seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

遊びをせむとや生まれけむ

2023-11-07 | 日記
今年の夏は文字どおり記録破りの暑さで、気がついたら7月から9月いっぱいの3か月間、連日猛暑を記録したのだった。
その余熱のようなものが今も居座っているのか、すでに11月になり、明日は立冬で暦の上では冬だというのに、東京都心の今日の最高気温は27.5度を示し、実に100年ぶりの記録なのだという。

 「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」

これは松尾芭蕉の句で、秋になったのをそ知らぬ顔に、西日が赤く強く照りつけている意であり、残暑の心を詠んだものだそうだが、まさにここ数日の日射しは季節外れの強さで肌に突きささってくるように思える。



さて猛暑の3か月間、近所の公園からも、保育園の園庭からも子どもたちの遊びに興じる声がぱたっと途絶えてしまい寂しく思っていたのだが、10月に近くなってようやく走り回る子どもの姿を目にし、その歓声を耳にするようになった時はとても嬉しく感じたものだ。

こうした子どもの姿や声にはこちらの身体の奥底の情動に直接働きかける力があるようで、いつも思い出すのが、平安後期の今様歌謡を集めた「梁塵秘抄」のなかの有名なこの歌である。

  「遊びをせむとや生まれけむ
   戯れせむとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声聞けば
   我が身さへこそ揺るがるれ」

この歌の解釈には実は様々あるようなのだが、もっとも素直に読むならば、遊びにこそ人間本来の姿があるのであり、そうした遊びに興じる子どもの声を聞けばこの我が身もまた自然に突き動かされるようだということだろう。

子どもの本分は遊ぶことである。子どもたちには何ものにも邪魔されることなく、恐怖や貧困、病や飢えといった社会的状況から無縁に心ゆくまで楽しく遊ぶ権利があるのだ。そうした環境をつくり、子どもを守るのは大人たちに課せられた義務なのである。

子どもたちの声を聞きながら、青く澄んだ秋空を見上げていると、この空がどこまでも広がり、遠い国の困難な状況にある子どもたちの頭上の空と直につながっているということを思い知らされる。

その頭上を飛び交うのが無情なミサイルや空爆機などではなく、平和な鳥たちの姿へと変換する方法はないものだろうか。
無力を嘆くのではなく、何が出来るのかを考えたい。

家庭の幸福

2023-10-17 | 日記
前回、アンナ・カレーニナの冒頭に書かれた言葉から人々が思い描く「幸福な家庭像」についていささか脱線気味にお喋りしたのだけれど、最近の報道でもう一度このことを考え直す必要があるなあと思わされた。

それは某県議会の某党議員団が児童虐待禁止条例改正案を提出し、それが一旦は委員会で可決までされたのだが、その内容に対する世の中の反発は強く、提出会派の代表がこの改正案を撤回する仕儀となったのである。
その改正案の中身についてここでは触れないが、それが実際に子どもを持つ保護者にとっては子育ての現場から遊離した非現実的なものであり、むしろ害悪ですらあると考えられたということなのだ。
提案者は記者会見を開き、「私の説明不足」という言い方でこれを撤回したのだったが、条例改正案の考え方自体は間違っていないと今でも言いたいようである。

それにしてもこの提案議員たちが思い描く「幸福な家庭像」とはどのようなものなのだろう。
そんなものにいささかも興味がない、とまでは言わないけれど、それは世に根強くはびこった凡庸な想像力が描き出す「幸福な家庭像」とどこか似かよっているように思われるのだ。

条例改正案に異議申し立てをした人々は当然そこに強い違和感を覚えたのであるが、しかし、そんなステレオタイプの「幸福な家庭像」を単純に信奉するような大多数の人々のいることもまた確かなのである。心の奥底では実はそんなものをいささかも信じてなどいない、にも関わらず。

人々は知っているのである。その「幸福な家庭像」なるものが100年以上も昔からのコケの生えたような古びた価値観によって醸成されたものであることを。
そうした古い価値観が、女性の社会での立ち位置を危ういものにし、社会進出を阻害するどころか抑圧すらするものなって、年々顕著になっている少子化の直接的な要因となっているのではないだろうか。



ここで唐突に太宰治の「家庭の幸福」という小説を思い出す。
そのなかで作者(語り手)は、太宰一流の皮肉と諧謔、韜晦を駆使しながら読者に次のように語りかけるのだ。

「家庭の幸福。家庭の平和。
 人生の最高の栄冠。
 皮肉でも何でも無く、まさしく、うるわしい風景ではあるが、ちょっと待て。
 (中略)家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。」
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」

