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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

春の便り

2015-11-13 | 舞台芸術
 11月11日、現代美術家の杉本博司が作・構成・演出・出演する『春の便り ~能「巣鴨塚」より~』を観た。(於:あうるすぽっと)
 シンプルな能舞台にシテ方と囃子方が座する中、舞台を挟んで対峙する2人の朗読者(杉本博司・余貴美子)から発せられる言霊が朗々と響き渡る…。

 会場で配布された公演概要から引用すると、杉本博司は自身の書き下ろし作品として、修羅能『巣鴨塚』を『新潮』2013年1月号に発表、その後、将来的な能公演の実現のために、その制作途上の一連の創作活動を「巣鴨塚プロジェクト」と位置付け、現在さまざまな取り組みを進行しているとのこと。今回の公演は、その一環として、テキストのリーディング公演を行うというものである。

 修羅能『巣鴨塚』は、極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯であった板垣征四郎が、巣鴨プリズン収監中に自叙を吟じた漢詩を元にしており、2014年12月23日未明(刑が執行されたと思しき同日時に)、杉本博司は、故人への慰霊として、自らの作品の朗読を実際の刑死場跡(東池袋中央公園)で行った。
 劇場「あうるすぽっと」は、その刑死場跡にその後の日本の繁栄の象徴のように建設されたサンシャインシティから程近く、この場所で公演を行うということそのものにそれなりの意味が込められているだろう。
 冒頭、舞台上のスクリーンに東京裁判の記録映像や未明に行われた朗読の様子が映し出されたのち、観客はいつしか能空間のしじまへと誘われる。
 敗戦70年の節目の年、杉本博司による「開戦の詔勅」「終戦の詔勅」の全文朗読、余貴美子による板垣征四郎の自叙吟などを通して、観客は亡くなった者たちの修羅の心根に耳を傾けるのだ。

 なぜ『巣鴨塚』なのか、なぜ板垣征四郎なのか。
 語りえぬことには沈黙せざるを得ないが、あまりにも大きな悲劇、生々しい歴史、今なお論争を呼ぶ出来事から70年の時を経て、そこだけ黒々とした能舞台の空間に目には見えない物語の立ち上がるのを観客は目撃する…。

火花/スクラップ・アンド・ビルド

2015-11-11 | 読書
 又吉直樹の小説「火花」を読んだのは4月下旬のこと。この作品が単行本化されて間もない頃かと思うが、あれからもう半年が経つというのにいまだに話題になり続けているというのは稀有なことだ。それだけインパクトの大きな作品だったということか。
 私自身は、電車の吊り革にぶら下がりながらこの本を読んでいて、その120ページ目、主人公の漫才師が相方からの申し出でコンビの解散を決め、最後のライブに臨むあたりから鼻の奥がつうんと痛くなり、思わず目頭が熱くなって年甲斐もなく慌ててしまったことを覚えている。
 作者の計算というか、仕掛けが功を奏したわけで、それにまんまと嵌ったこちらとしては口惜しくもあるのだが、それもまあ読書の楽しみのうちである。

 この小説の特質は、その描写のすべてが徹頭徹尾、漫才論に貫かれているということである。メタ漫才小説といって良いのかも知れない。
 「人生は笑いである」という一点に最大の価値観を見出した男たちを描いた小説であり、そこに価値を置いたからには、すべての事象は「笑い」に転化されなければならない。
 悩みも貧しさも恋や友情さえもが、いかに笑いになるかという点において価値を持つ。これは、世界全体を「笑い」というフィルターを通して認識しようと足掻く男たちの物語であり、その物語すら、笑いになったかどうかという評価軸によって推し量られるのだ。
 「火花」はそうした特質を持つがゆえに、小説の筋立てにしたがって描写される熱海の温泉街や居酒屋、生計を維持するためのバイト、借金、先輩・神谷の同棲相手の女性など…、それらすべては破天荒な主人公たちの生き方をクローズアップさせるための道具立てとしていつしか後景に追いやられ、小説としてのリアルティは希薄になる。
 むしろ、そんなリアリティや現実感というものを必要としないのがこの小説であり、まさにそのことが、本作を純粋な、得も言われぬ青春小説たらしめているのではないかと思える。

 そして最近になって読んだのが、もう一つの芥川賞受賞作、羽田圭介の小説「スクラップ・アンド・ビルド」である。
 近頃は仕事に追われ、気の滅入る日々のなかで、介護を主題にした小説などよけいに滅入ってしまうのではなかろうかと敬遠気味ではあったのだが、小説を読み進むうちに、むしろこの物語に慰撫されるような気持ちになったのは新鮮な発見だった。

 小説の主人公、28歳の健斗は、5年間勤めたカーディーラーを自己都合で退職、行政書士資格取得に向けた勉強を独学で続けながら、月に1,2度、大手企業の中途採用試験を受け続けている。
 母親と要介護状態となって転がり込んできた87歳の祖父との3人暮らしのなか、「早う死にたか」とぼやき続ける祖父にいつしか殺意を抱く主人公…。あるいはそれは、祖父の思いを遂げてやりたいという愛情の裏返しなのかも知れないのだが、要介護状態が改善し、生きる希望など抱かぬよう、過剰な介護を施すことで安らかな死を迎えられるよう手を尽くすのだ。

 しかし、これをいわゆる介護小説として読んでは、この小説としての面白さを読み違えることになるだろう。
 本作は主人公・健斗の物語であり、すべては健斗の目を通して語られる。祖父の姿や言動も、あくまで健斗が認識したものなのであり、その祖父の話も認知症ゆえの錯誤によってどこまでが妄想でなにが真実なのか、それはまさに藪の中なのである。
 そう考えながら読み進むうちに、この物語が果たして本当に孫から見た祖父の姿を描いているのか、ひょっとして、祖父が見守る孫の姿を描いているのではないかなどと思えてくる。
 小説の終盤、就職が決まって家を出て行く健斗を駅まで見送った祖父の姿には大きな包容力やある種の達成感すら感じて、まさにこの小説が主人公・健斗の成長物語であったのだと気づかされるのだ。
 奇妙な構造を持った小説だが、共感も同情も覚えるはずのない主人公たちにいつしか肩入れしたくなる、静かで不思議な感動に満ちた作品である。