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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ミレニアム2・3

2012-09-19 | 読書
 スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」の第2部「火と戯れる女」、第3部「眠れる女と狂卓の騎士」を続けて読んだ。
 2か月ほど前にこのブログにノートした第1部「ドラゴン・タトゥーの女」に引き続き、すっかりその魅力の虜になってしまった。三部作を合わせれば文庫版で3000ページに及ぶこの作品をそれこそ寝る間を惜しむように通読した。今の自分にこれほど読書に費やすエネルギーが残っていたというのは嬉しい発見でもある。
 すでに単行本として刊行されてから3年以上も経っている作品であり、多くの書評や感想、様々な関連情報がネット上で紹介されているので、いまさら私などがあれこれと言うべきことはないのだが、その最大の魅力が一方の主人公である調査員リスベット・サランデルの造形にあることは間違いない。
 小説全体が彼女の生い立ちやそれに起因する行動原理、発達障害の要素もうかがえるようなその複雑な性格によって動かされていく。読み手は主として語り手に位置づけられる主人公ミカエル・ブルムクヴィストの視点から彼女を見つめることになるのだが、ミカエルもまたそうであるように、リスベットのことが気にかかって仕方がない。読み進むにしたがって次第にその魅力に抗しきれなくなっていくのである。

 三部作は一貫したテーマ性と共通する登場人物によってつながっているのだが、読んだ印象は不思議なほどに多彩でさまざまな要素に充ちて飽きることがない。いわく、緻密に構築された孤島ミステリーであり、警察小説の要素もあり、ジョン・ル・カレばりのスパイ小説の味わいも濃厚にあるかと思えば、女性への暴力や残虐な行為を暴く社会派ミステリーの顔もあり、裁判所を舞台にした痛快なリーガル・ミステリーの醍醐味もある。
 それらに加えて恋愛小説の味付けが下地としてしっかりとあるというのが私の感想である。それもミカエルを中心とした源氏物語的愛憎=もののあわれが本作の隠れた魅力なのではないだろうか、と思えるのだ。
 光源氏ほどの美男子ではもちろんないのだが、どうしてと不思議でならないように思えるほどミカエルはよくもてる。彼を愛してしまった女たちは、源氏の女たちのようにどこか不幸で嫉妬に苦しみもするのだが、反面、彼女たちは女戦士として目を瞠るような活躍をする。「ミレニアム」は戦う女たちの物語でもあるのだ。

 リスベットは彼女を憎む男たちの策謀によって窮地に追い込まれるが、自分自身がそうしたミカエルを中心とした愛憎の輪の中に入ることを断固拒絶してそこから徹底的に離れようとする。そうしたリスベットを何とか救い出すために能天気なミカエルは手を尽くすのだが、そうした感情の綾の複雑に絡み合った起伏がまた一方の本作の魅力になっていることは間違いないだろう。
 いわく言いがたい事情があって、この本を読んでいるときの私はいささか辛い精神状態にあったのだが、この小説を読むことで救われた思いのすることがたびたびあった。その意味でも忘れがたい作品である。
 
 小説を読み終わった余韻も冷めやらぬなか、DVDになっている本作のスウェーデンでの映画化作品を2本借りてきて観たのだが、正直言ってがっかりしてしまった。
 小説のような丁寧で深みのある人物造型は望むべくもないと分かってはいても、薄っぺらで映像的にも発見のないとしか思えないものだったのだ。
 おかげですっかり後味の悪い始末になってしまった。仕方がないので、もう一度小説を読み返すことにしようかとも思うのだが……。