seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

大都映画のスター

2009-01-27 | 映画
 大都映画撮影所では実に魅力的な俳優達がまさに綺羅星のごとく活躍していた。その多くは他の映画会社や劇団で食い詰めた半端者だったかもしれないし、あるいは河合徳三郎独特の強引さで他社から引き抜かれてきた文字どおりのスターたちであったかもしれない。
 その一端は、前述の本庄慧一郎著「幻のB級!大都映画がゆく」を読んで偲ぶことができる。
 殊に男優陣の魅力は圧倒的だ。ハヤフサヒデトはもちろん、杉狂児、ギョロ目の山吹徳二郎、黒澤明の映画でもおなじみの山本礼三郎、伴淳三郎、阿部九洲男、藤田まことの父君である藤間林太郎、戦後も数多くの映画で活躍した二枚目水島道太郎、松方弘樹、目黒祐樹の父君でテレビシリーズ「素浪人月影兵庫」でも大人気を博した近衛十四郎などなど。
 女優では私の個人的な好みで大河百々代が筆頭だが、実は初代美空ひばりが大都映画にいたということを今回初めて知った。
 さらに特筆すべきは大山デブ子の存在だ。彼女は、ハヤフサヒデト監督・主演の「争闘阿修羅街」にも悪漢に誘拐される令嬢宅の女中役で出演している。当時23歳くらいだったはずだ。
 彼女の名前を私たちの多くは寺山修司の戯曲「大山デブ子の犯罪」で耳にしているかも知れない。演劇実験室天井桟敷の第2回公演として、1967年9月1日から7日まで新宿末広亭で上演。演出・東由多加、美術・横尾忠則、井上洋介、音楽・和田誠、出演・新高恵子、大山デブ子、萩原朔美。
 彼女は寺山修司の舞台に出ていたのだ。その時たしか52歳。まだまだ現役だったのだ。
 大山デブ子が河合=大都映画入りしたのは12歳の時。大岡怪童とのデブデブコンビとギョロ目の山吹徳二郎とのトリオのコメディ路線は老若男女を問わない大人気で抜群の観客動員を誇ったという。
 寺山修司はそんな大山デブ子の映画を故郷の青森県の映画館の舞台裏で垣間見ていたのだろうか。後年の映画「田園に死す」にも登場するサーカス団員の空気女など、彼女へのオマージュを感じさせる。

 それにしても戦前におけるこの豊島区という街は本当に興味深い。
 長崎村地域にはアトリエ村が群れを成して多くの若い美術家・芸術家を輩出し、池袋モンパルナスと呼ばれる文化圏を形成した。目白では赤い鳥を中心とした童話童謡文化が花開き、巣鴨では映画産業が時代の寵児となって大衆の娯楽を提供していた。
 これらが同じ時代、わずか3、4キロ四方の狭い地域に集積していたのである。
 それぞれ分野ごとに語られがちなこれらの歴史であるが、こうした絵描き、彫刻家、詩人、小説家、俳優、学生たちがあちらこちらで交流しなかったわけがないのだ。
 ぜひとも、そうした観点からの文化史に光をあててみたいものだと思う。

にしすがも大都映画撮影所

2009-01-25 | 読書
 集英社新書の今月の新刊、本庄慧一郎著「幻のB級!大都映画がゆく」を読んだ。
 大都映画は、昭和2年に土建業界の雄といわれた河合徳三郎によって設立された映画配給会社河合商会、同年、映画製作会社として発足した河合映画会社にはじまり、昭和8年、大都映画へと発展拡充して改名、昭和17年に国策によって日活、新興と合併を余儀なくされ大映となるまで、1200本以上の映画作品を量産した映画会社である。
 とはいえ、今では日本映画の研究書でもその詳細は語られることがなく、当時先行のメジャー会社や関係業界からは常に「B級三流」というレッテルを貼られ、空襲による火災などでフィルムが散逸し、今ではごく一部の作品しか見ることができないのだが、徹底した大衆娯楽路線によって当時のつましく貧しい庶民からは絶大な支持を得て活況を呈していたと言われる。
 著者の本庄氏は、母方の叔父4人が大都映画で脚本家、カメラマン、助監督を務めていた縁があるとのことで、平成18年11月22日から12月6日まで、東京・恵比寿でテアトル・エコーが上演した「大都映画撮影所物語」の作者でもある。
 
 本庄氏が「拙著は、日本映画史上の傑物である河合徳三郎へのオマージュである」と書いているように、本書の半分近くがこの魅力的な人物についてのエピソードに満ちている。
 この人物のことをこれまで知らなかったことが残念だが、下級武士の子として生まれ育った河合徳三郎が青雲の志を抱いて名古屋から新天地をめざして旅立ったのが14、5歳の頃。過酷なもっこ担ぎという土木の現場仕事から這い上がり、30歳の頃には河合組を興し頭領となって独立している。
 やがて、右翼の大立者頭山満らを顧問に迎え「大日本国粋会」の組織化に活躍、その後、同会を離脱すると今度は「大和民労会」を組織化、労使協調を唱導して労働社会大学を創設したり、無産階級のための慈善病院を建設する一方、民権新聞社の社主として活動しながら、貧しい人たちのために毎日300人分の炊き出しを行っている。
 そうした活動や事業が関東大震災によって灰燼に帰したのちも、震災後の建築ブームに乗ってたちまち蘇生、その勢いで直営の映画館を何件も確保したことが映画製作にのめり込んで行くきっかけとなるのである。
 後藤新平の知遇も得て、東京府会議員を2期8年務め上げたという経歴も彼の人生の振幅の大きさを示しているが、反面裏世界とも通じ、全身に彫り物があったという話や、いつも護身用の十手を離さなかったということ、撮影所内に愛人の家を作って住まわせていたり、自分の娘たちを何人も自身の作る映画の看板スター女優に仕立て上げているエピソードなど興趣は尽きない。
 河合徳三郎は昭和12年12月3日、67歳でその人生の幕を下ろすことになったが、自己資金、健全経営を貫き、大衆娯楽に徹するという信念によって映画界を席巻したその生き様は昭和史のなかでもっと語られるべきではないかと思う。

