seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

半沢直樹の逆襲

2013-07-20 | 読書
 ほとほとミーハーなのは仕方のないことと大目に見ていただきたいのだが、TBSドラマ「半沢直樹」の好調な出だしに影響されて、池井戸潤の原作本『オレたちバブル入行組』、『オレたち花のバブル組』(以上:文春文庫)、『ロスジェネの逆襲』(ダイヤモンド社)の3冊を立て続けに読んでしまった。
 いやあ、実に面白い。それぞれほぼ1日に一冊のペースで読んだのだが、読み出したらもう止められない。第1作は今からもう10年ほど前に書かれ、第2作目も5年前に単行本化された作品なのだが、ドラマの影響か、最近の文庫本売上ランキングの上位にカウントされている。
 同じ作家の直木賞受賞作「下町ロケット」と共通するのは、とことん逃げ場のないように思える窮地に追い詰められた主人公たちが誇りを持って自らの生き方を貫くとともに、持ち前の粘りで危機を脱し、自分たちを見下し、虐げていた者たちを見返す瞬間の何とも言えない開放感だろうか。
 時に理不尽なまでに責任を部下に転嫁する姑息な上司や組織という名の不条理にぎりぎりまで耐えに耐え、土俵際に追い詰められたと見せながら敢然と異を唱え、徹底的にやり返す。
 その時の決め台詞が半沢直樹の場合は「やられたらやり返す。倍返しだ!」ということなのだが、まあ、実際の社会ではそんなわけにはいかないことを分かったうえでの夢物語として、サラリーマンに共感を呼ぶのだろう。

 1、2作が文字通りバブル期に社会人となった半沢世代の主人公たちがメインの話とすれば、3作目の『ロスジェネの逆襲』では、半沢たちからは一世代下の、バブルがはじけた後の就職氷河期に社会人になった後輩たちが活躍する。
 そのため、半沢直樹も何となく物語の後景に退いた印象があるのだが、最後にはその若い世代とタッグを組んでしっかりと落とし前をつけてくれる。
 ただ、先輩となり、上司と部下との関係がクローズアップされる場面ではやや説教くささが残る。

 しかしながら、その説教くさい部分にこそこの小説の肝ともいうべきものがあるのも確かなのである。
 先日読んだ「64」と同様に、組織とそこに働く者の関係、誰のために働くのか、何のために働くのかといった根本的な問いかけがそこには凝縮されているのだ。
 とは言え、この小説はそんな小難しいことを考えずに思い切り楽しみながら読むのがよいのだろう。サラリーマンでなくとも、組織の中で息苦しさを感じながら働くあらゆる人々にとって、夏の夜の一服の清涼剤となることは間違いない。

64/茜色の空

2013-07-12 | 読書
 かなり以前に読んでおきながらメモしていなかった本について記録しておこう。
 まず、横山秀夫の傑作ミステリー「64」である。
 食わず嫌いということが理由になるのかどうか、私はこれまで横山秀夫の作品を読まずに来た。興味はあってもあえて避けてきたような気もする。
 それが例の直木賞落選にまつわる当時の審査員の心無い評価に多少なりとも影響されてのことであれば、私は自身の不明を恥じなければならないし、今回「64」を読むことでそうした余計な雑音は完全に払拭することができた、と思う。今さら、なんだけどね…。

 「64」(ロクヨン)は、昭和64年にD県警の管内で初めて起きた本格的な誘拐事件、「翔子ちゃん誘拐殺人事件」を表わす符丁である。
 ……1月5日、お年玉をもらってくると言い残して昼過ぎに自宅を出た雨宮翔子が近くの親類宅に向かう途中、忽然と姿を消した。身代金2千万円を奪われた挙句、雨宮翔子は無残な死体で発見された。犯人不詳のまま、時は過ぎていった。
 「64」は当時の警察関係者が事件を記憶に奥深く刻み込んだ刻印なのだ。
 その事件を巡って、刑事部と警務部が全面戦争に突入。元・刑事の広報官・三上義信は両組織の狭間で己の真を問われる……。

 ふと思ったのだが、日本の警察小説や警察ドラマはどうしていつも組織内でいがみ合ったり、つぶし合ったり、人間関係がギスギスと描かれているのだろう。組織のチームワークがうまく機能して、メンバーが仲良く事件解決にあたればよほど効率的なのに、と思うのだが、それではドラマチックにならないし、面白くない、と作り手たちが思い込んででもいるかのようだ。
 「64」の場合も、同じD県警の中にある刑事部と警務部の争いはリアルさを超えてマンガチックとさえ思えるほどなのだが、これを前提に置かないと成立しない話であることも確かなので、目をつぶるしかない。何よりも、本作は優れた警察小説、ミステリーであると同時に、第一級の組織小説であり、卓越したビジネス書でもある、というのが私の感想だ。
 ミステリーとしては、それまで無関係に配置されたように思われた挿話や伏線がクライマックスに至って一気に収斂され、パズルのピースがカチッと収まったような快感を与えてくれる終盤が何とも言えず素晴らしい。その衝撃が本作を再読、三読に堪える強度を持つものとしている。
 一方、組織小説、ビジネス書としての魅力は、この小説が、組織に生きる人間の息苦しさや矜持を描きながら、事件の過程で主人公が自身の考え方を変え、今自分が所属する組織の中で最善を生きようとする、その変化と困難さを同時に描いていることだろう。
 主人公は自らの生き方を変えることで、部下たちとの信頼を構築し、組織の中での居場所を見つけるのだ。
 もちろんそのことが全てをハッピーエンドに導くわけではない。事件そのものも最終決着をみることなく小説は終わり、主人公自身の家庭が抱え込んだ「事件」も何ら解決はしないのだが、つまりそれは、人生は果てしなくこれからも続くのだということなのだろう。
 個人的には、主人公・三上の刑事部時代の上司である捜査一課長・松岡の姿があまりにカッコよくてシビレてしまった。
 広報官として生きることを選んだ三上もまたこう思わず嘆息するのだ。
 「できることなら、この男の下でもう一度働いてみたい……」
 その上司と部下の関係もまた本書の大きな魅力の一つである。

 もう一冊記録しておきたいのが辻井喬著「茜色の空」である。
 本書は、1972年の日中国交回復の際の外務大臣であり、そののち第68、69代総理大臣を務めた政治家・大平正芳の生い立ちから死去までを描いた伝記的小説である。
 生前は「鈍牛(どんぎゅう)」「アーウー」と揶揄されながら、没後30年を経て、戦後政界随一の知性派として評価が高まり続けている大平正芳元首相。同じ郷里の出身ということもあって、何故だか昔から私はこの人のことが気にかかっていた。
 キリスト教に帰依した青年期から、官僚として戦後日本の復興に尽くした壮年期、そして“三角大福”の1人として権力闘争の渦中へと巻き込まれ、総選挙のさなかに壮絶な“戦死”を遂げた悲劇の宰相の人生を、実業家・堤清二として大平と親交があった著者が愛惜とともに描く……。

 こんな言葉が語られる。
 「今の僕の一番の目標は、どうやったら政界全体の水準を上げて、そのことで世の中に民主主義を浸透させることができるか、ということなんだ。自分の責任で判断し行動を決めることができる大衆がいてこそ、民主主義はいい制度になる。……
 ……そんなことは実現不可能だ、夢のような理想論だという絶望感に落ち込んでしまう場合がある。しかし、主はニヒリストになることをわれわれにお許しにならない。」

