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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

逆事 さかごと

2011-07-19 | 読書
 河野多惠子の小説集「逆事(さかごと)」を読んだ。表題作のほか、4つの作品からなる短篇集である。
 逆事、というのは、広辞苑によれば、「ものの真理に反すること。また、順序が逆であること。特に、親が子の葬儀を営むこと」などとある。
 「人は満ち潮で生まれ、干き潮で死ぬという――。谷崎も、佐藤春夫も干き潮で逝った。だが三島由紀夫が逝ったのは、満ち潮に向かうさなかのことだった」と本の帯にあるように、潮の満干と生死の謂れを次兄の十三回忌に聞いた語り手が、志賀直哉の小説「母の死と新しい母」の中に出てくる実母の臨終シーンを思い起こし、さらに自分の父や母の死にまつわる話へと記憶をたどりながら、実母の2歳上の姉だった伯母の死へと思いを巡らせていく。
 その伯母は、戦争でひとり息子を亡くしているのだが、語り手が靖国神社の近くに家を構えたことを知った彼女が、何とか靖国神社に泊まる出立てはないものかと電話で問い合わせてくる。
 いくら念じても息子が夢に現れてきてくれない、小さい時の息子は現れてきてくれたことはあるけれど、大きくなってからの息子はただの一度も来てくれたことがない。自宅が空襲で焼けてしまい、帰って来ようのない息子のために、靖国神社に泊まってやれば必ず夢に出てくるにちがいない。添い寝してやりたいと言ってやまないのだ。
 はかばかしい返事のしようもないままいつしか連絡は途絶え、3年ほどが過ぎてその伯母は死んだ。
 ある日、神楽坂の紙店に原稿用紙を買いに行った帰り、靖国神社の境内を通り、御手洗で柄杓から水を飲んだとき、水槽の斜め向かいで、大きい丸柱に片手を当てて立っている老女を見る。……それは伯母の幽霊だった。

 三島の死や志賀直哉の小説がこの作品にとって必要不可欠な要素であり、構成の土台を成すものといえるのかどうかは分からないのだけれど、気ままとも思える記述のペン先は、あちらに行っては思いを綴り、こちらについても書き進めながら、その連想からさらに次の文章が生まれるという随筆風に言葉をつむぎながら、死んだときの伯母の気持ちに思いを収斂させていく。その筆の運びは見事としか言い様がない。
 所収の5作に共通するのは、人の住まう場所や生死にまつわる謎が綾なす深淵、ということだろうか。
 人は何もかもを語り尽くして生きているのではなく、むしろ語りえぬまま哀しみを胸に抱いて死んでいくのかも知れない。

 4番目に配列されている短篇「緋」は、20年に及ぶ夫婦の来し方を、夫の転勤に伴う住まいの転変とともに描きながら、突如として燃え立つようなエロスが凡百の官能小説を凌ぐ描写で衝撃を与えたかと思う間もなく、何ごとか語りえないまま言葉を呑みこむような妻の受け答えのうちに、この瞬間もまた永遠に理解し合えることなどない日常性の闇に回帰していくのだろうと思わせるラストがぞくりとする余韻を残す……。

 小説というものの表現の自由さ、得体の知れなさを存分に味わうことのできる短篇集である。


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