政治家は家庭の幸福を空想し、精神論で母親や父親など家庭に責任を押し付けるのではなく、より科学的な議論を通じて、児童館や保育園、学校を整備し充実させながら、施設面ばかりでなく実際に従事する人々の配置や働きやすい環境づくりをさらに進展させるほか、職場や地域社会などのあらゆる場所で子育て環境の整備や社会的インフラの積極的な改善などに力を尽くすべきではないだろうか。
考えるべきことは山のようにあるのだ。

夢想に耽るな、考えろ! である。

日々変わりゆくもの

2023-07-29 | 日記
私の住んでいる街にはいくつかの商店街があって、中には多くの居酒屋が集積してよくテレビなどでも取り上げられる名の知れたところもあるのだが、私が好んで歩くのは家からほど近いアーケードのある商店街である。
雨降りの日に傘をささずに歩けるというのも理由の一つだが、狭くもなく、広すぎることもない道の両側に並ぶ店の一つひとつを眺めながら、昼時の賑わいや夕方の雑多な人波から発せられる喧噪に包まれながらぼんやりと歩みを進めるひとときは不思議に心慰められるような気がするのだ。
しかし、それ以上に私の好きなのが、朝の9時過ぎの時間帯である。モーニングサービスをやっているカフェなどを除けば、まだ多くの店は10時の開店に向けた準備に余念がなく、店舗前に停車したトラックから荷物を下ろして搬入したり、店の奥から台車に載せた商品を運び出し、少しでも人目につく場所に並べ直したりと、誰もがかいがいしく動き回っている。それらの動きから生まれる様々な音には、どこか人の心を鼓舞するような躍動感があるのだ。



そうした商店街の開店前準備の様子を見ながらふと思ったのだが、これは劇場での公演で開演時間の迫るなか、俳優も裏方スタッフも一丸となってあわただしく客を迎え入れる準備にいそしむ光景とどこか似通っているのではないだろうか。
そう思うと、商店の一軒一軒は立ち並ぶ芝居小屋のようであり、そこで声を張り上げて客を呼び込む店員たちはさながら木戸芸者あるいは千両役者といったところかとも思えてくるのだ。商店街はブロードウェーやウェストエンドの劇場街であり、時には花道となってそこをそぞろ歩く人々をより華やいだ気分にさせるのである。

それはまあただの妄想に過ぎないとして、商店街の姿をよくよく見れば当然ながらそこには日々変化のあとがくっきりと見て取れる。
それがいかに魅力的で気持ちを浮き立たせてくれるような光景であろうと、いつまでも変わらずそこにあるということはあり得ないのだ。それどころか、ふとまばたきをした次の瞬間に何かが変わってしまっているということさえあり得ることなのだ。
そう思ってあらためて商店街の様子を見てみると、そこには時々刻々変化しつつある人々の営みが連綿とつながっているのだと感じさせられる。
私自身もよく通い、当たり前にそこにあると思い込んでいたカフェがいつの間にか閉店してしまい、次の業態に合った内装にするための工事が行われていたり、老舗の風情ある日本料理店だった場所がラーメンのチェーン店になっていたりする。しかもそうした様々なチェーン店がこのアーケード街のわずか200メートル足らずの間に何店舗も軒を連ねているのだ。
そればかりではない。なぜかこの商店街にはメガネ屋が5,6店舗は点在しているし、整体・ストレッチの専門店が同じく数店舗集積している。それだけニーズがあるということなのだろう。
一方で昔ながらの生鮮食品を扱う店は僅少なものになりつつある。それは至近な場所にスーパーマーケットがいくつも出来たという事情もあるのだろうが、そのスーパーだって昨今の消費需要の低迷の中で閉店あるいは縮小を余儀なくされている。
のどかな光景と思っていた商店街はそうした社会経済情勢や人々の需要の変化の波に洗われながら日々姿を変えているのである。
当然ながらそこに働く人々も、商店街を行き交う人々の姿もとどまることなく変化している。まさに変化こそが常態なのである。

村上春樹の長編小説「街とその不確かな壁」のあとがきの最後にこんな言葉が書かれている。
「……真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」

この言葉にはそう簡単に首肯することのためらわれる部分もあるように感じてしまうのだが、たしかにそうした変化の中にこそドラマや物語が生成される源が潜んでいるのは確かなことであるようだ。