 理想に燃え、知性にあこがれ続けた政治家が、その一方で金権政治の権化ともいうべき田中角栄を盟友として政界の波に呑まれていく不可思議さを描いて、本書もまた、組織に生きることの困難さを教えてくれる出色のビジネス書だと言えるだろう。

 さらにもう一冊、防衛事務次官だった守屋武昌氏の著作「『普天間』交渉秘録」についてメモしておこう。
 本書も、交渉というものの底深い恐ろしさや困難さというものを教えてくれる実践的な指南書=ビジネス書として読むことが出来る。
 「茜色の空」とは対照的に、政治の世界に跋扈する魑魅魍魎もふんだんに登場するのだけれど……。
 交渉事や物事の説得に疲れ倦んだような時に読むと、その程度のことでへこたれるなと逆に励まされるような思いになるかもしれない、もしかしたら。
 そんな一冊である。

バルザックと小さな中国のお針子

2013-04-03 | 読書
 今年の1月以降、ある一連の出来事があって、その対応に気を取られ、小説を読んだり、美術作品を眺めたり、映画や芝居を観たりといった時間の楽しみ方とは違った方向に私自身の精神状態が逸れてしまっていた。
 時間がとれないとか、単に多忙であるというのとは異なる次元で、あらゆる事物への無関心が心の中に巣食ってしまっていたようなのだ。
 要は集中力の問題かとも思うのだけれど、ある種のスランプのようにも感じる。芝居を観ても心を動かされないし、いわゆる純文学など、何のためにこんなものを書くのだとばかり、2、3ページも続けて読み進めることができない。
 それでも書店には毎日のように顔を出し、熱に浮かされたように、あるいは、何かの免罪符を手に入れるかのように本を手当たり次第に買い集め、瞬く間に整理したばかりの書棚はいっぱいに溢れてしまったが、ただそれらは埃を被って放置されたまま顧みられることもない。

 そんな時、リハビリ代わりに読んだのが、フランス在住の中国人作家ダイ・シージエの小説「バルザックと小さな中国のお針子」だった。

 物語の舞台となるのは、文化大革命の嵐が吹き荒れる1971年の中国。
語り手である17歳の「僕」と18歳の友人・羅(ルオ)は、ともに医師と歯科医の父親を持つ知識階層=反革命分子の子として、都市部から遠く離れた山奥の村に下放され再教育を受けることになる。
 そこは、まるでSF小説のなかにしか現れないような、あらゆる文化や芸術の途絶した世界だった……。
下放された人間がその任を解かれ、都市部に戻れる確率は1000人の内3人。僕と羅(ルオ)はその3人に選ばれるよう、重労働に従事し村長のご機嫌を取れる方法をあれこれと模索する。羅(ルオ)には自分がかつて見聞きした映画や小説の物語を、あたかも目の前で演じられ、起こっているかのように現出させるという「語り」の才能があった。その力を村長に認められた二人は重労働を免除され、山を一つ越えた村で上映された北朝鮮のプロパガンダ映画を観に行っては、村人たちの前でその映画を再現するという役割を担うようになる。僕の演奏するヴァイオリンの調べに乗せ、映画のストーリーを語る羅(ルオ)の天才的な語りは、村の人々の心を打ち、涙を誘い出すのだった……。
ある日のこと、隣村に同じく下放されている同級生のメガネを訪ねた二人は、偶然、その部屋の奥深くに隠された鞄を見つける。
その中身は、中国で禁書とされた海外の小説で、ある一つの交換条件で二人は一冊の本をメガネから手に入れる。その本は、バルザックの小説だった。二人はその本を貪るように読み、その魅力に心を奪われる。
 そうした日々の中、二人は、隣村で人々の要望に応えてどんな服でも縫い上げる仕立屋とその一人娘で、お針子を務める美少女・小裁縫と出会い、知り合いとなる。
僕と羅(ルオ)は、ともに一目で恋に落ちるのだったが、先んじたのは羅(ルオ)で、持ち前の語りの才で映画を目の前に現前させ、バルザックを読み聞かせながら小裁縫の心ばかりか、肉体をも手に入れてしまう。僕は、その一部始終を複雑な気持ちで見詰め続けるしかないのだったが……。

 さほど長くはないこの小説を私は2週間以上もかけてゆっくりと読んだ。そのペースが私のリハビリには有効なのだと思いながら。
 この小説の魅力はなんといっても、文学も芸術も途絶され、本を読むことが国家から糾弾されるような恐怖政治のもと、文字すら存在しないような偏狭な社会のなかで再び文学作品に出合い、文章を読むことの幸福を心から味わうという、その至福の瞬間を青春小説の形式で描き出したことだろう。
 それも、機知と諧謔に富みながら、同時に無垢と悪意、純情と嫉妬、善行と悪徳がない交ぜとなり、それらすべてを寓話的な語り口とともに青春期特有の痛みと官能が甘くくるみ込んでいるような、そんな小説なのだ。

 著者のダイ・シージエは、自身も文革の嵐の中、青春時代を送らざるを得なかった中国人作家であり、本作を原作とする映画の監督でもある。
 そうした著者の経歴を知ると、いくつもの偶然と必然によって一つの文学作品が生まれ、それが遠い国の読み手のもとに届けられ、享受されることの不思議さというものをあらためて思わずにはいられない。


知の逆転

2013-01-19 | 読書
 サイエンスライター吉成真由美氏のインタビュー・編による「知の逆転」(NHK出版新書)が面白いと評判になっている。私は昨年末に新聞の書評が出てすぐに買いに行ったのだが池袋の書店でようやく見つけることが出来た。それが今では近所のそれほど大きくはない書店の棚に何冊も並んでいる。
 「現代最高の知性6人が熱く語る」と帯にあるように、進化生物学・生物地理学のジャレド・ダイアモンド、言語学者ノーム・チョムスキー、精神医学者で作家のオリバー・サックス、コンピュータ科学者・認知科学者マービン・ミンスキー、数学者トム・レイトン、分子生物学者ジェームズ・ワトソンといった錚々たる人々に吉成氏が果敢に問いかける内容だ。

 「はじめに」の中で吉成氏が書いているように、「もしも、膨大な時間と労力をかけ、社会の枠組みや時代の圧力にへつらうことなく、目をこらして物事の本質を見きわめようとし、基本となる考え方の踏み台を示してくれるような人がいるのであれば、ぜひその話を聞いてみたい。そういう思考の踏み台を知ることは、どれほど自分の身の回り、あるいはグローバルな問題を考えるうえで助けになることか」といった問題意識と意欲のもと、これらのインタビューは行われた。
 たしかに抜きんでた世界の叡智である登場人物たちの発言はすべてを引用したくなるほどに刺激的で興味深い。いささか偏狭で頑固だなと思えないこともないとは言え……。

