seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「シャケと軍手」と魚服記

2008-11-25 | 演劇
 新転位・21の公演「シャケと軍手―秋田児童連続殺害事件―」を中野光座で観た。作・演出:山崎哲、出演:石川真希、佐野史朗、飴屋法水、杉祐三、おかのみか他劇団員のほか、元・状況劇場の十貫寺梅軒が客演している。(11月18日から28日まで)
 正直言って、私はこの劇団の決してよい観客ではない。旧転位・21の旗揚げから観ていながら、その素晴らしさを見抜くことができなかったし、新転位になってからはまだ数本しか観ていないのだ。とは言え、4年前に同じ光座で観た「齧る女」は今も記憶にはっきり残る傑作だと断言できる。口当たりのいい芝居ばかりに観客の集まる風潮の演劇界に楔を打ち込むような存在感を新転位・21は持っているのだ。私があまり熱心な観客でないのは、単にこちらが歳を取りすぎて体力的に敵わないと思わせるほどのパワーをこの劇団の舞台が放っているからに違いない。
 今回の「シャケと軍手」もまた、期待に違わぬ衝撃をもって迫る舞台だった。休憩なしの2時間半と聞いて、思わず腰が引けてしまったけれど、窮屈な元映画館の底冷えする座椅子に座って、ゆるむことのない劇的緊張に私は心地よく身をゆだねた。
 話は言うまでもなく、秋田の同じ小学校に通う4年生の畠山彩香ちゃんと米山豪憲くんが相次いで行方不明になり、遺体で発見されたのち、彩香ちゃんの母親の鈴香容疑者が逮捕されたあの事件である。
 山崎哲はこの事件にフィクションを持ち込みながら巧みに神話化することに成功している。その成功の大きな要因となっているのが、彩香ちゃんが好きでよく読み聞かせてもらっていたという設定で語られる太宰治の「魚服記」である。この物語を飴屋法水演じるスズカの弟ユウがアヤカに読み聞かせてやるシーンはこの舞台の白眉だ。(飴屋は自在な演技で独特の存在感を発揮していた)
 「・・・スワは起きあがって肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉みくちゃにされていた。どこまでも歩いた。
 滝の音がだんだんと大きく聞こえてきた。ずんずん歩いた。てのひらで水洟を何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
 狂い唸る冬木立の、細いすきまから、
 『おど!』
 とひくく言って飛び込んだ。・・・」
 陰惨極まりない事件ではあるけれど、芝居には救いがある。舞台がアヤカちゃんたちへの鎮魂の祈りに充ちていると思うからである。
 
 また、スズカが語る印象的な話が記憶に残る。それはスズカの子供時代の話で、ぐずったか何かで、父親にダンボール箱の中に閉じ込められたスズカを可哀想だと、母親が箱にすがり付くようにして抱きしめる。その光景を箱の中にいるはずのスズカが、母親の肩越しにじっと見ていたというのだ。
 分裂的な解離性の人格障害を想起させる話には違いないのだが、これを聞いていて、先日観たピランデルロの「山の巨人たち」の中で魔術師コトローネの別荘にやって来た旅の一座の役者達が体験する夢のことを思い出した。これはもしかしたら役者というものが共通に抱える病理なのではないだろうか。たしかに役者は一歩間違えば何をしでかすか分からないところがないとはいえず、それを演技として意識化することでかろうじて正気を保っていられるに過ぎないのかも知れないのだ。
 話が逸れてしまったが、スズカ被告の言動には、あるべき自分とこうありたい自分の境界が曖昧になり、混濁したことで生じるワカラナサ・コワサがあるように思えて仕方がない。それは単にクスリのせいだろうか。別の自分=存在でいたいと希求する切なるココロの叫びがもたらした自己分裂のためだろうか。

 それはそうと私は秋田訛りというものをよく知らないのだが、太宰の小説を使ったせいだろうか、登場者たちの言葉が津軽訛りになっていたような気がする。芝居の中で唐突に寺山修司の話が引用されたりすることからも、これは意図的な演出なのかとも思うのだが、本当のところは分からない。

