氏の話を聞いているといつの間にか前向きになっている自分に気がつく。

以前手に入れた2015年11月号の「芸術新潮」では安藤忠雄の大特集が組まれていて、折に触れてこれを見返すのだが、いつも刺激を受ける。
今日もページを繰っていて目に飛び込んできたのが、2001年にアメリカのセントルイスに完成した〈ピューリッツァー美術館〉のプロジェクトの話である。

アーティストでコミッションワークを依頼されていたリチャード・セラとエルズワース・ケリーが初期段階から建築計画に参加してきたのだが、それぞれ立ち上がるものに対して自分なりのイメージを持っている者同士の意見がぶつかり合ったことがある。
そうした事態になった時の安藤氏のスタンスはとても共感できるものだ。

「……妥協によって調和させるのではなく、対話によって対立したまま共存する道を探していく。自立した個人と個人が向き合い、しっかりと対話することが肝要です。同じ共同作業でも、それに臨む姿勢によって、できあがる空間の緊張感は大きく変わってくるのです……」

資金を持った人間や自己主張の強い人の意見にただ迎合、妥協して調和の道を探るのではなく、対話とコラボレーションによって最善の方法を見つけ、創造していくことが何より大切だ、ということだろうか。

「二項対立の脱構築」という哲学用語を思い出すのだが、まさに「対立したまま共存する」ことで解決策を見出すことの意義を感じさせてくれる言葉だ。
単に調和を目指し、妥協案を探るだけではどうしても釈然としない部分が互いの心の中に残り、わだかまりとなってしまう。
そうではなく、対立した相互の意見を尊重しながら、アイデアを出し合い、より高次な解決策を発見することで、互いが納得し、より創造的な空間や作品を作ることが出来る。

私たちの人生も社会も政治的な課題も、今世界で起こっている紛争も、まさにこうしたスタンスでの解決の道の模索こそが求められているような気がする。

何も決めないという決定

2022-06-18 | 日記
昨日通院した時の話をして、主治医がはっきりしたことを言ってくれない、まるで禅問答のようだと書いたのだったが、それは何も医師を批判しようという意図によるものではない。おそらくそれは医師として正しい態度なのである。

分かり得ないものの前で人は沈黙しなければならない、というのは有名な哲学者の言葉だが、あらゆる判断の要素があり、そのどれもが正しく、そのどれもが間違っている可能性のあるときに判断を一旦留保するというのは、おそらく望ましい対処なのだ。
もちろん何らかの処置をしなければ目の前の患者が危機的状況になるという場合には異なる対処方法があるのは当然のことだ。

一方で、痛みに耐えかねているような時には、何らかの決定を下して欲しいというのも患者の側からの心理的要請としてあり得ることなのである。
たとえその判断が間違っていたとしても、自分に対して毅然とした裁定を下してくれる医師を頼もしいと感じる心理である。
おそらくこれは、不景気が続いて貧困や格差が広がり、国が経済破綻に陥って行き詰まった場合などに、独裁者が自分たち迷える国民を引っ張って行ってくれることを求める人々の心理とどこかつながっているのかも知れない。

「何も決定を行わないという代替案は、常に存在する」と言ったのはドラッカーである。「意思決定は本当に必要か」を自問せよということだ。
「意思決定は外科手術である。システムに対する干渉であり、ショックを与えるリスクを伴う。よい外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない」のである。

ここでドラッカーは、「2000年も前に、ローマ法は、為政者は些事に執着するべからずといっている」ということを紹介しているのだが、現実には、無能な組織のリーダーに限ってどうでもよいような些事に拘り、改革の名のもとに組織体制や人事を必要以上にいじくりたがるものだ。このことは身の回りの、少し見知った組織(企業や団体)の様子を観察すれば腑に落ちるだろう。