 しょっぱなに登場するジャレド・ダイアモンドは、いきなり「『人生の意味』というものを問うことに、私自身は全く何の意味も見出せません。人生というのは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するというだけのことであって、意味というものは持ち合わせていない」と言って度肝をぬく。
 この章の冒頭にサマーセット・モームの「思い煩うことはない。人生は無意味なのだ」という言葉がエピグラフとして掲げられているのはもちろんジャレド・ダイアモンドのインタビューを受けてのことだろう。
 たしかに意味を求めて思い煩い、無用な苦悩を感じたりするのであれば、最初から意味などないと思い定めてしまえばこれほど気軽なことはない。
 意味はあらかじめ「在る」ものでも与えられるものでもなく、自ら創り出すものと考えれば少しはポジティブな言い方になるだろうか。「無」とは、何もない空疎なことではなく、座標軸の「0」のようにあらゆる存在の基盤になるものなのだ。
 さらに彼はこんなことも言う。「インターネットを介して得られる情報は、実際に人に会って得られる情報にはとてもかないません。(中略)インターネットを通じた情報の流れよりも、移民と観光による実際の人の流れのほうが、社会へのインパクトが大きいということです」といった発言は極めてまっとうなものだ。
 人口増加や資源の活用において、世界はすでに成長の限界に達している。世界の漁場は開発されつくし、世界の森林も伐採の限界に達している。これを食い止め、数十年先の世界が安定しているためには、消費量がいまより少なくなり、世界中で消費の量がどこでもほぼ均一になる必要がある。消費量の低い国々は高い国々に敵意を持ち、テロリストを送ったり、低いほうから高いほうへと人口移動が起こるのを止められない。消費量に格差がある限り世界は不安定なままであり、安定した世界が生まれるためには、生活水準がほぼ均一に向かう必要がある。たとえば日本がモザンビークより100倍も豊かな国であるということがなくなり、全体の消費量が現在より下がる必要がある……、という意見には頷かざるを得ない。
 
 政権が替わって景気刺激策が矢継ぎ早に打ち出されているが、その根底に「成長」という「神話」のあることに懸念を感じるのは私ばかりではないだろう。一方で、ジャレド・ダイアモンドの語る文明論に頷きはしても心底納得できないねじくれた感情のあるのも多くの日本人に共通したことではないか。
 しかし、1960年に30億人だった世界の人口がわずか40年後の今世紀初頭には倍になり、今や70億人を突破した地球の近未来をどのようなものにするかは、本書で語られた叡智に謙虚に耳を傾けることが出来るかどうかにかかっているのかも知れない。

ザ・チーム

2012-11-06 | 読書
 齋藤ウィリアム浩幸著「ザ・チーム~日本の一番大きな問題を解く」を読んだ。
 著者はロサンゼルス生まれの日系2世。高校時代にI/Oソフトウェアを設立。若手起業家として数々の成功と失敗を重ねながら、指紋認証など生体認証暗号システムの開発で成功。2004年、会社をマイクロソフトに売却後、日本に拠点を移し、ベンチャー支援のインテカーを設立。2012年に国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の最高技術責任者と国家戦略会議フロンティア分科会「繁栄のフロンティア」委員を務める。

 この本の第一の特徴は、日本が抱える根本問題を「チームがない」ことであると喝破したことにある。
 耳を疑うような指摘で、「だって、チームワークは日本のお家芸のはずではないか」と私も思ったものだが、この本を読み進むうちになるほどと納得させられる。
 日本はいつのころからか、何かを解決する、何かを生み出すための組織ではなく、与えられたこと、決められたことを間違いなく処理するための組織、何かを守るための組織になっていたのだ。
 著者は、数多くの官庁、民間企業、研究機関を訪れる中であることに気づく。それは、官民を問わず、日本の組織がどれも驚くほどそっくりなことだ、と言う。
 前例のないことや新しい試み、リスクのあることを極端に嫌い、失敗を許さない風土。稟議システムや何も決めない会議など、コミュニケーションの膨大なムダと仕事のルーティン化によって、組織の硬直化が進んでいるとの指摘である。
 本来、日本人はチーム好きのはずだ。男女のサッカー日本代表など素晴らしいチームが存在する。ところが、日本全体を見渡すと、チームの姿が見えなくなってしまう。目につくのは伝統的な組織だけだ。立派な組織がたくさんあるが、しかし、それらは単なる「グループ」であって「チーム」ではないのだと著者は言う。
 いまの日本にあるのは、同質な人の集団であるグループばかりで、異質な才能が、ある目的の下に集まって構成されるチームがないことが問題なのだ、と言うのだ。
 グループは、あらかじめ決められた目標を遂行するために集められる。これに対し、チームでは互いに助け合い、補い合うことで目標が達成されることをメンバーが理解している。メンバーは仕事をさせられているというのではなく、自分が主体的にやろうというオーナーシップを持っている。自由に意見を言い合い、衝突することを怖れないばかりか、むしろアイデアが生まれるチャンスと見る。

 では、その日本が抱える問題解決のためにどうすればよいのか、チームを作るためにどうすればよいのか、ということについては本書を読んでいただきたいのだが、何よりも重要なのが、補完的なスキルを持った異質な人材でチームを構成すること、とりわけ女性の登用が重要であるという点は傾聴に値する。
 たとえば、技術はあるが、資金も人員も限られているベンチャー企業では、内外の人とコミュニケーションできる能力がなにより大切であるが、その能力を持った人を探そうとすると、つまり女性になるというのだ。
 
 もう一つ、チーム作りにとって必ずしも天才的な人材は必要ないということも重要な視点だろう。
 日本のソフト製品が、一人の天才プログラマーによって8、9割書かれているのに比べ、アメリカでは平均的な力量のプログラマーが5、6人でチームを組んでプログラムしているという。誰かが一人欠けても、この交代要員はすぐに手配できる。チームになっていない日本のやり方では、天才が抜けると仕事が止まってしまう。

 要は、「チーム」の文化をいかに作り、根付かせるかということがわが国の抱える根本問題の解決に求められる大きなポイントなのである。
 それはあらゆる組織の問題にあてはまる。行政や企業、NPOに限らず、家族や地域社会など小単位の組織の課題解決のためにも、本書は大切な示唆を与えてくれるようだ。


ミレニアム2・3

2012-09-19 | 読書
 スティーグ・ラーソンの「ミレニアム三部作」の第2部「火と戯れる女」、第3部「眠れる女と狂卓の騎士」を続けて読んだ。
 2か月ほど前にこのブログにノートした第1部「ドラゴン・タトゥーの女」に引き続き、すっかりその魅力の虜になってしまった。三部作を合わせれば文庫版で3000ページに及ぶこの作品をそれこそ寝る間を惜しむように通読した。今の自分にこれほど読書に費やすエネルギーが残っていたというのは嬉しい発見でもある。
 すでに単行本として刊行されてから3年以上も経っている作品であり、多くの書評や感想、様々な関連情報がネット上で紹介されているので、いまさら私などがあれこれと言うべきことはないのだが、その最大の魅力が一方の主人公である調査員リスベット・サランデルの造形にあることは間違いない。
 小説全体が彼女の生い立ちやそれに起因する行動原理、発達障害の要素もうかがえるようなその複雑な性格によって動かされていく。読み手は主として語り手に位置づけられる主人公ミカエル・ブルムクヴィストの視点から彼女を見つめることになるのだが、ミカエルもまたそうであるように、リスベットのことが気にかかって仕方がない。読み進むにしたがって次第にその魅力に抗しきれなくなっていくのである。