ことばの森の声

2008-11-25 | アート
 もう先週のことになるが、16日の日曜日、「にしすがも創造舎」のカフェで行われた「ちいさな詩の朗読会-旧朝日中学校の記憶と子どもたちの詩」に行ってきた。
 これは同施設を運営する2つのNPO法人の一つである「芸術家と子どもたち」が行ったワークショップの発表会であり、詩人の上田假奈代さんと7人の子どもたちが、かつて中学校の校舎だったこの施設を卒業生のお姉さん、お兄さんたちと一緒に歩いて教室や職員室、給食室などにまつわるなつかしい話を聞いたり、いまはもうおじいさんになっているこの学校の1回生だった人たちの話を聞いたりする中で、「もと学校」だった場所の記憶や人々の思い出と出会い、ゆっくりと自分自身の「ことば」を見つけながら詩をつくり、それを声に出して人々に届けようという試みである。
 「子どものいるまちかどシリーズvol.5」と銘打っているように、「芸術家と子どもたち」が行うこのワークショップもすでに5回を数えているのだが、一貫して地域の記憶や日常をアーティストと子どもたちが新たな視点で再発見していくというこの取り組みを私はとても気に入っている。
 「朗読会」は子どもたちとそれを聴く私たちの身体がそれこそ接するくらいの狭い空間で行われたのだが、それがよかった。人前で声を出し、表現することに決して慣れているわけではない子どもたちの息遣いや、時としてはにかみ、逆に心のどこかで自慢気があったり、こんなこと何でもないとでもいうようにことさら何気ないふうのポーズをつくる姿が微笑ましく思える。
 それにしても詩の「ことば」とは不思議なものだ。それが文字面でなく音として聴く、あるいは受け止めるという聴き手側の行為と相俟ってその場でしか感じられない空間を創り上げていく。これもまた表現なのだ。私は子どもたちの声をとおして、この旧校舎に響いた様々な声を聴いた、ような気がする。満ち足りた時間を私は味わった。子どもたちにとってもそれは大きな体験となって心の中に残っていくに違いない。
 最後に、上田假奈代さんが自作の詩を聴かせてくれて、「ちいさな詩の朗読会」は終わった。ほんわかとした関西訛りで、言葉の一つひとつを慈しむようにゆっくりと語りかける彼女の声もまたいつまでも私の心の中に残り続けるだろう。
 
 今回、子どもたちが体験したのは、場の記憶や人々の思い出に感応しながら、自分自身の言葉をさがすという行為である。そうした行為が連綿とつながって「いま」がある。歴史が形づくられる。あらゆる芸術はそうした記憶のそれぞれに向き合い、じっくりと耳を傾けるということなのかも知れない。
 チェーホフの小説「中二階のある家」をこの数年間、折りあるごとに私は何度も何度も読み返しているのだが、そのたびに最後の数行に心を震わされてしまう。詩や小説、物語は、そのように過ぎ去ったものに心を寄せ、記憶を手繰り寄せながら、さまざまな人の声を聴きとろうとする試みにほかならないのだ。
 最近読み始めたのでことさらそう思うのかも知れないのだが、千年前に書かれた「源氏物語」もまた、そうした、今ここにはいないけれど、私たちが夢み、想い続ける誰かや失われたものに寄せるせつなさに満ち溢れている。そう考えると、千年前の宮廷の女官と西巣鴨の小さな子どもたちの姿が重なって見えてくる------。

山の巨人は現れたか

2008-11-16 | 演劇
 ジョルジュ・ラヴォ-ダン演出の舞台、「山の巨人たち」を観た。イタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの遺作にして未完の戯曲の舞台化である。出演は平幹二朗、麻実れい、手塚とおる、田中美里、綾田俊樹、田根楽子、大鷹明良他。新国立劇場で10月23日から11月9日まで上演。
 世間から隔絶した山間の別荘「ラ・スカローニャ(不運)」で隠遁生活を送る魔術師コトローネのもとに、伯爵夫人と名乗る女優イルセを中心とした旅の一座がやって来る。彼らは世間の観客に見放され、興行に失敗して落魄した劇団員たちである。
 その夜、彼らは別荘に宿を借り、夢の中に引きずり込まれて幻想的な体験をする。
 コトローネは、「山の巨人」と呼ばれる二家族の結婚式の余興に彼らの芝居「取り替えられた息子の物語」を演じることを提案するのだが・・・。
 最終幕が未完のままということもあって難解な芝居という印象は拭えないが、それだけに実に多様な読み方、誤読、錯覚を私たちに許してくれているようにも思える。
 言うまでもなくこれは、演劇のための演劇なのだが、卓抜な観客論でもある、というように私には思える。役者にとって、これは切実な芝居なのだ。
 舞台上に架かる、途中で切れて切断面が剥き出しになった巨大な橋のセットの上で役者達は演劇論を戦わせる。舞台奥から弧を描いて観客席に向かって傾斜する橋は、その上で演じる役者が一歩バランスを失えば転げ落ちかねない危うさを表わし、その切断面は、そこから先には行くことのできない彼らの運命を暗示しているようだ。どこにも行き場がないとなれば、彼らは、私たちは、そこで死ぬまで演じ続けるしかないのだ。
 コトローネは、世間から見放された劇団員たちを幻想の魔術で癒し、導く演劇の守護者であり、最後まで姿を現わすことのない「山の巨人」とは、神のごとき「唯一の観客」の謂いであるというのはあまりに単純な読みだろうか。

