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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ふしぎな少年

2023-09-03 | 雑感
「時よとまれ。汝は美しい」というのはゲーテの「ファウスト」の終盤、ファウストが思わず洩らした言葉である。
これを引用した「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日」は1972年開催のミュンヘン・オリンピックの公式記録映画のタイトルだった。
このほか日本のポピュラー音楽のタイトルにもこの「時間よ 止まれ」は様々な歌い手によって使われている。
いずれも時間というものが否応なく流れて言ってしまうことへの愛惜の思いが込められていて、当然ながら時間を止めることなど到底不可能であることを自明のこととしているのである。



一方、SFドラマの中ではその不可能を可能にする能力を持った主人公が現れたりする。たとえばNHKが半世紀以上も前に放映した少年少女向けのテレビ番組「ふしぎな少年」がそうしたドラマの先駆けと言ってもよいかも知れない。
それは、主人公の大西三郎ことサブタンが友人たちと遊んでいるうちに四次元世界に入り込んでしまい、そこで「時間よ止まれ!」「時間よ動け!」と唱えることで時間を自由に操り、自分は動き回ることができるという超能力を身につけて現実世界に戻り、時間を止めることで危機一髪の事態を回避したり、犯罪を未然に防いだりと大活躍するというストーリーだった。

このドラマについてはいまも多くの人が言及しているようなのだが、当時の少年少女がすでに高齢者になった今もなお懐かしさを込めて語られるのは、それだけ「時間を自由に操る」というあり得ない設定が魅力的だったということの証しなのだろう。
しかしその昔、「ふしぎな少年」というドラマを見ながら当時の子どもたちは一体なにを感じていたのだろうか。
私のように「時間が止まる」ことを無邪気に信じ、時間を自由に操る能力を持った主人公の少年にあこがれを抱くような素朴な視聴者ばかりでなかったことは確かだろう。
時間の流れを自在に操ることがこれ以上ないほどの万能感を体現する力であることに間違いないとして、問題は実写ドラマの中でそれをどのようにして現実感をもって表現するかということなのだ。

このドラマ放映とほぼ同時並行的に発表されていた手塚治虫による原案の漫画の中であれば、時間が止まり、あらゆるものが静止してしまった世界をリアリティをもって描くことは容易であったはずだ。
しかしこれを実写版のドラマで描くことには多くの困難が伴ったに違いない。加えて当時はヴィデオカメラなどはまだまだ高価で普及しておらず、大半のドラマやバラエティ番組が生放送で制作されていた時代なのだ。
事実、ドラマの中でサブタンが「時間よ止まれ!」と叫んだ瞬間、世界のすべてが止まることを表現するのに、カメラに映し出された登場人物たちは一斉にその動きを止め、いわゆるストップモーションを演じるのだ。
足早に歩いていた人々も、喫茶店で運んできたコーヒーをテーブルに置こうとしていたウェイトレスも、カップを口に運び今まさに飲もうとしていた客も、大口を開けて談笑していた人々も、その誰もがサブタンのかけ声に合わせその瞬間の動作を止めるのだ。
生放送のことゆえ否応なくそのタイミングがズレてしまったり、無理な姿勢で動きを止めたため、片足をあげたまま震えの来るのを必死にこらえる人や、コーヒーカップがお盆からこぼれそうになってガタガタと音立てるのを歯を食いしばって堪え忍ぶ姿が画面に映し出されていたものだ。
こうしたことはまさに時間を止めることの不可能性をまざまざと見せつけるものだった。当時の視聴者はそうしたことも含めてこのドラマを大いに楽しんでいたのかも知れない。

話は少し変わるけれど、このサブタンの超能力は自分以外のものに対して時間を止めるのだが、これを自分だけに適用することはできないものだろうか。つまり、自分の時間は止まるのだが、世界はどんどん時の歩みを進めるという具合に。
そうなったら誰が自分の時間を元通りに動かすのかという問題が残ってしまうが、それはそれとして後世の知恵に委ねるしかない。

昔、当時の医学では治癒することができない難病患者が、自分の身体を冷凍保存し、100年後に解凍するように設計したうえで、未来の発展しているであろう医学に病気の治療を委ねるということを考えた人がいるということを耳にしたことがある。
それが実際に行われたかどうかは分からないのだが、なかなか興味をそそられる夢物語である。

同じように、身体の中で増殖する癌細胞を抱えた自分自身に対して「時間よ とまれ!」と命ずることできないものだろうか、ということを時たま考えることがある。
一度、ドラマの世界に入り込んでサブタンに訊いてみたいものである。


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