夢の変容装置と美しい爆弾

2022-10-27 | 日記
眠りながらいつでも見たい《夢》を見ることができたらいいなあと思う。これは子どもの頃からのささやかな願いだった。
その意味で《夢》は希望や願望と似通っているのだった。

いつも欲しいと思っていたオモチャが手に入って遊びまくる夢であるとか、あこがれていた女の子と手をつないでニコニコ歩いている夢であるとか、ご馳走を好きなだけ食べて満腹になる夢であるとか、その内容は年齢や自分が置かれた立場などによって様々に変化していったが、たいてい夢は思うように見ることが出来ないか、見たとしてもそれらはいつも奇妙な具合に変形してしまい、目覚めの瞬間、こんな夢なら見なければよかったのにと後悔するのがオチなのだった。

それならばいっそのこと、誰か、自由に見たい夢を見たいだけ見ることの出来る機械を発明してくれないものかと思ったのだが、どうだろう。
もちろん薬を服用することによる夢の操作という手段がないわけではないのだけれど、薬なるものを今ひとつ信用できない私には、かえって副作用による気分の落ち込みや依存症になってしまうことなどが心配のタネなのである。
それよりも見たい夢のシチュエーションやパターンを思いつく限り機械にインプットしておき、それらを組み合わせて脳波を刺激することで夢を喚起するといった手法のほうが牧歌的であり、どこかユーモラスなSFを想起させて面白いと思うのである。

これは一興ではないだろうか。

この機械の性能を発展させることで、例えばわれわれの心に巣くったネガティブな感情をポジティブなものに変換してしてしまうことが出来るのではないか。
いつもクヨクヨ気に病んでばかりいる人は陽気で笑い声が絶えないようになり、いつも死にたい死にたいと言っている人は元気でやる気満々の生活を送るようになる。
これは、マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスに変換するように、絶望感が多ければ多いほど、幸福度が増すように仕組まれた機械なのである。

さらに、ネガティブな言葉、否定的な言葉をポジティブで肯定的な言葉に変換してしまう翻案装置なんてものがあってもよいと思う。
こちらが発する言葉のネガティブなものを相手の喜ぶようなものに変換する装置である。当然、逆もまたあり得るだろう。
いくら悪口を言っても相手には肯定的に伝わるし、顔つきまで怒りの顔や苦虫を嚙み潰したような顔が、相手には心地よい笑顔となって見える……見えてしまうのだ。
これは政治や外交交渉の場ではきわめて大きな効果を発揮するに違いないのである。
けんか腰の交渉が、知らず知らずのうちに友好的で笑顔の絶えない社交の場に変換してしまうのだから。

不幸にして戦争になってしまった場合にも、武器弾薬を幸福を詰め込んだプレゼント爆弾に変容させる装置なんてものがあり得るとしたら、それこそノーベル平和賞レベルの発明である。

放射能を詰め込んだ「汚い爆弾」の代わりに、空中で爆発すると「幸福」をまぶした粉が降り注ぎ、その街に住む誰もが楽しくうきうきとして歌いだしたくなるような「美しい爆弾」を誰か作ってくれないものだろうか……

思い出したくない夢の話

2022-08-18 | 日記
最近、眠りの浅い日が続いていて、そんな時に夢を見ることが多い。
つい先日は、過去の自分がしでかした、それこそ穴があったら入りたくなるようなある失敗を夢の中で繰り返した、というか、思い出してあたふたとしてしまった。
その日の午前中いっぱい、そのことを思い出しては自己嫌悪に陥っていたのだが、不思議なことに、夕方になってよくよく考えてみると、それが一体どんな出来事で具体的にどのような失敗だったのかをすっかり忘れているのである。

ああ、失敗した、困った、という確かな感触だけがあって、そのぬるっとしたイヤな手触りに追い立てられるような気がしていたのだが、それが実際にどんなことだったのかを完全に忘れてしまっているのである。

これをどう考えればよいのだろう。
人間は忘却する動物だということなのか。忘れるからこそ生きながらえるということがあるのかも知れない。あるいは、実際には何も起こらなかったし、そんな大それた失敗は何もしていないのに、どこかで見聞きした映画やドラマでの出来事を単に自分のこととして刷り込んでしまったことが夢枕にあらわれたということなのかも知れない。それだけのことなのだ。

家族にもそんな話をして、この悪い夢を他愛のない一夜の笑い話として処理しようとしたのだった。
ところが、である。こうしてここまで書いたところで突然思い出してしまったのである。