 冒頭近く、橋の向こうから劇団員たちが姿を現わすシーンは実に印象的だ。その佇まいは、テオ・アンゲロプロスの映画に出てくる旅芸人たちを彷彿させる。舞台にはたくさんの役者が登場するけれど、その配置の妙に私はわくわくした。様々の立ち位置で、ただ立っている役者たちの姿がこれほど美しい舞台を久々に観た気がする。
 平幹二朗は、年齢を感じさせない、美しく伸びやかな鍛えられた声と姿で巨大な存在感を示し、麻実れいは、ベニサン・ピットのような小さな空間とはまるで異なる大ステージで、彼女ならではの稀有な輝きを存分に表現していた。
 また、舞台では、楽器演奏や歌唱、ダンス、仮面劇、人形劇が取り込まれ、繰り広げられるのだが、多くの観客が「シルク・ド・ソレイユ」を観てしまった今となってはいささか控えめな印象を受けたのではないかと思う。個人的な趣味を言えば、もっとふんだんにサーカスの要素を取り入れた、フェリーニ的世界が展開されてもよかったのになあ、と思ったりもする。

 この芝居は観客論だと先ほど言ったのだけれど、コトローネの台詞に「芝居は観客に理解されない」という言葉がある。これは作者ピランデルロの真意だろうか。
 これが書かれた時代背景から、「山の巨人」はファシズムの台頭を暗示したものという説もあるようだけれど、確かにヒトラーは映画やオリンピックを通じてドイツ民族の優位性を世界に知らしめようとした。文化政策は彼の道具だったのだ。そこから類推して、「観客に理解されない芝居」とは、作者による抵抗を暗喩したものと言えるのではないかとも思えるのだが、どうだろう。

オバマとジョンソン

2008-11-12 | 映画
 すでに10日近くも日が経ってしまったが、アメリカの大統領選挙は、「変革」を謳った民主党の若きバラク・オバマ候補が圧倒的な差で共和党のマケイン候補を破り、次期大統領に選ばれた。
 8年間のブッシュ政権に対する嫌悪感がピークに達していたことや、折からの金融危機が選挙戦の行方を左右した感はあるが、それにも増して「変革」を求めるアメリカ国民の願いが強かったということなのだろう。
 それにしても、国政に出てまだ4年ほどに過ぎないオバマ氏が、予備選や本選を勝ち抜き、そしてそれを多くの国民が支持して黒人初の大統領になるという、わが国では到底考えられないような「変革」を成し遂げようとする米国民のパワーには、まだまだあなどれない底力を感じる。
 それを推し進めたのが言葉の持つ力であることは言うまでもない。オバマ氏の演説力を宮崎の東国原知事は「技術論的には普通」と評したそうだが、そうだろうか。役者の目から見て、オバマ氏の演説にあってわが国の政治家にないのは、言葉のリズムであり、ボキャブラリーであり、腹式呼吸による発声であると思えるのだが、この違いは雲泥の差だと思うのだけれどいかが?
 だって、誰とは言わないけれど、日本の政治家の演説は喉発声でどうしても浪花節語りのようになってしまうためか、耳に心地よくないことこのうえないのである。
 母音が先に立つ日本語と違い、英語の発声は喉に負担がないようである。また、「チェンジ!」と言い切ってしまえる単語の簡潔な表現力や韻の踏みやすさなど、英語の特質が演説に活かされているのを見るにつけ、日本語による演説の研究を本気でやるべきではないかと思う今日この頃である。
たとえば、福田恒存訳によるシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で有名なアントニーの演説など、政治家を志す方は必須のものとして暗誦することにしたらどうだろう、と半ば本気で思っているのだが。
 ・・・話がそれてしまったけれど、次期大統領への期待感がかつてないほど高まっていることは間違いない。そしてこの期待値の高さは、その反動の大きさをも予感させるだけに、次期政権にとっては両刃の剣とも、重荷とも映るに違いない。オバマ演説に希望をもったマイノリティや低所得層の人々をはじめとする国民の期待をいかにつなぎとめることができるのか、困難な道のりはすでに始まっている。
 さらに言えば、米国における保守主義の根深さを指摘する声も一方にはあり、それはそれで確かにそうだと思わせられる。金融危機が顕在化するまで、マケイン陣営が優勢に立った時期もあったのであり、いまだに低所得の白人層はオバマ氏への警戒感を緩めていないと言われているし、黒人層の多くが抱える貧困な状況がすぐに改善するとも思えない。経済政策に明らかな成果を上げられなかった場合、オバマ大統領への期待はすぐさま極端な失望へと塗り替えられてしまう可能性は高いといわざるを得ない。
 「チェンジ!」を掲げたオバマ候補の色褪せたポスターを前に「結局、何も変わらなかったのさ」と若者が気力をなくした声で呟く、といった映画のワンシーンのような光景だけは見たくないものである。