無能な独裁的リーダーほど、どんな些細なことでも自分の耳に入れたがり、どんな細かなことも自分で決定しなければ納得しない。その反面、人の意見には懐疑的で自分の考えに同調しないものを徹底的に排除しようとする。
彼はコミュニケーションなど歯牙にもかけず、自分に異論を唱えるものは容赦なく粛清し、組織を自分好みの体制に作り上げようと、改革という名目で不要な手入れを繰り返す。
その結果得られるものは、泥沼のような組織の弱体化でしかない。

必要なのは情報開示(公開)と観察、徹底的なコミュニケーションに基づくネットワークの構築であり、その結果得られる集合知をもとにした冷静な判断と決定ではないだろうか。

病気の話をしながら、いささか強引に組織改革の話にしてしまったけれど、いずれも組織細胞の病変にかかわることだとすると、これらはどこかで深くつながっているように感じられてならないのだ。

1500勝達成

2022-06-18 | 日記
もう夜半を過ぎてしまったので昨日のことになるが、4週間ぶりに西新宿の街を歩いた。定期的に病院に通う必要があるからだが、多くの勤め人が行き交うこの街が私はどこか好きなのである。
このビル群を眺め、ふらふらと徘徊しながら雑踏の中に身を潜めてみたくなる。そこに妙な安心感を覚えるのだ。



私自身の体調はどうもはっきりしない……、どころか明らかに悪化しているようなのだが、今自分がどういう状態にあるのかが分からないのである。
採血検査、レントゲン撮影のあと、診察室に入り、主治医にこの4週間の身体の具合、どれだけ痛みが酷かったかなど経過を説明する。
医師はもちろんその話をよく聞いてはくれるのだが、その痛みの根本的な原因はという話になると、確定的なことは何も言えないらしく、この可能性もあるが、こちらの可能性も否定できないなどと、途端に禅問答のようになって分からなくなる。
一体この身体の中で何が起こっているのか。

 夏目漱石の「明暗」の中で、主人公の津田が独りごちる「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起こりつつあるのかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ」という言葉を思い出す。実際、そのとおりなのだ。

今日(17日)の新聞では16日の将棋の順位戦で羽生善治九段がプロ入りから通算1500勝を達成したというニュースが報じられている。
1986年1月に中学3年生で1勝目を挙げてから36年かけての快挙ということになる。その10年後の96年には7冠となり、一躍時の人となったのは誰もが知るとおりだ。

その7冠達成時、米長邦雄永世棋聖が経団連において「なぜ、羽生君に勝てないか」と題した講演を行ったことが新聞に載っていたのを覚えている。その時、53歳の永世棋聖はこう語ったのである。

「われわれベテラン棋士は得意の戦型が忘れられない。その戦型で勝った記憶が忘れられない。その戦型はもう通用しなくなっているのに」

当時はバブル経済の崩壊から数年経った頃で、日本経済の先行きは見えず、暗澹たるものだった。米長氏の言葉を、名だたる企業の経営者が、むずかしい顔をしてじっと聴き入っていたという……。

その羽生九段も今や50歳を超えて当時の米長永世棋聖の年齢に近くなり、29年も在籍した順位戦のA級から陥落してしまったし、タイトル戦からも遠ざかって久しい。
時の流れの無情を感じてしまうのも事実だが、私自身は羽生九段には《名人位》こそが相応しいと思っている一将棋ファンなのである。近いうちに必ず復位してくれるに違いないと捲土重来を心の底から願っている。

本屋さんの危機

2022-06-16 | 日記
赤坂の文教堂書店が27年間の営業に幕を下ろし、今月17日に閉店することが新聞やネットニュースで大きく報じられている。
首相官邸も近いことからかつては歴代首相も訪れた店舗だというのだが、これで赤坂から一般書店が姿を消すことになるとも書かれている。直接の要因は入居しているビルの再開発に伴う閉店ということらしいのだが、昨今のネット販売や電子書籍普及の波が老舗書店にも押し寄せ、これに加えてコロナ禍による外出自粛が店頭での販売に影響を及ぼしたのは間違いないだろう。