あの出来事は夢などではなかった。
それどころか、あれは心に深い傷を残すほどの完全な失敗としか言いようのないもので、その場で収拾がつかなくなり、追い詰められた私がどうやって収まりをつけたのか、今では思い出したくもない暗黒の記憶なのである。
どうやら自分のなかでは思い出に蓋をして決着をつけたつもりになっていたようなのだ。それが何かのきっかけで夢の形をとって顔を出したということなのか。
もちろん、それがどんな出来事だったのかをここで明かすわけにはいかない。それは私の名誉に関わることだからである。

……とまあ、こんなささやかな夢の話から始まるミステリードラマを構想することはできないだろうか。

誰にも言えないある秘密を抱えた主人公が、夢の中でその秘密に復讐される話である。
その秘密が何なのか、ドラマが終わるまで分からないままなのだが、疑心暗鬼に陥った主人公は、周りの誰もかれもがその秘密をタネに自分を亡き者にしようとしているという妄想に憑りつかれてしまい、最も親身になって心配してくれていた友人を衝動的に殺してしまう。
彼は刑務所の独房の中でようやく安息の時を取り戻すのだったが、今度はその友人の亡霊の影に脅かされることになる。彼はその影に向かって叫ぶのだ。自分の隠された秘密を。
……気がつくと、彼はとある病院のベッドの上にいて、自分が殺したはずの友人や医師の前で自分の犯した罪について告白をはじめる。その話を聞きながら、友人と医師はそっと目くばせするのだった。
それは友人と医師がたくらんだある犯行の現場を目撃した主人公が、そのことをすっかり忘れてしまっているばかりか、彼自身がその犯罪に手を染めたと思い込んでいることを確信した合図でもあった。
その友人たちにとって、主人公の彼はまだまだ利用する価値のある操り人形なのである。



こんな話は目新しくもないし驚きもないと思われる向きも多いことだろう。
しかし、昨今の要職にある人々の記憶喪失ぶりや、改ざん、捏造、はぐらかし、責任転嫁、フェイクの垂れ流しなどの体たらくを見るにつけ、このドラマが何らかの教訓にはならないものだろうかと思うのだけれど、どうだろう。
だって、本当のことを言わないままでいるって、とてもつらいことでしょう?

今日は何の日?

2022-08-04 | 日記
今朝6時頃に目が覚めて、ぼんやりラジオを聴いていたらNHKで「今日は何の日」というコーナーをやっていて、いついつの今日はこんな出来事がありましたという紹介をしていたのだが、その中で、渥美清(以下敬称略)の亡くなった日というアナウンスが聞こえてきた。
26年前のことで、享年68歳だったというので驚いてしまったのだが、そんなに若かったのかというのが率直な感想である。

渥美清といえば「男はつらいよ フーテンの寅」を思い出すが、その最晩年の姿は病気のせいもあって痛々しく、もっと齢を取っていた印象だったので、まだ68歳だったということには虚を衝かれたようでうろたえてしまった。

ちなみに今年は川端康成の没後50年でもあるのだが、川端は沖縄が日本に返還される前の月に亡くなっている。享年72歳で、ノーベル賞受賞の時には68歳だったのだ。
当時の映像を見るともっと齢を召されていた印象だったので、そのギャップにはいささかたじろいでしまう。

ちょっと話は飛躍してしまうけれど、先日、吉田拓郎が“一旦”卒業宣言というのをやって、テレビでは、kinki kidsと吉田拓郎がMCを務めて人気だった「LOVE LOVE あいしてる最終回・吉田拓郎卒業SP」というスペシャル番組が放映されていた。

吉田拓郎といえば、多くの世代に多大な影響を与えたばかりか、日本のポップス界にも測り知れない功績を残しているシンガーソングライターだが、その彼は今年76歳になる。

今から26年前、渥美清が亡くなった年の10月に「LOVE LOVE あいしてる」が始まったのだが、川端康成の没年である1972年に吉田拓郎は「結婚しようよ」や「旅の宿」を大ヒットさせ、一躍メジャーな存在となっている。
さらにその2年前、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた1970年に吉田拓郎は「今日までそして明日から」を歌い、すでに知る人ぞ知る存在だったのだ。

何かを言いたいのではなく、何か新しいとこが見つかるわけでもないのだが、こうして比較することで補助線が引かれ、これまで見えなかったものが見えてくるようにも思える。
それが面白いのだ。