 三部作は一貫したテーマ性と共通する登場人物によってつながっているのだが、読んだ印象は不思議なほどに多彩でさまざまな要素に充ちて飽きることがない。いわく、緻密に構築された孤島ミステリーであり、警察小説の要素もあり、ジョン・ル・カレばりのスパイ小説の味わいも濃厚にあるかと思えば、女性への暴力や残虐な行為を暴く社会派ミステリーの顔もあり、裁判所を舞台にした痛快なリーガル・ミステリーの醍醐味もある。
 それらに加えて恋愛小説の味付けが下地としてしっかりとあるというのが私の感想である。それもミカエルを中心とした源氏物語的愛憎=もののあわれが本作の隠れた魅力なのではないだろうか、と思えるのだ。
 光源氏ほどの美男子ではもちろんないのだが、どうしてと不思議でならないように思えるほどミカエルはよくもてる。彼を愛してしまった女たちは、源氏の女たちのようにどこか不幸で嫉妬に苦しみもするのだが、反面、彼女たちは女戦士として目を瞠るような活躍をする。「ミレニアム」は戦う女たちの物語でもあるのだ。

 リスベットは彼女を憎む男たちの策謀によって窮地に追い込まれるが、自分自身がそうしたミカエルを中心とした愛憎の輪の中に入ることを断固拒絶してそこから徹底的に離れようとする。そうしたリスベットを何とか救い出すために能天気なミカエルは手を尽くすのだが、そうした感情の綾の複雑に絡み合った起伏がまた一方の本作の魅力になっていることは間違いないだろう。
 いわく言いがたい事情があって、この本を読んでいるときの私はいささか辛い精神状態にあったのだが、この小説を読むことで救われた思いのすることがたびたびあった。その意味でも忘れがたい作品である。
 
 小説を読み終わった余韻も冷めやらぬなか、DVDになっている本作のスウェーデンでの映画化作品を2本借りてきて観たのだが、正直言ってがっかりしてしまった。
 小説のような丁寧で深みのある人物造型は望むべくもないと分かってはいても、薄っぺらで映像的にも発見のないとしか思えないものだったのだ。
 おかげですっかり後味の悪い始末になってしまった。仕方がないので、もう一度小説を読み返すことにしようかとも思うのだが……。

何もかも憂鬱な夜に

2012-08-05 | 読書
 中村文則著「何もかも憂鬱な夜に」(集英社文庫)は心に染み入る小説である。ごく最近になってこの本を読んだ私にとっても、文庫本の解説でピースの又吉直樹が言っているように、「この小説は特別な作品になった」と思える。

 刑務官の主人公は、強姦目的で押し入った家で妻とその夫を刺殺した二十歳の未決囚・山井を担当している。一週間後に迫った控訴期限が切れてしまえば死刑が確定するが、山井は何も語ろうとしない。どこか自分自身に似た山井と接する中で、主人公の「僕」が抱える混沌、自殺した友人の記憶、子供時代に同じ施設で育った恵子との交渉、人生のかけがえのない指針を示してくれた施設長とのやりとりが明滅するかのように描き出される。

 この小説は人生の闇と不可解、絶望とやりきれなさ、不条理を描きながら、だからこそ必要とされる「芸術」の力を訴えかけてくる。
 と、ここまで紹介すれば、あとは何もいうことはないという気がするし、何か言ったところでこの小説の素晴らしさは伝わらないだろう。小説はただ読むためにある。出来うるものならば全編を引用してそれでよしとしたいくらいだが、そんなわけにもいかないので、心にしみた言葉のいくつかを紹介しておくことにしよう。
 施設長は子供だった主人公にこんなふうに語りかけたのだ。……

 「お前は、何もわからん」
 彼はそう言うと、なぜか笑みを浮かべながら椅子に座った。
 「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」
(中略)
 「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」
 (中略)
 「お前は、まだ知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」
 僕は、しかし納得がいかなかった。
 「でもそれは……、施設長の好みじゃないか」
 「お前は本当にわかってない」
 あの人はそう言い、なぜか嬉しそうだった。……

 ……「自分の好みや狭い了見で、作品を簡単に判断するな」とあの人は僕によく言った。「自分の判断で物語をくくるのではなく、自分の了見を、物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないと、お前の枠が広がらない」……

 「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」あの人は、僕達によくそう言った。「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」

 小説の最後、控訴した山井は拘置所から主人公に宛てて手紙を書く。……

 ……あなたにもらった本を、少しずつ、読んでいます。昔の作家や、現代の作家のがあると、主任が言っていた。「ハムレット」を読んだけど、むずかしくて、わからないところもあるが、主任が説明してくれるので、もう一回、読んでみる。だけど、ぼくは人を殺した男で、そのような人間が、本を読んでいいのかと思うことがある。こういう夜を、本を読んですごしていいのかと思うと、今すぐ死にたいと、そういう気もちになる。でも、どのような人間でも、芸術にふれる権利はあると、主任が言ってくれた。芸術作品は、それがどんな悪人であろうと、全ての人間にたいしてひらかれていると。
 この前、主任と看守部長がとくべつに、CDを聞かせてくれた。あなたが用意したものだと、言っていた。ぼくは、それを聞きながら、動くことができなくなった。バッハという人の、『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。すばらしいものがあるといったあなたのことばの意味が、わかったような気がした。いろいろな人間の人生の後ろで、この曲はいつも流れているような、そんな感じがする。……

文楽とイノベーション

2012-08-04 | 読書
 「『超』入門 失敗の本質~日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ」(鈴木博毅著:ダイヤモンド社)は、ビジネス戦略・組織論のコンサルタントである著者が、名著「失敗の本質~日本軍の組織論的研究」をビジネスに活かせるのではないかと考え、ポイントをダイジェストにまとめ、忙しいビジネスパーソンが仕事に役立てられるような視点を提示したビジネス書である。
 この本が長らくベストセラーランキングのトップ10に名を連ねているのも頷けるような読みやすさと面白さではあるのだが、このことは、70年前の日本軍が抱えていた多くの問題や組織の病根と、現代の私たちが直面している新たな問題に、誰もが「隠れた共通の構造」があるとうすうす感じていたことの証左なのかも知れない。

 それはさておき、その中に「イノベーションを創造する3ステップ」というものが紹介されている。すなわち、
 ステップ1:戦場の勝敗を支配している「既存の指標」を発見する
 ステップ2:敵が使いこなしている指標を「無効化」する
 ステップ3:支配的だった指標を凌駕する「新たな指標」で戦う

 であるが、これらは日本陸軍においても堀栄三参謀のような優れた人材によって戦法として活用され、パラオ諸島のペリュリュー島における持久抗戦をはじめ、硫黄島、沖縄戦にまで活かされている。
 一方、米軍においてはそうした日本の編み出した指標を無効化し、凌駕する新たな戦法やレーダーなどの導入によって戦いを有利に導いていった。
 著者は、こうした事例を紹介したうえで、この「イノベーションを創造する3ステップ」は、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズが生涯を通じて行い続けたビジネス上の変革にぴたりと一致する、という。
 併せて、世界市場で苦境に陥っている日本の主要家電メーカーの現状について、日本メーカーの閉塞感は、指標を差し替える意味でのイノベーションを忘れ、かつて自らが成功を収めた要因を誤解していることで生まれているのではないか、と分析する。
 同じ指標を追いかけるだけではいつか敗北する。家電の「単純な高性能・高価格」はすでに世界市場の有効指標ではなくなった、というのだ。