 さて、この本には大都映画を彩った女優や男優、監督たちの姿が当時のスチール写真とともに紹介されていて楽しいが、なかでも私にとって忘れられないのが当時の少年たちの憧れのスター、アクションヒーローのハヤフサヒデトである。
 
 大都映画巣鴨撮影所の跡地はその後豊島区立の中学校となり、そこが閉校となってからは学校跡施設をそのまま転用した芸術創造拠点「にしすがも創造舎」としてNPO法人によって運営されている。
 以下、本書にも記述されているが、平成17年2月5日、「にしすがも創造舎」で活動するNPO法人「芸術家と子どもたち」が企画したプロジェクトとして、現代美術家の岩井成昭氏が子どもたちとともにハヤフサヒデトの後を追い、資料を調べたり、当時の様子を知る地元のお年寄りや関係者にインタビューしたりする過程を作品にしたドキュメンタリー映画が上映された。
 当日は、大都映画制作のハヤフサヒデト作品として唯一フィルムが残っている「争闘阿修羅街」(監督・主演ハヤフサヒデト。昭和13年作品)も同時上映され、会場は往年のファンばかりか、多くの若者も詰め掛けて超満員となった。
 私も当日会場でその場に立ち会っていたのだが、撮影所跡地という場のDNAが立ち上がってくるような稀有な瞬間を目撃しているのだと興奮したものだ。
 
 そんな瞬間のことも併せて思い出す楽しく貴重な時間を本書は与えてくれた。

27歳のスピーチライター

2009-01-23 | 言葉
 とある大規模な演説会場の舞台裏で、一人の若い地方議会議員が出番を控え、緊張の面持ちであれこれと言い回しを工夫しながら、これから話すスピーチの練習に余念がない。
 ふと微かな笑い声が聞こえたような気がして振り向くと、そこにいたのはジーンズ姿で坊主頭、まだ少年といってもよい童顔の若者だ。
 誰だろう。おそらく会場設営の学生アルバイトか何かだろうと思いつつ、「何か?」と問いかけると、「今のところだけど、こんな言い方にしたらどうかなあ」と話しかけてきた。
 訝しく思いながらも、青年議員は若者の言うとおりに語順を入れ替えたり、言い回しを変えてみる。
 「いいね。きっとうまくいくと思うよ」と若者は軽くウィンクすると、童顔をほころばせた。
 2004年の夏、民主党全国大会。「多様性の統一」を謳ったその基調演説によって、イリノイ州議会議員バラク・オバマは中央政界への鮮烈なデビューを飾った。
 演説を終え、興奮の面持ちで舞台裏に戻ってきたオバマは若者に話しかける。「うまくいったよ」
 聞けば若者は大統領候補ケリー上院議員のスピーチライターの一人だという。
 「気に入った。よかったら私のところに来ないか。一緒にこの世界を変革しよう」

 こんな勝手なシーンが思い浮かぶほど、オバマ大統領のスピーチライター、27歳のジョン・ファブローの話題は、歴史的な就任演説のサブストーリーとして私たちをワクワクさせる。
 スターバックスのコーヒースタンドで日がなパソコンに向かうという彼は、オバマ大統領の考え方を理解し、その意を汲み、「オバマ語」といわれる特有の言い回しを駆使しながら文章を磨き上げる。
 二人がキャッチボールを繰り返しながら練り上げた草稿をオバマは完全に覚えこむまで練習し、人々を魅了する演説に仕上げるのだ。
 
 翻って、わが国でこんなことがあり得るだろうか。キャリア官僚の書いた原稿を棒読みする我らが首相だが、国会審議のなかで漢字検定されるような有り様は何と言ったらよいのか言葉もない。
 思うのだけれど、本気で言葉を伝えようと考えるのならば、政治家の皆さんは是非、今どきの若い演出家や劇作家、役者とタッグを組んで、言葉を磨き上げるべきだ。
 昔、中曽根首相がレーガン大統領を迎えるにあたり、そのコーディネーターを演出家の浅利慶太氏に委ねたことがあった。当時は何だろうなあと首を捻ったものだが、今になって思えば慧眼だったのだ。
 麻生総理の横で岡田利規が笑っているなんて図、結構いけてるのではないかしら。