今夏は異常気象が続いている。
猛暑日がこれほど続くのも記録的だというし、東北・北陸地方ではかつてないほどの大雨に見舞われている。無事を祈るばかりだ。
そんななか、今日は久しぶりに散歩に出た。歩きながらいろいろなことを思い出す。
思い出しながら歩くのだ。吉田拓郎の歌が聞こえてくる。



世論調査の「怪」と「解」

2022-06-28 | 日記
友情を失いたくなければ政治の話をするな。
小説のなかで政治の話をするのは音楽会へいって演奏を聞いてるさいちゅうに耳もとでいきなりピストルを射たれるようなものだ。
以上は開高健の小説「夏の闇」のなかに出てくる言葉だが、政治と生活が直結したものである以上、これを避けて通ることは出来ないだろう。
ということで、友情にひびが入らないよう気をつけながら少しばかり政治寄りの話をしたい。

選挙投票日が近づくこのタイミングで新聞・テレビなど各報道機関が行った世論調査の結果が報じられている。
一体この世論調査なるものにどれほどの信憑性があるのだろうとずっと前から気になっていた。加えて言うならば、それを報道することにいかほどの価値があるのだろう、といつも考えてしまう。
まさに世論調査の「怪」なのである。

世論調査の目的は何だろうと考えてみるのだが、一般的には、多くの人々=国民が何を求め、何に期待しているかを調査によって明らかにし、その時点における人々の考えを知る、ということだろうか。それによって、より多くの人々が選挙や政治課題を深く考えるきっかけにしたい、ということも含まれるかも知れない。

しかしながら世論調査はあくまで調査した時点の状態を知るということなのであって、いわば過去のものでしかない。
調査によって未来は予測できないのではないかという疑問が湧く。そこからいかなる結論を導き出そうが、それは幻想を語るようなもので、その後いかようにも変容し得るものなのである。

現に、世論調査の結果と実際の選挙結果は一致しないことが多い。
選挙に行く、あるいは必ず行く、と回答した人の割合に比べて、実際の投票率がそれを大きく下回ることの多いのがその端的な例である。
また、各政党の支持率が、実際の得票率と一致しないことは必ずと言ってよいほどだ。

これは投票日に行われる出口調査なるものとの大きな違いである。
出口調査はかなりの精度を有しているようなのだが、それにしても開票作業の始まる午後9時とほぼ同時に《当確》が出て、万歳三唱する候補者の姿をテレビ画面で見ることほど呆気にとられ、味気ないことはない。茶番を見るようである。

しかし、こうした事象は、事前の世論調査と出口調査との違いを際立たせているとも言えるだろう。
出口調査が、その直前の投票行為に関するアンケートであり、あくまで投票した人が対象である。
これに対し、世論調査はより漠然とした状態で問いかけた人々の願望を数値化したものなのだ。(当然、そこには実際には投票に行かない人の声も多数含まれている)

そうしたなか、調査結果として、一方の勢力が過半数を獲得する勢いだとか、もう一方の勢力は苦戦を強いられている、といった情報が見出しとなって流されるわけだが、これによって実際の投票に影響が及ぶことは容易に想像できるだろう。
もう大勢がはっきりしているなら今さら投票に行っても仕方がないと思うか、それでは頑張ってひと踏ん張りしなければと奮い立つのか、人によっても立場によっても違うだろうが、報道やニュースの見出しは大きな影響力を持つものなのだ。
また、一定期間行われる選挙運動の間に生じた事件や社会情勢もまた微妙に変化し、人々の幻想の揺らぎとなって影響を与えるだろう。
現に昨日あたりから、政権与党の中心にいる政治家の発言によって、年金や高齢者医療の問題が選挙の争点として浮上してきたと言われている。

多くの人々が常に確たる考えを保持し続けているわけではない。
ニュースの切り取り方や、SNSで発信されるフェイクもどきの情報にも敏感に反応しながら、投票用紙に記入する直前まで人々の感情や社会の空気はブレまくるのである。
実に曖昧模糊とした捉えどころのないものによって投票結果は左右されると言ってよいのだろう。

いつも思うのだが、そうしたあやふやなものをもっと具体的で目に見えるものとして明らかにすることは出来ないものだろうか。

分かりやすい例として言うならば、各政党が示す「公約」をもっと精密に分析することは出来ないだろうか。
素人目には、現状の「公約」なるものの多くは具体性を欠き、かつ、出血している傷口に貼る止血絆創膏のような応急処置的なものばかりではないかと感じられて仕方がないのだ。
現下の物価高に対して、低所得者や年金受給者に給付金や補助金を支給するというのは重要な観点ではあるけれど、あくまで傷口をふさぐ程度の効果しかないだろう。
最低賃金や労働者の給与をアップさせるため、さらには雇用状況や就労環境を改善するための根本的な問題分析やそれに基づく具体的な政策こそが求められているはずなのだ。