 さて、ここで私が思い浮かべたのが例の橋本大阪市長による「文楽」の補助金全面凍結問題である。
 凍結見直しの条件として、橋本市長は、技芸員との公開討論を要求、しかもそれは、技芸員の収入格差の是正、協会がマネジメント会社のように公演のマージンをとる仕組みに変える、という2条件とセットなのだという。文楽協会がすぐには無理だと断ると、橋本市長は激怒した。

 どちらの言い分に理があるかどうかは別にして、橋本市長の戦略を先のイノベーション創造の3ステップに当て嵌めれば、市長は、文楽側がいう所の伝統やならわしを「特権意識」と両断したばかりか、文楽の舞台そのものを「つまらない」と言い放った。
 これはまさに文楽側の「既存の指標」を無効化するとともに、組織改革という「新たな指標」を提示し、これを公開討論の場に引きずり出すことによって自らの理を一般市民の前で主張しようという高度な戦法であると言えるのだろう。

 これに対し、作家の瀬戸内寂聴氏は「橋本さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから」と言っているが、どうやらそんな意見に耳を傾ける市長ではなさそうだ。
 そればかりか、先月26日に国立文楽劇場で「曽根崎心中」を鑑賞後、記者団に対し、「古典として守るべき芸だということは分かったが、ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」と苦言を呈し、ファン開拓のため脚本や演出を現代風にアレンジするなどの工夫を求めた、という。

 これをどう考えるか。
 私としては、これまでの論点が文楽協会の組織のあり方についてであり、それは改善の余地があるだろうと思わないでもなかったし、新たな指標の提示という点で理解できないことでもなかったのだが、市長の批判の矛先が舞台や表現そのものに向かったことで、これはもしかしたら危険水域に入り込んだのではないかと感じている。
 補助金凍結という権力を握る為政者が、文化芸術の演出や表現に口を出すことは十分な配慮の上に行われなければならないことだろう。
 それが行き過ぎれば、時の権力者の好みによってシェイクスピアや近松門左衛門の台本を自由に書き換えさせるということにもつながりかねない。
 次第に市長の顔が、芸術好きだという北の将軍様だか元帥様と被さって見えてくるようだ。

Think Simple

2012-07-22 | 読書
 伝えるべきことをそのままに、真っ直ぐ伝えることは難しい。とても。
 情報はたいてい言葉を介して伝えられるのだが、言葉が全ての情報を包含しているとは限らない。それどころか余計な情報すら紛れ込ませて、受け取る側の判断を混乱させ、誤らせることすら度々である。
 もっとも伝えるべきこと、伝えたいことが「情報」に限るわけではない。伝達手段において、言葉以外の要素が大きな効果を発揮することは往々にしてある。
 先日、ある故人を偲ぶ会に出席してご遺族のご挨拶の言葉を聞きながら深い感銘を受けた。その言葉が歴史に残るような名言名句に彩られていたわけでは決してない。むしろ、言葉少なに、素朴な気持ちを語りかけたというふうだったのだが、今は亡き人を思う感情に溢れ、その思いは聴衆にストレートに伝わってきた。
 感情の強度が情報の総量を上回っていたのだ。

 大津中学校のいじめ問題に関する学校サイドや教育委員会の記者会見での言葉には、伝えるべき感情(真情といってもよい)が希薄で、しかも発信される情報が巧妙に隠微され粉飾されている、と思われるがゆえに信頼性は皆無と思えてしまう。
 政治家の言葉も同様で、政権与党を飛び出した一派が発する言葉はあたかも国民に寄り添うかのように振舞いながら、発信する情報の中身は空疎で、結局次の選挙目当てなのじゃないのと思われてしまうほどに振る舞いのあざとさばかりが目に付いてしまう。
 原発反対デモに前の前の首相が顔を出して声を発したそうなのだが、同じ「原発反対」という言葉でも、集会に参加した大半の人々とこの元首相の思い描く言葉とは大きな違いがあるのではないだろうか。
 そもそもこの元首相たる人物の言葉にどれほど多くの人が信頼を持ちえているのかは不明だが、それでもこの方の登場に集会では一部の人々から大歓声が上がったというのだからワケガワカラナイというしかない。有象無象の人々がたくさん集まって一時の感情が盛り上がった時の風向きにはよくよく注意しなければならないということの証左ではないだろうか。

 さて、最近思うのは、組織における言葉や情報とそれを取り巻く感情のありようについてである。
 この「感情」というものが実に厄介至極なのである。
 感情は論理ではなく偏光プリズムのようなものだから、たとえ論理的に正しいことであってもその光の方向を偏らせたり、遮断したりもする。それどころか思いもかけない光彩を生み出して染め上げることさえあり得るかも知れないのだ。

 演劇の製作現場はもっともシンプルなあらゆる組織の雛形といってもよいかも知れないが、そこでは演出家や芸術監督が自分のビジョンを俳優やスタッフに理解させ、意図に沿った舞台成果を実現するために千万言を費やし、挙句の果ては怒鳴りまくったり、おどしたり、おだてたり、すかしたり、なだめたり、口説いたり、泣き叫んだり、最後には灰皿を投げたりとあらゆる手立て、手練手管を尽くそうとする。
 ことほどさように言葉で誰かの頭の中に「ある」と思われる考えやらアイデアを他人に伝えることは困難なことなのだ。
 まして、舞台製作という小さな現場以上に複雑で資金や思惑の入り乱れる現実社会の組織における意志伝達は、恐るべき難度の高さを持っているというしかない。
 結局のところ、私たち人間はあまりに余計なものを目にし、余分な考えや憶測や不確かな情報に足元を絡みとられ、その泥沼からなかなか抜け出すことが出来なくなっているのではないだろうか。

 広告のクリエイティブ・ディレクターとしてスティーブ・ジョブズと12年間をともにし、アップルの復活に大きな役割を果たしたケン・シーガルはその著作「Think Simple」のなかで、シンプルであること、明快であることの重要性を語っている。
 「・・・・・・アップルと働いているときには、自分が今どこに立っていて、何が目標で、いつまでにする必要があるかがはっきりとわかる。どういう結果が失敗を意味するかもわかる。」
 「明快さは組織を前進させる。たまに明快なのではなく、24時間いつでもどこでも明快でなければならない。(中略)ほとんどの人は自分のいる組織に明快さが欠けていることに気づかないが、その行動の90%はそうなのだ。」
 「スティーブは自分が実行している率直なコミュニケーションを他人にも求めた。もってまわった言い方をする人間にはがまんできなかった。要領を得ない話は中断させた。」
 「おそらくこれは、もっとも実践しやすいシンプルさの一要素だろう。とにかく正直になり、出し渋らないことだ。一緒に働く人にも同じことを求めよう。」
 「他人に対して率直になることは、薄情な人間になることではない。人を操ることに長けたり、意地悪になったりすることを求めてもいない。自分のチームに最高の結果をもたらすために、ただ言うべきことを言うことなのだ。」