アートのちから

2009-01-21 | アートマネジメント
 源氏物語の円地文子訳をゆっくりゆっくりと読み進めていて、いまようやく「須磨」の帖にはいったところだ。物語では須磨の情景を「昔こそ人の住む家などもあったようであるが、今は大そう里離れて、もの凄いほど荒れてしまい、海人の苫屋さえ稀にしかない」「もの淋しい海辺の、波風よりほかにはたち交じる人もないような所」と書き表されている。
 今は神戸市須磨区となっているこの辺りの風景も当時とは想像もできないほどに変貌している。当たり前のことだけれど。光源氏が今の世に現れたならどんな感想を持つだろう。

 14年前の1月17日にこの地方を襲った阪神・淡路大震災は、須磨区でも400人を超える死者を出すなど、甚大な被害をもたらした。
 17日を中心に震災関連の報道が多かったが、復興住宅では住民の高齢化が深刻な問題となっている。コミュニティの衰退はより顕著となり、孤独死が他人事ではない状況だ。
 思えば14年は長い時間だ。50歳過ぎたばかりの壮年が高齢者になり、高齢者と呼ばれるようになったばかりの人が80歳の後期高齢者となる。
 その長い期間のあいだに私たちは何を学んできただろう、何を成し遂げてきたのだろう。あるいは、ただ手をこまねいてきただけなのか。
 
 大地震からの復興にあたって文化芸術が多大な力を発揮したことは巷間よく語られることだ。
 生命の危険を回避したのちも、長く続く仮設住宅や避難所での生活のなかで、人々の心をなぐさめ、元気づけるためにたくさんの芸術家や芸能人、アーティストがボランティアとして力を結集したのだ。
 その形態はさまざまであったが、当時その力は確実に人々の心に届いた。そのことに関する調査研究レポートは数多く書かれ、報告されている。

 14年を経た今、地域コミュニティ崩壊のなかで、アートに求められる働き、期待される機能は変容しているだろう。
 新聞などでは、歌手の川嶋あいをはじめ、何人かのボランティアによる被災地でのライブコンサートのことが報じられていたが、東京の片隅にいる私には現地の様子がよく見えていない。(もちろんそれは私の問題なのだが。)
 その地域ごとに抱える問題は異なり、要望や期待も千差万別である。そうしたところに入り込み、想像力=創造力を駆使して、人々との心の回路を切り開きながら課題解決の糸口をまったく違った視点から発見するという力をアートは持っているはずだと私は思う。
 文化芸術のための文化芸術ではなく、その働き、機能を導入することによって、コミュニティを回復するための施策や福祉、教育、防災など、他分野におけるそれぞれの機能を結びつけ、活性化させる力・・・。

 かの地でのアートの現状を知りたい、と同時に、もっと身近な自分の暮らす場所での有り様を追求したいとも思うのだ。
 ただ奉られたようなアートやコミュニケーションの回路を閉じたアーティストには興味がない。

ものを創る精神

2009-01-18 | アート
 多田富雄氏の「寡黙なる巨人」のなかに、庄内地方の黒川能をライフワークの一つとして描き続けている森田茂画伯のことを綴った文章があってなつかしく読んだ。多田氏も森田画伯もともに茨城県の出身で、実家は縁続きであると書かれている。
 森田茂氏は100歳を過ぎた今もご存命だが、戦前、東京豊島区のいわゆるアトリエ村の住人となった芸術家で、池袋モンパルナスゆかりの画家である。
 20年ほど前、展覧会に出品いただく絵を預かるために何回か目白のご自宅に伺ったことがある。本当は美術専門の運搬業者に依頼すべきところを、経費の節約もあって伺った素人の私に内心ひやひやしておられたに違いないのだが、いかにも危うい手つきで高価な作品を梱包するのを特に気にする様子もなく、「この作品はこの間、フランスのニースの展覧会に出したものだよ」などと優しく話し掛けてくださった。
 そんなある日、画伯から出版間もない貴重な画集をいただいた。もちろん私個人にではなく、仕事に役立てるようにとのことなのだが、その巻頭の写真は強烈に記憶に残っている。
 油絵の具の乾くのを待つためか、何十枚もの書きかけのキャンバスが乱雑に積み上げられたアトリエの中央にでんと座り、絵筆を持って絵を見据える傘寿に及んだ画伯の姿は、まさに画魂というか、絵を描くという神経の束あるいは精神だけが凝り固まってそこに息づいているという印象を見るものに与える。
 ものを創るとはこういうことなのだと、そのもの言わぬ写真は今も私に迫ってくる。
 懶惰な生活のなかで自分自身を見失ったような私を、多田氏の文章、森田画伯の姿は叱咤するようだ。

