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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

新聞書評を読む

2020-11-18 | 読書
 私は新聞の読書欄や書評を毎週楽しみに読む者の一人だが、それはどの評者がどのような本を選び、どのような切り口でそれを読み取り、読者に紹介するのか、その切れ味を味わうのが楽しみだからである。
 そこで紹介される本の数々は、この時代の実相を反映するとともに、現代社会の奥底に潜む様々な問題をあぶり出している。評者は当該の書物を紹介しながら、そこで浮き彫りになった課題を提示し、その本を読むことの意義を示してくれるのだ。
 毎週、多くの書物が複数の評者によって紹介されるのだが、それが個別のものでありながら、一つのまとまりとなることで新聞各紙の特色となり、社会への批評や主張となっているのが面白い。
 それらの本すべてを読むことが出来ればそれに越したことがないのはもちろんのことではあるけれど。

 11月7日付朝日新聞では、慶応大学の坂井豊貴教授(経済学)が「Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔」(アイリス・チュウ、鄭仲嵐著)を紹介している。わが国でもよく知られるようになった台湾の若きIT大臣オードリー・タンの評伝である。
 オードリー・タン氏の魅力はさることながら、評者がこの本の中から引用しつつ紹介しているオードリーの考え方や生き方に興味を惹かれる。
 例えば、コロナ禍のマスク不足において、オードリーが在庫マップのアプリを数日で完成させたことは広く知られているが、アプリは一人で作ったわけではない。「大勢の人のために行うことは、大勢の人の助けを借りる」というオードリーは様々な人や組織をつなぎ合わせる役割を担う。設計は専門家に頼み、民営の政治サイトで仲間を募り、自身は政府から承認や協力を引き出す。大臣ではあるが、「政府のためではなく、政府と共に」働くのである。
 さらに、オードリーは活動の全てに「ラディカルな透明性」を実施している。日々のスケジュール、会議での発言、インタビュー内容、訪問者との会話などは、全てサイトに公開する。透明性を重視するのは、余計な衝突や誤解を減らすためと、相互理解を促すためだという。
 また、オードリーは、多様な人々が公共の決定に参加して、衆知が集まることを重視する。参加そのものの価値を重んじるからというよりは、有益な意見を政府に吸収させるためだ。

 以上、書評からの引用が長くなってしまったが、これだけでもオードリー・タンの考え方がいかに魅力的かが分かる。と同時に、私たちの置かれている政治的・社会的状況への批評がそこに込められていることに暗澹たる思いを抱かざるを得ない。わが国の政権のありようが、オードリーの示す政府のあり方と真逆であることに今さらながら驚かされるのである。

 同じ紙面では、東京大学の須藤靖教授(宇宙物理学)が小田嶋隆著「日本語を、取り戻す。」を紹介している。本書は、著者が今まで発信してきたコラム33編からなるもので、政治家の発言と、それを巡る新聞社に代表される報道機関の記事が、いずれも理解できないほど劣化しているにもかかわらず、社会がそれに慣れっこになってしまった現状を、一貫してややシニカルにしかし論理的に憂えている、とのこと。
 須藤教授は、本書のタイトルは「科学的であれ」と同義だと解釈したうえで、科学を次のように定義する。
 科学とは、専門家が難しげな知識を振りかざして、勝手な結論を押し付けるものではない。仮に自分にとって自明であろうと、誰もが納得できるような証拠を提示し、論理的にその結論を導く過程こそが科学。
 そのうえで、本書の文章を引用しながら次のように述べる。
 ……「日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌」「国民に対して、起こっていることをまともに説明しようとしない」は、非科学的姿勢の典型例だ。残念ながら、その体質は現政権でも踏襲されたままらしい。……

 以上の2冊の書評の言葉をこうして書き写すだけで、それらが時の政権への痛烈な批判にも皮肉にもなっていることは伝わってくるが、ではこうした空気を変えることは可能なのだろうか。

 同じ11月7日付の毎日新聞のコラム欄では、専門記者の伊藤智永氏が「三島事件50年の軍と大衆」という文章を載せている。気になった部分を引用する。
 ……三島の不信は、政治を皮膚感覚でとらえる民衆へ向けられる。「皮膚は敏感だが盲目的で、小さなニヒリストを忌避しているうちに大きなニヒリストを受け入れる危険がある。岸が何となく嫌いという心理は、容易に誰それが何となく好きという心理に移行する。もっとも危険なものをつかむ」というのだ。……

 ここでの三島の言葉は、(1960年の)新安保条約自然承認の夜、三島が数万人の群衆を見物し、6月25日付毎日新聞に寄稿した文章の一部である。
 作家の直感は時代の転落を先取りしていたのだろうか。

 三島の言う「皮膚感覚」を「空気」と読み替えてもよいのかも知れない。
 政権のありようを言葉によって批判することは出来ても、民衆の間に蔓延する空気を入れ換えることは容易ではない。そのことを誰よりも最もよく知っているのが時の政権ということなのかも知れないのである。
 民衆心理を知り尽くしているがゆえに、科学的な議論を極力避け、報道メディアをあらゆる手を使って手なずけ、情報の公開や透明性を回避し、問われたことに答えない姿勢を徹底しながら、論理ではなく空気の醸成に血道を上げる。まさに彼らこそが怪物化したニヒリストの姿なのだ。

 注意の喚起ではなく、空気の換気こそが必要なのだが、そのためにはどうすれば良いのだろうと考えてしまう。
 大逆転を促す手立てなどないと考えて、事実に基づきながら、論理的に、徹底して愚直に議論していくという姿勢を貫くしかないのだろう。各紙(誌)の書評で紹介される本の数々はそうした方向づけの道しるべになるものなのだ。