 多くの組織では、トップの言葉に取り巻きが無用の忖度を加え、飾り立てるがゆえに、あるいはトップ自身の意思が不明確で受け手によっていかようにも解釈可能であるがゆえに、あるいは情報が共有化されず不確かなまま輻輳してより複雑化するがゆえに、実に多大な労力が非生産的な時間として空費される。
 そのための処方箋は実にシンプルなはずだが、実行は困難だ。
 それゆえにスティーブ・ジョブズは偉大なのである。少しばかり付き合いにくいところのある人物であったとしても。
 「残酷なまでに正直なことと、たんなる残酷なことはまったく違う」のだ。

楽園のカンヴァス

2012-07-07 | 読書
 原田マハの山本周五郎賞受賞作「楽園のカンヴァス」を読んだ。
 アンリ・ルソーの最晩年の作品「夢」と、それに酷似した作品の真贋をめぐって繰り広げられる美術ミステリーである。折しも本作は直木賞候補作に名を連ねたとの報道があったばかり。ネタバレに留意しながらメモしておこう。

 故郷の岡山・倉敷にある美術館で監視員をしている早川織絵だが、実はかつては天才的な視点で次々と論文を発表し、国際美術史学会で注目を集めた研究者だった。
 その彼女に、某新聞社の文化事業部長らから声がかかる。その新聞社が国内の美術館と組んで開催する大規模なルソー展にニューヨーク近代美術館所蔵の「夢」を招聘する交渉の中で、先方の学芸部長ティム・ブラウンから、織絵が日本側の交渉窓口になるなら貸し出してもよいとの条件が示されたというのだ。
 と、そこから話は17年前のティムと織絵との出会いに遡っていく……。

 17年前の1983年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のアシスタント・キュレーター、ティム・ブラウンにあるコレクターの代理人から一通の手紙が届く。素朴派の画家アンリ・ルソーの名作を所有している、それを調査してほしいとの依頼だった。スイスの大邸宅に向かったティムは、そこでありえない絵を目にする。MoMAが所蔵するアンリ・ルソーの大作「夢」とほぼ同じ構図、同じタッチの絵がそこにはあったのだ。持ち主の大富豪は、真贋を正しく判断した者にこの作品の取り扱い権利を譲渡すると宣言する。
 ヒントとなる古書を渡されたティムと、鑑定のライバル、日本人研究者の早川織絵。ふたりの研究者に与えられたリミットは7日間。この絵は贋作か、それとも真作なのか?
 伝説のコレクター、美術館職員、オークション会社からインターポールまで、さまざまな思惑の交錯するなか、その作品の謎を追って、小説の舞台は倉敷、ニューヨーク、バーゼル、パリをめぐる……。

 とまあ、概要はこんなストーリーである。ミステリー仕立ての小説ではあるのだが、おそらく作者は本格ミステリーを書くことが目的だったわけではないように思われる。
 ミステリーの形式を借りながら、そこで描きたかったのは、アートへの熱い思いであり、芸術家の才能がいかに生まれ、見出されていくのかといった奇跡の物語なのではないか、と感じるのだ。
 いささかおとぎ話めいたルソーと彼を取り巻く当時のパリに集まった綺羅星のような芸術家たちの交流、ルソーの美のミューズとなる洗濯女ヤドヴィガとの出会い、そして何よりルソーの才能をいち早く見抜いた天才、パブロ・ピカソの炯眼と友情。
 さらには貧窮と苦悩のなかから生み出された芸術作品を愛してやまない人々の姿。
 そうしたもののすべてが作者の描きたかったものなのだろう。
 作者自身、森美術館の開設準備に携わったり、MoMAでの勤務経験を持ち、フリーのキュレーターとしての豊富なキャリアを持っており、そうした中で育まれたアートへの愛が深くこめられた小説なのだ。
 ヤドヴィガへのルソーの一途な思いに同情し、ピカソの姿に心躍らせられながら、何より、ティム・ブラウンと織絵の二人の主人公のルソーの作品への思いとともに深まりゆくお互い同士の愛の行方に心が熱くなる。
 それはこんな文章に表れているだろう。以下、引用。

 「このさき、自分をどんな運命が待ち受けていても、どんな立場になっても。アートに寄り添って生きる、自分の決心は変わらない。」
 「君の人生が、豊かであるように。いつまでも、アートに寄り添う人生であるように。そして、いつかまた、会えるように――。」
 「生きてる。/絵が、生きている。/そのひと言が真理だった。この百年のあいだ、モダン・アートを見出し、モダン・アートに魅せられた幾千、幾万の人々の胸に宿ったひと言だったのだ。」

 最終章のこれらのくだりからは読みながら胸がいっぱいになってしまった。
 最近、私自身がアートから見放されたように感じていたからだろうか……。
 ラストシーンの心地よい余韻が心を打つ。ミステリーの形式によるアートを介した恋愛小説の佳品である。



ミレニアム

2012-07-03 | 読書
 スティーグ・ラーソン著「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」を読んだ。
 2005年にスウェーデンで刊行、日本でも3年ほど前に発売されて評判になり、本国で映画化された作品も世界中でヒットしたばかりかハリウッド版のリメイク作品も主演女優が米アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされるなど話題になって久しくすでにDVD化されているのだから何を今さらと笑われることは百も承知で言うのだけれど、いやあ面白かったなあ。
 文庫本の帯にあるような読者の「面白すぎて徹夜してしまった」「どうしても読むのがやめられない」という言葉もウソではないと素直に納得するほど夢中になってしまった。こんなに集中して頭がフラフラになるほどのめり込んで読書するのは最近では滅多にないことなのだ。
 ついでにスウェーデン版の映画もDVDで観て堪能してしまった。

 本作は、ジャーナリストであったラーソンがパートナーの女性エヴァ・ガブリエルソンと執筆した処女小説にして絶筆作品であり、ラーソンは第1部の発売もシリーズの成功も見ることなく2004年に心筋梗塞で急死した、ということも伝説を象る大きな要素となっている。
 シリーズ全篇を通して女性への偏見・軽蔑・暴力がテーマとなっているが、そればかりではない社会的スケールの大きさがある。それでいて読者の興味と集中力を一刻も逸らさないこの求心力は一体何によるものなのか。

 物語は雑誌「ミレニアム」の編集者ミカエル・ブルムクヴィストの視点を中心に描かれるが、もう一人の主人公、身長154cmのまるで少年と見紛うような、無表情の、背中にドラゴンのタトゥーを背負った天才ハッカー、女調査員リスベット・サランデルの抗しがたい魅力は読む者の心を捉えて離さない。
 映画は3時間、映画館では興行上の都合からぐっと短縮されているから、上下巻900ページに及ぶ原作のいくばくかは省略やほのめかし、大胆なカットによって改編せざるを得ない。そのどこをどうやって料理したかも監督の腕の見せどころなのだろう。
 ミカエルの放縦ともいえるセックスライフがお行儀のよいものになっていたのはまあ仕方ないとして、ラスト近くで描かれていたリスベットのミカエルへのほのかな恋の芽生えや切ない思いが、跡形もなく消えていたのは残念としか言いようがない。