寡黙なる巨人と潜水服の夢

2009-01-18 | 読書
 多田富雄著「寡黙なる巨人」を読む。2年前の7月に刊行され、昨年小林秀雄賞を受賞した話題の著作であり、すでにネット上でも多くの論評を読むことができる。半歩遅れどころではない10歩遅れくらいの読書なのだが。
 世界的免疫学者の多田氏が2001年5月、突然旅先で脳梗塞の発作に見舞われ、死線をさまよった後、3日目によみがえる。気がつくと右半身が完全に麻痺し、重度の構音障害で言葉も一切しゃべれなくなっていた。嚥下機能も侵され、食事ばかりか水も飲めない状態である。まさにカフカの「変身」の主人公グレーゴル・ザムザのように一夜明けたら自分がまったく別のものに生まれ変わっていたのだ。
 自死を願うような深い絶望の時期を経て、苦しいリハビリを繰り返しながら、左手でパソコンを打つことを覚え、綴ったのがこの本に収められている文章である。
 多田氏は「リハビリとは人間の尊厳の回復という意味だそうだが、私は生命力の回復、生きる実感の回復だと思う。」と言い、「病という抵抗のおかげで、何かを達成したときの喜びはたとえようのないものである。初めて一歩歩けたときは、涙が止まらなかったし、初めて左手でワープロを一字一字打って、エッセイを一篇書き上げたときも喜びで体が震えた。」と書き綴る。
 そうしたなかで、自分自身のなかに何か新しいもの、無限の可能性を秘めたものが生まれ、胎動するのを感じる。それは縛られたまま沈黙している、寡黙なる巨人であった。
 多田氏はそうした状況のなかで、能楽をはじめとする芸術文化への深い理解と教養に裏づけられた数々の文章を書く。さらには行財政改革のもと、厚生労働省によって診療報酬が改定され、リハビリを必要とする多くの患者が見捨てられようとしている現実に対して積極的にコミットし、抗議の声を上げる。
 まさに、怒り、そしてのた打ち回りながらも戦う巨人である。その姿は深い感動を呼び、私たちにも生きることの意味を問い掛ける。

 この本を読みながら思い出したのが、ジュリアン・シュナ―ベル監督の映画「潜水服は蝶の夢を見る」である。
 こちらも実話であるが、有名なファッション誌ELLEの編集長だった主人公が脳卒中に倒れ、昏睡状態から目覚めた時には身動き一つできない体になっていた。動かせるのは左瞼だけである。
 潜水服とは深海に潜る時の固い鉄でできた鎧状の服で、身動きのできない主人公の病状を言い表わしているのだが、唯一世界との交信手段となった左瞼を使った合図をもとに、女性編集者の力を借りながら、気の遠くなるような作業をとおして彼は自伝を綴っていく。

 寡黙なる巨人と潜水服、そのどちらも想像力の素晴らしさや、表現することが生きることであるということを切実な状況のなかで私たちに教えてくれる力強い作品だ。

伝わる言葉

2009-01-15 | 言葉
 米国のオバマ次期大統領の就任式が近づいてきた。政治、経済に限らず、あらゆる局面で「オバマ待ち」という状況のなか、オバマ大統領が就任式でどのような演説を行うのか、世界中が注視しているといってよいだろう。
 私も役者としてでなく、スピーチライターのはしくれとして多大な関心を持っているのだが、人の心に響くスピーチの要諦は何だろう。

 歴代大統領のなかで最も有名なケネディの就任演説がいかに生まれたか、13日付けの毎日新聞に論説委員の玉木研二氏が書いている。
 当時、ケネディの側近で演説執筆者だったソレンセン元大統領特別顧問によると、彼はケネディの指示で歴代の就任演説の全部を読み、さらに有名なリンカーンのゲティスバーグ演説を徹底的に分析したとのこと。
 その結果、リンカーンは用語が簡潔で1語で間に合う場合、絶対に2語、3語と余計な言葉を使うことがなかった。これはケネディ演説に応用された。
 さらにケネディは、20世紀最短の演説にしたがり、「私」を全部「我々」にしようと手を入れたとのことだ。

 ソレンセンの名前は私にとってもなつかしい。片田舎の中学生だった頃、何を思ってか、なけなしの小遣いをはたいてソレンセンの著作「ケネディへの道」を購読した思い出がある。政治に何の興味もなかったはずなのに、ちゃんと読んだ証拠に、巻末近く、暗殺され、病院のベッドでシーツにくるまれたその遺骸を医師たちと見守りながら、彼は大きな人だったと感慨をもらす部分は今でも時たま胸を熱くしながら思い出すことがあるのだ。不思議なものだ。

 もう一つ思い出すのが、1986年、スペースシャトル爆発事故で亡くなった宇宙飛行士たちへのレーガン大統領の追悼演説だ。(これについては同じ毎日新聞、安部新首相が誕生した2006年9月の余禄で紹介されている。)
 飛行士たちが「神の顔に触れたtouch the face of God.」という詩句で結ばれる歴史的名演説である。
 レーガン大統領は「グレートコミュニケーター」と称され、親しみやすい平易な言葉でその保守政治への国民の信頼を取り付けた。
 そのスピーチライターとして有名になったのがペギー・ヌーナン氏で、彼女は、偉大な演説の要諦は「びっくりするような簡潔さと明快さ」であると言っている。
 
 元俳優のレーガンは、彼女の書いた原稿を完璧に暗記し、見事に演じきった。
 まさに、簡潔で平易なセリフと熟達の演技力が相まって人々の心に響く演説が生まれたのである。
 大統領就任演説の準備には、ブロードウェイでも最高の舞台監督やスタッフが集められ、拍手や反応まで計算した演出が施されるという。最高のエンターテインメントとして、言葉がどのように伝えられるのか、楽しみにしたい。