こうした現象は、音楽業界のネット配信の伸びや楽曲を聴くためのツールの多様化がCDの売り上げを大きく減少させる要因となったこととどこか似ているようである。とは言え、デジタル配信による売り上げがそれを補完し、音楽業界全体が発展しているのならそれはそれで良いのだが、実際のところはどうなのだろう。

一方、出版業界の状況はより厳しそうである。ネットで検索しただけでも、出版・印刷業界全体の売り上げが減少傾向にあることは疑いようのない事実のようである。
クールジャパンの代表ともいわれるコミックについても、紙媒体のマンガ雑誌等の売り上げは20年前と比べてほぼ半減しているというのだ。その反面、コミックの電子市場は前年比20.3%増で、市場の約9割を占めるまでになっているそうなのだが。

こうした現象には様々な要因があるのだろうし、何よりも各分野の当事者の皆さんが必死にその打開策に頭を絞っていることは十分に理解できるので、外野からとやかくいう必要はないのかも知れないのだけれど。
私自身はあくまで一消費者であり、街の本屋さんを愛する一個人の立場に過ぎないけれど、赤坂に限らず私が知っている範囲でもいくつもの書店がいつの間にかなくなっていることは衝撃であり、実に寂しくてならない。

今日の毎日新聞朝刊のオピニオン欄では、『[本屋さんの危機]つながる場 守りたい』と題した特集が組まれていて、その中で直木賞作家・今村翔吾氏の取り組みが紹介されている。
「文学界の『お祭り男』として出版界を盛り上げたい」という志のもと、今村さんは、全国の書店や学校をワゴン車で巡り、各地でトークイベントやサイン会を開き、読者と交流する取り組みを続けているのである。
今村さん自身、廃業の危機にあった大阪府箕面市の書店の経営を昨年引き継いでいるのだが、それもこれも「リアル書店はなくなってほしくない」という問題意識が彼を駆り立てているのだろう。

こうした試みが市場全体の大きな動向にどれほどの効果を生むのかは分からないが、その志はきっと多くの本屋ファンの胸に届くに違いない。
バタフライ・エフェクトという言葉もある。一人ひとりの地道な取り組みがやがて大きな潮流になると、一人の本屋ファンとして願っている。

旅する王~「未必のマクベス」

2022-06-15 | 読書
早瀬耕の小説「未必のマクベス」を読み終わる。
本作は2014年に刊行された氏の22年ぶりの長編第2作とのことだが、私はこれを2年ほど前に文庫本で買ったまま、600ページを超える分量に気後れして未読のままにしていたのだった。

最近になって本を読むしか楽しみのない境遇になってようやく読み始めたのだったが、結果として、素晴らしい読みごたえと読後の充実感だった。
いわゆるエンターテイメント小説だが、ジャンルとしては異色の犯罪小説にして、痛切な恋愛小説と表紙に紹介されているとおりだ。そのほかにも、サスペンス、ハードボイルド、経済小説、企業を舞台にしたミステリー等々、さまざまな形容が可能であるように、多面的な光彩を放つ作品なのだ。
シェイクスピア好きにもたまらない要素が存分に仕掛けられている。小説の世界観を好きになると、いつまでもその中で浸っていたいと思わせる得難い魅力に満ちた作品でもある。
事実、読み終わった途端にまた冒頭からもう一度読み返したいという誘惑に駆られてしまうだろう。これは初恋の思い出がいつまでも新鮮なまま、胸打つ感情を保ち続けるのと似ているようでもある。

「未必のマクベス」は王となって旅を続けることを宿命づけられた男の話である。そこにシェイクスピアの「マクベス」の筋立てがオーバーラップして彼を底深い落とし穴に誘い込むのである。
マクベスが魔女の予言に唆されて予期しなかった王冠の簒奪に手を汚し破滅していくように、本作の主人公もまた、いつでも引き返せたはずの旅の路程に自ら身を投げ出していく。それは見たこともない世界を旅する誘惑に抗しきれなかったからなのか。