 さて、本作にはもう一つ経済小説という側面も隠し味としてあって、構想の大きさを感じさせる要素になっている。
 少しばかりラスト近い場面から引用する。
 最後、ミカエルは宿敵となった実業家の不正を暴き勝利を収めるが、その結果、ストックホルム市場で株価が急落し、窓から身を投げるしかないという若い投資家が続出する。そうしたスウェーデン経済の破綻に「ミレニアム」はどう責任を取るのかとマスコミの取材者に問い詰められた場面でのミカエルの対応だ。
 スウェーデン経済が破綻しつつあるというのはナンセンス、と彼は即座に切り返す。
 「スウェーデン経済とスウェーデンの株式市場を混同してはいけません。スウェーデン経済とは、この国で日々生産されている商品とサービスの総量です。それはエリクソンの携帯電話であり、ボルボの自動車であり、スカン社の鶏肉であり、キルナとシェーヴデを結ぶ交通です。これこそがスウェーデン経済であって、その活力は一週間前から何も変わっていません。」
 「株式市場はこれとはまったく別物です。そこには経済もなければ、商品やサービスの生産もない。あるのは幻想だけです。企業の価値を時々刻々、十億単位で勝手に決めつけているだけなんです。現実ともスウェーデン経済とも何のかかわりもありません。」

 カッコいいなあ……。
 日本の小説の主人公がこんなセリフを口に出来るだろうか。わが国の産業について、私たちはこれほどの矜持を持って熱く語ることが出来るだろうか。
 問題は、グローバル化や空洞化の進展するなかで企業家たちが誇りも何もかなぐり捨てたかのように生き残りだけを自己目的化したかと思える事業戦略の中で、産業そのものがこの国から失われつつあるのではないかとの疑念を拭いきれないことである。そんな国で若者はどんな夢を見ればよいのか。
 ミステリーの面白さに現実を忘れたその後のふとした時間にそんな思いが忍び寄る……。


共喰い

2012-03-10 | 読書
 田中慎弥著「共喰い」(集英社)を読んだ。
 芥川賞発表時の発言が妙にクローズアップされ、予期せぬ話題を呼んだ著者であるが、この小説がベストセラーランキングの上位に位置しているのは喜ばしいことだと思う。素直によい小説だと感じるのだ。
 この作家の文章からは身体から発するリズムや息遣いが伝わってくる。血の匂いのするセックスシーンや父子の確執、暴力、殺人など道具立てはおどろおどろしいものの読後感にある種の爽やかさを感じるのはこの作家の得がたい資質かも知れない。
 思いのほか無垢で真っ直ぐな人柄なのだ、きっと。(笑)

 さて、この文章の心地よいリズムはおそらく手書きの文章であることと関係があるのではないだろうか、というのが私の読後の第一印象である。
 池澤夏樹氏が「スティルライフ」で芥川賞を受賞したのは1988年、昭和の終わりのことでもう四半世紀も昔のことだが、その時、池澤氏が手書きではなく最初からワープロを使って執筆したということが話題になっていたと記憶している。
 (これは偶然だけれど、「共喰い」の時代背景はちょうどその頃と重なっている。作者自身が小説の主人公と同じ年齢であった頃のことだ。)
 今はすでにパソコンで執筆するということがごく当たり前のようになった時代だが、そうした執筆の「道具」が文章そのものに及ぼす影響についてはこれまでも様々に論議されてきた。文体への影響とか、文章の長さや執筆速度など、それは確かに微妙な違いとなって表れているのに相違ない。
 私自身は自分の書いた文字のまずさ加減にすぐ嫌気がさして手書きでは長く書き続けることができないのだけれど、基本的に作家が深夜一人でノートや原稿用紙にコリコリとペンで刻むように一字一字を書きつけていくという姿にはシンパシーを抱いていた。
 田中慎弥の文章には、そうした文字を刻むリズム、肉体労働としての手書きによる文字が文章になり、それが次の文章を生みながら描写へとつながっていく独自のリズムが心地よいのだと思える。

 この本に収録されているもう一つの作品「第三紀層の魚」もまた現代版「十六歳の日記」を思わせるような瑞々しい小説だ。川端康成のように醒めた透徹するような眼差しではなく、これから自分が歩み出そうとする<新しい世界=社会>への恐れを内包した無垢なるものの眼差しに満ちている。

読めない小説/解らない演劇

2012-02-13 | 読書
 この度の芥川賞受賞作が何かと話題になっているのは、不機嫌眼鏡こと田中慎弥氏と都知事の場外バトル(もちろんこれは話題を煽ったマスコミの過剰演出)が功を奏したためもあるけれど、もう一人の地味で知的な円城塔氏の作品の分からなさがあるインパクトを持っているためだろう。
 その「道化師の蝶」に関連して文芸批評家・市川真人氏が2月8日付け毎日新聞夕刊に寄稿している。
 いわく、「一般に信じられている『小説』のイメージとは少なからず違い、わかりやすく要約すること自体を拒絶する同作は、『読むことのできないものについて考える』『理解できないことについて思考する』という、“体験”そのものであるような小説である」とのことだ。
 さらに市川氏は「芥川・直木賞が社会的影響を持つのは、「興味はあるが普段は読む機会や時間のない」ひとたちが、限られた余暇のなかで年に2回、小説に触れる契機として両賞を信じてくれているからである。そこに『読めない小説』を届けることは、彼らに『自分たちはもう“現代”の文学などわからぬ』と感じさせてしまう危険を伴わずにはいまい」と言う。

 この文章を読みながら、私は思わず演劇や舞台芸術におけるフェスティバルの役割など、さまざまなことを連想してしまった・・・・・・。
 あるフェスティバルは海外の作品も含め、極めて先鋭的な、既成概念を覆すような作品作りによって新たな認識の世界を観客に提示し、体験させることを目的としている。
 しかしながら、既成概念を超えているということは、既成の価値観や演劇観でしか舞台を観ることのできない、あるいは観ようとしない人々にとって、それらの作品は自分たちの概念を否定する極めて不愉快な、あるいは解らない、観るに値しないものとしか映らないだろう。
 さらに言えば、初めて演劇なるものを観るために「劇場」に足を運んだウブな観客にとっては、それこそ「自分たちにはもう“演劇”などわからない」と感じさせてしまうことにもなりかねないのである。

 もちろんそんなことを本気で心配しているわけではない。私たちは観客の目というものを信頼する必要があるのだろう。
 たとえ1000人の人がそっぽを向いたとしても、1人の観客がその作品の力を体験し、深く感得したとすれば、それはやがて世界を変える力を持つかも知れないからだ。
 何より、真摯に作品に向き合おうとするほどの観客、読者であるならば、たとえ表面的な理解は及ばなくとも、心の深いところでその美しさや意味を感じ取っているはずなのである。
 ただ、それを言葉にする方法を見つけられないだけなのだ。
 フェスティバルがある種の批評やキュレーションを伴わずには成立しないものである以上、そうした観客の漠とした想いや体験に言葉という輪郭を与えることをも役割としてフェスティバルは担うものなのではないか。
 それは単なる普及や啓蒙などではない。もっともっと多様で面白く雑多な批評というものの試みが、さまざまなレベルでさらに活発化されることを望みたい。


師弟

2011-08-13 | 読書
 三浦哲郎著「師・井伏鱒二の思い出」(新潮社版)を読んだ。
 これは筑摩書房版「井伏鱒二全集」の月報に16回に亘って掲載されたエッセイをまとめたもので、昨年の12月、著者の没後に刊行された。
 三浦哲郎は学生のときに同人雑誌「非情」に「遺書について」という作品を書き、それを読んだ井伏鱒二が興味をもったことから面識を得た。
 