大衆演劇の冒険

2009-01-12 | 雑感
 映画「英国王給仕人に乾杯!」の中で、主人公ヤンの人生の師ともいうべき商人ヴァルデン氏が客に向かって言う売り口上・・・
 「私はファン・ベルケル社の代表。世界で最大の企業はカトリック教会です。彼らは目に見えず、手に触れないものを商う。我々が“神”と呼ぶものを。世界で第2の当社は秤を製造している・・・」
 現在世界的な大津波に見舞われてはいるが、金融市場の本質的な部分が他の市場と異なっているのは、将来の利益に関する「約束」を取引している点であると一橋大学名誉教授の今井賢一氏が書いている。
 「神」も「約束」も人々からの「信頼」によって担保されているところが似通っていると言えるのではないだろうか。

 こんな時にいつも考えるのが、芸術や芸能、エンターテインメントは何を担保として取引されるものなのかということである。
 話を思い切り単純化してしまえば、それは名声であったり、テレビに出演し、人々の前に露出しているその頻度だったり、古典芸能であればその人の家柄のようなものだったりするのだろう。
 誰しも名前も知らないような役者の出ている舞台よりは、テレビのバラエティ番組で名の売れたアイドルやタレントの出演する出し物により関心を抱くものだ。
 そのこと自体に異論もあるだろうが、中劇場以上の規模で興行を打つ場合、プロデューサーは一定以上の集客を見込めるタレントを使いたがる、というのは一面の真実であるだろう。

 いま、派遣切りなど、雇用の問題が大きな社会的関心事となっている。そうした時、大衆演劇の沢竜二が職を失った人々を対象に役者や裏方として劇団で働いてもらうという構想を打ち出し、その面接あるいはオーディションの様子がテレビニュースでも放映されていた。
 このことが果たして現実的に成立する構想なのか否かということには、いささか興味を引かれてしまう。
 そもそも昨日までまったく畑違いの職場に派遣されていた人が、いきなり大衆演劇の舞台で役者を務めることができるのだろうか。彼らは何を担保として大衆から木戸銭を得ようというのか。

 翻って、このたびの金融危機の最大原因とされるクレジット・デフォルト・スワップ(CDU)は、格付け機関の格付けを鵜呑みにして流通する商品となったことで「信頼」や「約束」が反故にされ、詐欺的で「ねずみ講」的なものに変質してしまった、と言われる。
 いまや旧来の「信頼」は価値を失ってしまったのだ。
 そんな変質の時代に今さら何を信頼しようというのか。価値観が引っくり返ってしまったような時代だからこそ、どんな出自をもった人間だろうが、無名だろうが、舞台は誰をも吸引するブラックホールと化して人々を魅了しようとするのではないか。

 昔よく通った大衆演劇の芝居小屋では、さっきまで切られ役をしていたおじさんが、白塗りのまま舞台袖でスポットライトを操作する照明係に早変りしていたりする。あるいはその人は昼間、芝居小屋の二階の窓から洗濯物を取り込んでいたはずだ。そんなおじさんの後姿を見ながら、この人は一体どんな人生を歩んできたのだろうと考えたりしたものだ。
 そこには生活の匂いと非日常の暮らしとが違和感なく結びついて息づいている。そんな芝居小屋の空気が私は好きでならない。
 大衆演劇の舞台にはそんな何もかもを受け入れる度量の大きさのようなものがあるのだ。
 座長・沢竜二の挑戦に快哉を送ろう。

理性の策略と鉄球

2009-01-11 | 演劇
 「ウルリーケ メアリー スチュアート」(エルフリーデ・イェリネク/作、川村毅/台本・演出)を観た。出演は大沼百合子、濱崎茜、石村みか、植野葉子、小林勝也(手塚とおるとダブルキャスト)ほか。公演は1月10日まで。
 ベニサン・ピットという数々の名舞台を生みだしてきた劇場でのTPTの最終公演である。
 
 エルフリーデ・イェリネク(2004年度ノーベル賞受賞)の作品「ウルリーケ・メアリー・スチュアート」は、シラーの悲劇「メアリー・スチュアート」でのスコットランド女王メアリー・スチュアートvsイギリス女王エリザベスⅠ世という構図が、ドイツ赤軍派の主要メンバー、ウルリーケ・マインホーフvsグードルン・エンスリーンという構図に重ね合わされたもの。
 川村毅の創り出した舞台は、この原作を援用あるいは換骨奪胎しながら、日本の連合赤軍による1971年から翌年にかけての「山岳ベース事件」や「あさま山荘事件」を絡めて再構成したものだ。
 これらの陰惨な事件については、おそらく40歳台半ば以上の人であれば、それぞれの立場で感想や意見は異なるにせよ、強烈かつ痛切な記憶を刻み込んだ事件であるに違いない。

 この舞台で川村毅が目論んだのは、この極めて特異な事件に対する多様な視点の導入と徹底的な客観化の試みだと私は読んだ。
 読んだ、と言うのは誤読ということをあらかじめ自認してのことであるが、そうしないと芝居の文脈が読み取れないという意味でもある。理解できないのだ。
 「山岳ベース事件」の再現と思われるシーンで、女兵士が自ら総括することを求められ、自分自身を殴打する、あるいは回りの兵士が総括補助する。その演技の児戯めいた迫力のなさ、リアリティの欠如は演出上の処置なのか。もちろんそんなことはないはずなのだが、結果としてそう見えることが逆にこの事件に対する批評性を獲得していると見えなくはない、ということが私にはむしろ面白かったのだ。
 舞台上で提示されるリアリティとは何だろう、ということに私はいつも思い悩んでいるのだけれど、まともに演じてしまうことで失われる現実感というのが確かにあって、殺人シーンやセックス、殴り合いの場面など、真実の行為ではないという諒解のもとに目の前でいくら大真面目に演技されたところで、それはただ白けるばかりの話なのだ。
 そのうえであえて白日の下に晒すかのように置かれたこのシーンは、歴史のなかで蠢く人間の卑小さを露わにしてやまない。