 映画といえば、先日、たまたまCATVの番組で「ジョンソン大統領/ヴェトナム戦争の真実」という映画を観る機会があった。
 これはジョン・フランケンハイマー監督の遺作で、ハリー・ポッターの映画でダンブルドア役のマイケル・ガンボンがジョンソン大統領を演じている。
映画は、37代副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディ大統領の暗殺後、かつてない高い支持率のもと第36代米国大統領になった直後のパーティのシーンから始まる。
 ここで描かれるのは、映画「JFK」でケネディ暗殺の黒幕のようだった彼ではなく、理想に燃え、公民権運動にも深い理解を示し、黒人差別解消に情熱を燃やす一人の政治家である。
 その彼が、軍部や国務長官の進言に従い、ヴェトナムへの兵士の増派を続けるなかで次第に泥沼に入り込んでしまう。それは抗し難い時代の空気のようなものであったのかも知れないが、現実は彼の理想を裏切り続ける。
 「福祉や教育に力を注ぎたいのに、18時間の執務時間のうち、12時間がヴェトナムへの対応に費えてしまう」と嘆き、戦争からの撤退を訴えるロバート・ケネディのテレビ画像に向かって「お前たち兄弟が始めた戦争の尻拭いをしているのが誰だと思ってるんだ」と怒りを露わにするジョンソン。その彼のもとから、側近達も次々に去っていく。
 ここで描かれているのは、ある特殊な政治状況下でのた打ち回る人間の姿であり、孤独に苛まれる普遍的な指導者の姿である。
 こうした状況にオバマも呑み込まれるのか、それとも「不屈の希望」によって乗り越えるのか。世界が注視している。


世界は何を奏でるか

2008-11-06 | Weblog
 保坂和志氏の新著「小説、世界の奏でる音楽」の「まえがき」に次のような文章がある。
 「・・・批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。・・・」
 この言葉には深く共感させられる。そもそも私たちの周りには、それが芝居に対するものであれ、映画やアートに対するものであれ、批判的で独断的な言辞があまりに満ち溢れているように思われるからだ。それが対象とする作品の見方や感じ方を押し広げ、表現されたものを受容する私たちをさらに異なる位相や高みへと導くものであってくれればよいのだが、大抵は独り善がりで単純な決め付けに過ぎない。
 これは私自身の自戒をこめた反省でもあるのだが、確かに一つか二つの固定的な視点さえ持てば、観た芝居の悪口などいくらだって書くことができる。もっともそんな言葉は見るだに腹立たしいのだけれど。
 そうではなく、その芝居や映画をあらゆる角度から複眼的に見つめなおし、味わい尽くし、咀嚼しながら、この世界の中での作品の持つ価値や位置づけについて考えつづけること、素直に身をゆだねること。そんなことができたらなあと思うのだ。
 まずは信じること、受け入れること。そんな作品との出会いを期待して、今日も私たちは街を彷徨う・・・。