冒頭、次のような言葉があって、旅の意味合いについて考えさせられる。

 「……『旅慣れた人』は、旅などしていない。大半の『旅慣れた人』は、旅に似た移動を繰り返しているだけだ。飛行機が離陸するとき、旅先での出来事を想像して心躍らせることも、帰国したときにほっとすることもなくなる。それは旅ではなく、ただの移動に変わってしまっている。それでも『旅慣れている』と評される人がいるならば、彼は、その移動が終わったときから旅を始めるのだろう。……」

この言葉に何とも言えず共感するのは、私たちの人生がまさに旅そのものだからなのだろう。旅慣れた人の移動が味気ないように、世慣れた人の人生も随分つまらないものではないかと思うのは、こちらがいつまでも人生のさまざまな場面で躓いてばかりいるからだろうか。
芝居の世界で言えば、舞台慣れした俳優や、場数ばかり踏んで舞台に立つことに何の感動も覚えなくなった役者の演技がつまらないのと同様なのだ。観客が求めているのは、初めての旅に向かう時のワクワク感であり、発見なのである。

記録映画のこと

2022-06-14 | 日記
しばらくの間、短めのメモを書くことにしたい。
情けないことに病気の進行なのか、薬の副作用なのかは分からないのだが、パソコンを前に机に座っていること自体が辛くなってしまった。外出どころか、近所の散歩すら出来なくなる事態は想定していなかったので、本人としては笑ってしまいたくなるほどの痛恨事なのだが、そう泣き言ばかり言ってもいられない。
差し障りのない範囲で日記代わりにメモを書き散らしておくことにする。
言うなれば、私家版の《病牀六尺》か《仰臥漫録》を気取っているのである。

最近は新聞を読むこともさぼりがちで、溜め込んでいた記事の切り抜きを読む。
先週の夕刊の映画欄に河瀨直美監督の「東京オリンピック2020 SIDE:A」が全国200館で公開されながら、事故レベルと言ってよい不入りだという記事が載っている。
オリンピック本番は新型コロナウイルス新規感染者数が大きく増加するなか無観客で行われたが、この映画までほぼ無観客で上映されているというのは皮肉以外の何ものでもない、といった論調だ。

1964年の市川崑監督の「東京オリンピック」が記録映画の金字塔と評されたのとは大きな違いだが、この違いは単に時代の変化なのだろうか。
当時は各家庭にビデオなどなく、人々がオリンピック競技の感動をもう一度味わおうと思ったら映画を観るしかなかったのだが、この変化は大きいだろう。
今や多くの人が見たい場面を見たい時にインターネットやSNSを使って繰り返し見ることが出来る時代なのだ。加えて、競技後に多くのメダリストがテレビ局を掛け持ちして繰り返し《感動の場面》が放映されていた。
受容する側にとってもその《感動》はある意味ですでに飽和状態に達していたのかも知れないのだ。

さらに、前回オリンピックと今回では多くの人々の期待値にも大きな違いがあった。
コロナ禍のもとでの開催に反対する人も、賛同する人も、みな複雑な感情を持たざるを得ない状況だったのだ。
さらに、本映画の撮影現場をドキュメンタリーで追ったNHKの番組でインタビューの字幕捏造の案件や、河瀨監督自身のハラスメントと思しき事案など、ネガティブな報道が続いたということもあるだろう。
今年2月に始まったロシアのウクライナへの侵攻はじめ、その影響による物価の高騰や極端な円安問題等々は、人々の関心をすでに過ぎ去った去年の感動からは遠いものとしてしまったのではないだろうか。

映画そのものを私自身は未見なので、その評価云々に関して何も言う資格はないのだが、映画公開の環境としては甚だ課題山積だったとは言えるのだろう。
しかしながら、映画表現そのものについての議論が深まらないという現状は、どの立場の人にとっても不幸なことに違いないと感じるのである。