 その意味では、別のシーンで元赤軍の人間や映画監督を模した登場人物がパネルディスカッションする場面では、バラエティ仕立てでルーシー・ショーまがいの観客の笑い声まで入れながら徹底的に彼らの発言を矮小化する仕掛けが用いられている。

 こうした仕掛けを幾重にも導入することで、川村毅はヘーゲルの「個人は、一般理念のための犠牲者となる。理念は、存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱をもって支払いにあてる」(歴史哲学講義)という、理性の狡知あるいは策略を端的に焙り出そうとしたのかも知れない。

 最後、あさま山荘を破砕したとおぼしき鉄球が、舞台の中空に現れる。それは舞台の空気を切り裂き、それまで構築された劇世界ばかりか劇場をも破壊し、ご破算にするような禍禍しいばかりの実在感をもって揺れ動く。
 その鉄球を操っているのが、小林勝也演じるホームレスだったのか、あるいは「ヒロヒト」だったのか、私はもう覚えていない。

英国王給仕人に乾杯!

2009-01-04 | 映画
 チェコの映画作家イジー・メンツェル監督作品「英国王給仕人に乾杯!」(原題:私は英国王に給仕した)を観た。今年の映画初めは日比谷のシャンテ・シネで観たこの作品だ。
 原作は、ミラン・クンデラが「われらの今日の最高の書き手」と評したボフミル・フラバルが1971年に書いた小説。当時、地下出版でひそかに読まれ、外国で出版された後、チェコで公に出版されたのは1989年、欧米では重版を重ねる人気作でありながら、日本では未刊である、とパンフレットで紹介されている。
 簡単に言えばこの作品は、1930年代から63年頃のチェコを舞台に、小柄な主人公ヤンが、駅のホットドック売りからレストランのビール注ぎ、そしてホテルの給仕人となり、百万長者のホテル王に登りつめたのもつかの間、政治体制の変化に伴って収監され、15年の刑期を経て、ズデーテン地方の山中の廃村に住み着き、人生を回顧するというもの。
 その間、ナチスの台頭、共産主義への移行といった政治と歴史に翻弄されながらも、やたらと女性にもてるこの小男の艶笑譚的遍歴がビッグ・フィッシュな大ぼらと実に軽妙な語り口によって展開される。もちろん底には冷徹な視点と辛らつなユーモアを湛えながら。

 一言でいって、素晴らしい作品だ。こうした映画を観ると、芸術の持つ力を感じて心底から幸福を感じる。
 主人公ヤンは若いヤン、老ヤンと二人の俳優が演じていて、若いヤンを演じるのはブルガリア人のイヴァン・バルネフ。チャプリンを思わせる演技が絶賛されたとのことだが、映画そのものもチャプリンはじめ、ジャン・ルノワール、フェリーニ、無声映画など、先行する映画へのオマージュに満ちている。
 映画を観る楽しさと表現することへの愉悦を満喫した映画館での120分。

下妻物語に魅せられて

2009-01-03 | 映画
 中島哲也監督の映画「下妻物語」(2004年製作)を観た。ここでいう映画とは映画館で観た作品に限ることを基本にしたいのだが、私はこれを年末の深夜、テレビで見て、あまりの面白さにぶっとんだ挙句、DVDを借りてもう一度観た。ファンの皆様には本当に申し訳ないが、これまでご縁のなかったことを詫びつつ、少しばかりふれておきたい。
 とは言え、私は本作の重要な素材であるロリータ・ファッションにもヤンキーにも興味はなく、造詣もない。それなのにこれほど興奮してしまうのは、この作品に満ちている映画的快感のためだろう。そこには中島監督の感性とそれを形にする才能と力量が横溢しているのだ。
 全体を通じて感じるのがリズム感の心地よさである。それはなにも奇を衒ったものではない。もちろん展開の意外性は以下に示す原則にしたがって随所に散りばめられているのだが、それ自体がリズムを刻むように精神の躍動を伝えるのだ。それは古来、能楽にいう序破急のリズムである。
(もちろん2年後の作品「嫌われ松子の一生」にも同様に見られるのだが、「下妻物語」において典型的に表わされていると感じる。)

問。能に、序破急をば、何とか定むべきや。
答。これ、易き定め也。一切の事に序破急あれば、申楽もこれ同じ。能の風情をもて、定むべし。

 全編の構成はもとより、1つのシークエンス、1つのシーンにもこの序破急のリズムは満ちており、それは時にずらし、反復し、緩急の差をつけながら増幅される。
 凡百の映画においていかにこのリズムを無視した結果、退屈をもたらす作品の多いことか。

