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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

走れメロス / 約束と裏切り

2022-10-24 | 読書
教科書にも載って親しまれている太宰治の「走れメロス」は、暴虐邪知の王を糺そうとして囚われの身となったメロスが妹の婚礼に出るために友人セリヌンティウスを人質として故郷に帰ったのち、様々な困難を乗り越えて再び約束の刻限までに友人のもとに戻り、その二人の熱い友情は疑い深かった王の心をも変えてしまうという実に読後感のさわやかで感動的な物語である。

この物語を太宰はどのような心境のもとに書いたのだろうか。
それを計り知ることは難しいが、これを書くきっかけになったのではないかと言われている有名なエピソードが作家・檀一雄との間に起こった「熱海事件」である。
熱海で仕事をしている太宰を呼び戻すため夫人から預かった金を懐に檀一雄が逗留先の宿に向かうのだが、二人して遊興三昧で飲み続けスッカラカンとなってしまう。太宰は菊池寛のところに借金歎願に行くと言って壇を人質にして熱海をあとにするのだが、5日待っても、10日経っても音沙汰がない。
ノミ屋のオヤジに連れられて東京に向かい、太宰の師である井伏鱒二の家に行ったところが、太宰は井伏とのんびり将棋を指していた。
当然の如く壇は太宰に怒鳴ったのだが、この時、太宰は泣くような顔で暗く呟いたのだ。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

「約束」という言葉の裏にはいつも「裏切り」がつきまとっている。この世の中で約束が果たされることはまずないからなのだが、そう言い切ってしまうと身も蓋もないのが社会というものである。

また、「約束」には暗黙のうちに「期待」が込められているとも感じて知らず知らず重圧を感じたりもする。あなたとの約束が守られることを期待していますよ、と言わんばかりの相手の笑顔がいつか脅迫めいた面相に豹変するのを想像しては逃げ出したくなる。
まあそれはいささか病的に過ぎるとしても、「約束」にはどこかそうした押しつけがましさがあるように感じるのだ。

では、自分が相手の「約束」に「期待する側」だった場合はどうか。
この場合、期待が外れたからといって相手に失望してしまっては社会的な軋轢を生んでしまう。この場合、期待すること自体がともすると反社会的だということになりかねない。すべては勝手に期待したこちらのせいなのだから。

もっとも良いのは、相手の「約束」を単なる社交辞令と考えて真に受けないことだ。社交は社会生活を円滑に運ぶための技術(テクニック)だからである。

社会を円滑に動かすために、人や会社、組織は「契約」という約束を形にしたものを取り交わすのだが、それを担保するのが法律=社会的ルールであり、それに違反した場合には時に罰則が科せられ、社会的信用が失墜してそこに居場所はなくなることさえあり得る。
「契約」は「約束」を公的に確実なものとすることで社会を円滑に運ぶための技術(テクニック)なのである。

ところで、政治家の公約は公になされた約束であるはずだが、その約束が真っ当に果たされたという話は一向に聞こえてこない。
誰もが政治家の公約はただの口約束でしかないと達観してしまっているのだろうか。
一方、英国のトラス首相は党首選での公約を果たそうとして混乱を招き、辞任を余儀なくされた。トラス氏の口約束に期待して彼女を党首に選んだのは保守党員であり、彼ら皆の選択ミスというしかないのだが、思わぬ事態に結果責任を問われたのは当の本人である。トラスは期待を裏切ったというのだ。
このあたり、なかなか難しい判断である。そもそも公約など反故にすべきだったのだろうか。
約束事に政治がからむと話は途端にややこしくなってしまうようだ。

さて、こうした「約束」に「友情」が合わさり綯い交ぜになると話はもっとややこしくなる。
私にもかつてあった青春時代に、そんな約束がこじれて友情を損なった苦々しい経験が山ほどある。それをいやな思い出としていつまでも抱えておくのではなく、それを反転させて、「走れメロス」のようにさわやかで純粋な胸の熱くなるような物語に昇華することができたらよいのになあといつも感じている。

「走れメロス」について太宰治は次のように述べている。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります」


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