 「君、今度いいものを書いたね」
 先生との出会いはその言葉から始まった。
 ・・・・・・と本の帯にあるように、井伏はのっけからまだ若い三浦哲郎の作品について熱く語ったようだ。
 「近頃、僕はどういうものか書くものに身が入らなくてね、困ってたんだが、君のあれを読んだら、また書けそうな気がしてきたよ。死ぬことがこわいんじゃなくて、死の呆気なさがこわいんだと君は書いてるね。僕は、あの一行に羨望を感じたな。」

 二人の師弟関係はこうして始まったのである。
 本書には、著者が芥川賞を受賞した昭和36年から平成2年に至る折々の二人の写真が何枚か掲載されていて、その交流の軌跡を偲ばせる。
 その師弟としての在りようについては、解説の荒川洋治の文章が素晴らしく、全部を引用したくなるくらいだが、それにしてもその関係は羨ましい。
 私自身は、ひねくれた性格のせいか、父親のない環境で育ったせいか、年長の男性に一定の距離を置いてしか接することができず、指導者といわれる人に対してもまずは斜に構えて反発してしまうという困った青春期を過ごしてきたから、こうした師弟関係を心の奥底では求めながらもあえて否定してきたような気がする。
 それゆえにこそ、本書に描かれたふたりの関係にはそれこそ「羨望」を覚えてしまうのだ。これらの文章を読むことで、叶わなかった師弟関係というものの疑似体験をしているようにも思うのだけれど。

 さて、井伏鱒二といえば、太宰治との師弟関係がよく知られている。
 ここでは、太宰について師・井伏鱒二が語ったくだりを引用しておきたい。

 ――「太宰はよかったなあ。」と先生は、暗くなった庭へ目をしばたたきながらいわれる。
 「ちょうど今時刻、縁側から今晩はぁとやってくるんだ。竹を割ったような気持ちいい性格でね。・・・・・・生きてりゃよかったのに・・・・・・。」
 太宰さんの思い出を語られる先生のお言葉一つ一つに、深い愛情が感じられて心を打たれた。――

 ――先生の座談はまことに面白かったが、私はただうっとりと聞き惚れていたばかりもいられなかった。その座談のところどころに、たとえば、
 「毎日、すこしずつでも書いてるといいね。太宰なんか、元日にも書いてたな。」
 というような、貴重な呟きがさりげなく織り込まれていて、私は一語も聞き洩らすまいと耳をそばだてていなければならなかった。――

 誰かが誰かに何かを伝えていく、そのやさしい心遣いやまなざしに満ちた素晴らしい瞬間を感じさせてくれる一冊。

下町ロケット

2011-08-09 | 読書
 池井戸潤著「下町ロケット」を読んだ。ご存知、第145回直木賞受賞作である。
 最近の私は何を見ても読んでも身が入らず、映画もアートも芝居も読書ももうどうでもよいような、骨の髄まで怠惰が身についたような生活を送っている体たらくなのだが、この本を手にして、久々に頁を繰るのももどかしいような、一気に400頁を読み切るという疾走感を味わうことができた。
 その読後感はこのうえない爽快感とやる気に満たされる。
 まさにエンターテインメント小説かくあるべしの見本のような小説で、先の展開が読めてしまうといえばそれまでだが、それがまたとてつもなく気持ちよいのだ。水戸黄門だって、遠山の金さんだって、憎まれ役はこのうえなく悪辣であり、主人公たちはこれでもかとばかりに窮地に追いやられる。そうであればこそ、最後の大どんでん返しに私たちはこのうえなく溜飲を下げるのではないか。

 おおよそのあらすじは以下のとおり。(一部、小学館のHPから引用加筆。陳謝&ネタばれ注意)

 「主人公・佃航平は宇宙工学研究の道をあきらめざるを得なかった過去を持つ。東京・大田区にある実家の佃製作所を継いでいたが、同じ研究者だった妻とは生き方の違いから離婚し、引き取った娘からは敬遠されるような日々の暮らしを送っている。そこへ大口の取引先から突然取引停止の通告を受け、さらに大手のナカシマ工業からは特許侵害の疑いで訴えられる。大企業に翻弄され、資金繰りも危うくなって、会社は倒産の危機に瀕してしまう。ナカシマ工業は、そうして佃製作所を兵糧攻めにしながら、最後には佃らの技術もろとも会社を乗っ取り、自分たちのものにしようと目論んでいたのだ。そうしたなか、馴れない法廷闘争で窮地に陥った佃を救ったのは、別れた妻からの何気ないアドバイスだった。妻から紹介された、知財関係では国内トップの凄腕という弁護士・神谷の力もあって、法廷闘争は思わぬ展開に……。」

 と、ここまでが前半の山場なのだが、これだけでも十分に読み応えがある。さだめし米国の作家ジョン・グリシャムあたりだったら、上下2巻ものの長編小説に仕立てたに違いないような内容だ。
 以下、2段ロケットの噴射よろしく後半へとなだれ込んでいく。

 「一方、政府から大型ロケットの製造開発を委託されていた帝国重工では、百億円を投じて新型水素エンジンを開発。しかし、世界最先端の技術だと自負していたバルブシステムは、すでに佃製作所により特許が出願されていた。これは、神谷弁護士のアドバイスが功を奏したものだった。
 宇宙開発グループ部長の財前道生は、佃製作所の経営状況を見定めながら、特許を20億円で譲ってほしいと申し出る。資金繰りが苦しい佃製作所だったが、企業としての根幹にかかわるとこの申し出を断り、逆にエンジンそのものを供給させてくれないかと申し出る。
 帝国重工では下町の名も知れぬ中小企業の強気な姿勢に困惑と憤りを隠せなかったが、結局、佃製作所の企業調査を行い、その結果で供給を受けるかどうか判断するということになった。
 一方、佃製作所内部でも、特に若手社員を中心に、特許を譲渡してその分を自分たちに還元してほしいという声や、佃社長の夢を追うという独断的な姿勢に対する不満の声が高まり、あわや組織分裂の危機に瀕する状況に陥りつつあった。
 そうした中、企業調査がスタートする。厳しく冷徹な目を向け、上から目線で見下した態度をとる帝国重工社員に対し、佃製作所の若手社員も日本のものづくりを担ってきた町工場のプライドから意地を見せはじめ、その結束は大きな力となっていく……。」

 こうして見ると、この小説にはドラマを劇的に盛り上げていくための法則がぎっしりと詰め込まれていることがよく分かる。

 「『ニッポンを元気に!!』ってこういうことです。」というのが、この本のキャッチコピーで、先日、神保町の地下鉄の駅を出たら、目の前の小学館ビルに大きな垂れ幕が下がっていて思わずニンマリしてしまったのだが、確かにこの小説には、そうしたメッセージが込められている。
 震災後のこの時期に読まれるべく選ばれた本なのだろう。
 企業の倫理とは何か、企業の目的とは何か、中小企業のプライドとは何か、ものづくりの誇りとは何か、働くことの意味とは何か、夢とは何か、そんなことを考えさせられる。
 おそらくは、かのドラッカー先生も絶賛したに違いない企業小説の傑作である。