 さらに感じるのが、人を惹きつけるための工夫が原則どおりに展開され、作品のなかで発展していることだ。このことは中島監督が長年CMフィルムの世界でしのぎを削ってきたことと無縁ではないだろう。
 私はたまたま「アイデアのちから」という、スタンフォード大学教授チップ・ハースと経営コンサルタントで編集者のダン・ハースという兄弟の書いたビジネス書を読んでいるのだが、人の興味を引きつけ、記憶に焼きつかせることをテーマとしたこの本では以下の原則が示されている。

1.単純明快であること
2.意外性があること
3.具体的であること
4.信頼性があること
5.感情に訴えること
6.物語性があること
 その一つひとつを詳細に立証したい誘惑に駆られるが、大まかにこの映画からは以下の特徴を示すことができるだろう。

 ロリータ・ファッションに身を包んだ桃子とヤンキーガールであるイチコの友情物語という単純明快さ。
 桃子はその外見に似合わず自己中心的であり、信念を曲げない。一方イチコは友情に篤く涙もろい育ちのよい面があるという性格設定、さらに、二人の育った生活環境といまの姿のギャップは意外性に満ちている。
 二人を結びつけるのは、刺繍である。ロリータ・ファッションと特攻服への刺繍には具体的かつ組み合わせの意外性がある。
 下妻や代官山という地名、ロリータや暴走族はイメージとして具体的であると同時に、ある種ブランド的な信頼性を有している。
 二人の友情は滑稽でありながら感情を揺り動かす。
 映画はラスト近くで東映の仁侠映画のような物語性を発揮するとともに、ところどころ挿入されるアニメによって語られる伝説の暴走クイーンのような、いわゆる都市伝説が映画を通低する物語として魅力を放っている。

 こうしたツボを外さない作劇術のうえに立って、ビッグ・フィッシュ的な語り口が観る者を惹きつけるとともに、主役の深田恭子、土屋アンナという魅力的なことこのうえない二人の女優がその物語を豊かに肉付けする。
 この映画はそうした原則に忠実であるがゆえに、必然的に成功したのである。

ポニョとオフィーリア

2009-01-03 | アート
 海に棲む女性像をイメージするにあたって、宮崎駿はイギリスのテート・ギャラリーでジョン・エヴァレット・ミレイの描いた「オフィーリア」を観ている。
 その同じ絵をロンドン留学中の夏目漱石も観ているというのが、ポニョにかかわる話としてとても面白い。漱石は小説「草枕」のなかで、主人公の画家の言葉をかりてその印象を語っている。
 その「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」が昨年Bnkamuraザ・ミュージアムで開催されていた。10月26日までの会期だったから、私が観たのはもう3ヵ月近くも前のことなのかと驚いてしまうけれど。

 この「オフィーリア」の背景を描くため、ミレイは1851年の7月から11月にかけてロンドン南西、サリー州ユーウェルに滞在し、ホッグズミル川沿いで写生に没頭したとある。
 写生期間が数ヶ月にわたったため、画面には異なる季節の花が混在しているらしいのだが、植物の名前にとんと疎い私には分からない。そうした話の一方で、それぞれの植物には意味が込められていて、オフィーリアの人格や運命を象徴しているという話もある。
 パンジーは「物思い、かなわぬ恋」を表し、ノバラは「苦悩」、スミレは「誠実、純潔、若い死」、柳は「見捨てられた愛、愛の悲しみ」というように・・・。興趣は尽きない。

 さて、ミレイは5ヶ月かけて風景を描きこんだ後、ロンドンに戻ってモデルをバスタブに入れてスケッチしたらしい。モデルになったのは、当時、ラファエル前派の画家たちのニューズ的存在だった女性で、のちにダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻となったエリザベス・シダルである。
 ミレイはこの絵のためにロケ地を選び、衣装を購入し、キャストを考え、彼女の表情を演出したのだ。「現代に生きていたら非常にすぐれた映画監督になっていたでしょうね」という学芸員の話が紹介されていたが、これはアニメーションにも通じる手法ではないかと思うと興味深い。100年の時を隔てて日英のアニメ作家が出会ったのだ。

 この絵の制作にあたってはもう一つ面白い話がある。シダルは真冬にお湯がたっぷり入った浴槽のなかで長時間ポーズをとらされた。制作に夢中になっていたミレイはお湯をあたためるランプが途中で消えていたことに気がつかず、シダルはひどい風邪をひいてしまった。彼女の父が激怒してミレイに治療費を請求したという逸話が残っているそうだ。
 さて、この恍惚の表情を浮かべ水面を漂うオフィーリアは「草枕」の主人公をも魅了したが、そんな逸話を聞いた後でこの絵を見直すと、何だかバスタブに漬かりすぎて湯あたりしたシダルのことを思い浮かべて笑ってしまう。彼女には気の毒だけれど。

 展覧会場では、この「オフィーリア」のまわりに黒山の人だかりができてゆっくり鑑賞することもかなわない。
 私が魅かれたのは晩年の風景画「露にぬれたハリエニシダ」だった。タイトルはビクトリア朝を代表する詩人テニスンの詩「イン・メモリアム」の一節を引用したもの。テニスンはこの詩を書いたとき、無二の親友と死別し、失意の底にあったという。
 この絵に人の姿はなく、ただ、細密に描かれた森の木々の向こうから朝日が射し込んでいる。それは絶望のなかで誰にもさしのべられる大自然=神の光明のように思える。

ポニョと漱石

2009-01-03 | 映画
 「崖の上のポニョ」を製作中の宮崎駿氏が夏目漱石を読んでいたことはよく知られている。私の行きつけの書店では、ポニョ人気にあてこんで、漱石の文庫本を並べ、特に「門」のところには書店員の書いたと思われる「崖の下の宗助と千代の物語」なんていうポップが踊っていたりしたものだ。
 それにしても「ポニョ」がこれほど国民的人気をさらった理由は何なのだろう。観客動員は1200万人を超えたとかで、日本人の10人に1人がこの作品を観たということになるのだが、自分の事を棚に上げて言えば、たしかにこの数字はいささか多すぎるような気もする。
 大衆の志向性が偏りすぎるのは危険な兆候であるといわれるが、しかしこれは政治ではない、アニメの話である。
 人々はポニョの世界に何を観たがっているのだろう。それはこの何ものをも信じきれない時代にあって、ひたすら「ポニョ、宗介が大好き!」を貫くピュアな姿だろうか。
 宮崎駿によれば、これは「海に棲むさかなの子のポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我侭をつらぬき通す物語」なのである。
 そして、ポニョが宗介と一緒に生きるためには人間にならなければならず、そのために必要なのは、ポニョに対する宗介の純粋な愛情だけなのだ。

 一方、漱石の「門」は、主人公の宗助が、親友の妻だった御米と不倫の恋をし、親友を破滅させた挙句、世間から逃れるようにひっそりと生きる物語である。「崖の下」の家は、陰気で、ひっそりとして、雨が降ると雨漏りがするというように、世間に背いた二人の未来のない生活感覚を暗示するものとして描かれる。
 あまりに対照的な崖の上と下の二つの世界。

 ポニョと生きるために宗介は永遠の愛を誓う。それは幼児の何気ない愛情表現であって、そのことが引き起こす将来の問題を彼が認識しているわけではもちろんないだろう。未来にどんな世界が待ち受けているのか、何も知らないまま重い運命を背負ってしまった男の子の悲哀や、それゆえの戸惑いをそのふとした表情に感じて、私は宗介がいとおしくなる。
 それに対し、ポニョの愛はひたすら我侭であり、それゆえに、強い。そのために津波が起ころうが、月が墜落しようが、世界全体が引っくり返ろうが、海に沈もうが、かまいはしない。ひたすら「宗介、大好き!」を貫きとおす。そうした強い愛に私も呑み込まれたくなる。

 漱石は宗助のことを次のように描く。
 「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
 閉塞感の充満するこの世界にあって、ポジティブに門を突き破ることの素晴らしさを、嵐の海を突っ切って走るその姿をとおして、ポニョは私たちに教えているようである。
 しかし、それは危ういバランスのうえに立った決断でもある。その愛と引き換えにポニョは人間にならなければならず、魔法の力を失わなければならない。その後の運命を引き受けるのも、切り開くのも「人間」となった彼女自身なのだから。

ポニョと黄金比

2009-01-02 | 映画
 年末の歌番組で大橋のぞみちゃんの歌声を聞いたせいだろうか、今になってポニョのことを書いておきたくなった。
 すでに2ヶ月ほども前のことになるが、昨年、仕事がらみで三鷹市のジブリ美術館に行く機会を得たのは幸運だった。あえて言えば、私はポニョが大好きなのである。
 都合で美術館には1時間足らずしかいられなかったのだが、中でもジブリのスタジオや宮崎駿の仕事場を再現した(実際そのとおりかどうかは知らないのだが)コーナーは、手作り、ものづくりのスピリットにあふれた場所で、一日中でもそこに佇んでいたかった。
 そこにはポニョの手描きのコンテや下書きも多く無造作に壁に貼り出されていたが、このポニョの顔や姿のバランスは本当にかわいらしさの黄金比であると思う。
 当然映画は観ているのだが、そのほかにも私はポニョ関係の本を書店で眺めては思わず買い込んでいる。あの黄金比を見ているだけで私は幸福になり、涙が自然に流れてくる。まったくおかしな話なのであるが・・・。
 ところで、すでによく知られている話だけれど、今回ポニョの製作にあたって、宮崎監督は徹底的に手描きにこだわっている。
 その理由を宮崎監督自身が「文藝春秋」1月号で次のように語っている。
 「・・・CGをつかわず手書きに戻ったのは、そのほうが自由に描けて楽だからなんです。たとえば子どもが歩くところをよく観察すると、足を一定に交互に出したりしない。トテテ、トテ、トテ、とふらふらします。走ってスカートが翻っている様子なんて、もっと複雑です。これまでは時間的、経済的な理由から、同じ画を繰り返して動かしてきたけれど、もう、全部描いちゃえーと。」
 つまり、よりリアルな絵を描きたいという欲求にしたがったということだが、これまでのジブリ作品の成功が、そうした経済的・時間的環境を彼にもたらした、ということなのだろう。

 ちなみにその作画枚数を作品ごとに比較すると次のようになる。
   ・風の谷のナウシカ   56,078枚
   ・となりのトトロ      48,743枚
   ・もののけ姫      144,043枚
   ・千と千尋の神隠し  112,367枚
   ・崖の上のポニョ    170,653枚
 
 思わず息を呑んでしまうが、ものを手でつくるということの素晴らしさと幸福感がそれだけポニョには籠められているのだろう。