このように「公約」を実現度、財源、費用対効果等の観点から分析し、それが今の日本が抱える問題の抜本的な解決にどの程度貢献するかを示したうえで人々に問いかけることは出来ないのだろうか。

さらに言うならば、過去の選挙戦で示された各党、各候補者の「公約」が、その後どの程度実現したか、あるいは反古同然の扱いになっていないか、といった成績表のようなものは作れないものだろうか。
各政党や候補者が選挙の際に示し、約束したものがその後どうなったのかを批判的に分析し、明確にして問いかけるのはジャーナリストの重要な仕事であるはずなのだ。

もう一つ、これは政治家や行政機関の役割なのかも知れないが、調査によって得られる人々の要望、ニーズを、漠然としたものからブラッシュアップし、より具体的な政策レベルあるいは施策レベルにまで磨き上げるにはどうすればよいのだろうか。

単に人々が関心を持つ政治課題が、第1には経済問題である、第2には防衛・安全保障問題である、と大括りにしたところで何も見えては来ない。
経済問題にしても、賃金なのか、雇用の安定なのか、捉え方は一人ひとり違っているはずなのだ。
年金問題といっても、今現在受給している高齢者と、将来本当に年金は給付されるのだろうかと不安に思っている現役世代では捉え方に違いがあるのは当然なのだ。

限られた資源をいかに有効に使うのか、答えはその人の立場によってさまざまである。誰もが喜ぶ方法などないのかも知れない。しかし、そうしたなかでも最大多数の最大幸福をめざして時には苦い水を飲んでもらうよう人々を説得するのが政治なのだろう。

近代マーケティングの父といわれるフィリップ・コトラーが、心理学者G・D・ウィーヴの問いかけを紹介している。
「……なぜ石鹸を売るように人類愛を売ることができないのか」

社会全体がより良く、好ましいものとする政治を行わせるために、マーケティングをどのように活用すべきかという問いかけである。
平和、人類愛、戦争のない世界、貧困の撲滅、飢餓に苦しむ人々のいない世界、暴力のない世界、希望にあふれた世界……、それらを実現するためにマーケティングの手法をいかに活用すべきなのか、ということだ。

必要なのは、調査によって得られたビッグデータを顧客一人ひとりの目線で読み解き、本当に解決して欲しい問題を発見・抽出し、解決方法を見つけ出していくことである。
そこにマーケティングの手法が活用できるのではないかとコトラーは言うのだ。
そのために時間はかかるけれど、個々の政治家が、あるいは行政に携わる人たちが、愚直に人々の声に耳を傾け、ともに意見を交わし、より最適な解に一歩ずつでも近づこうとする不断の努力が求められるのだろう。

世論調査の「怪」ではなく、「解」を導き出すための努力である。

最後に一つ、自動車産業の生みの親ヘンリー・フォードの言葉をメモしておきたい。
「……人々の要望ばかり聞いていたら、私は速い馬を探しにいっていただろう」

後年の自動車社会が本当に社会に幸福をもたらしたかどうかと問われるといささか首を傾げざるを得ないのだが、フォードのこの言葉は、星の王子様の「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という言葉とともに時折思い出しては噛みしめたくなる一節である。

人々のニーズを追うだけでは本当に必要なものは見つからない。
要望や願望の上っ面からは、人々が求める根本のところは分からない。
本当に必要なものは何なのか。それを見出し、本当の問題を解決するためにどうすれば良いのか。
答えは私たち一人ひとりがより深く考え、行動することにかかっていると言えそうだ。

「役に立たない」ことの意味

2022-06-20 | 日記
散歩をしていると様々なことが思い出されるし、いろいろなことを考えてしまう。
最近はよく昔の若かった頃の恥ずかしい行状が突然甦ってきたりして、自分のことなのにいたたまれない思いをすることがある。
青春期の悪戦苦闘なのだが、そこから自分は何を得たのだったろうか、などと考えてしまうのである。
私がこれまでやって来たことの大半は、世の中の「役に立たない」ことばかりだったような気がするが、そのことに本当に意味はなかったのだろうか。



そんなことを考え、歩きながら、ふと川端康成の「伊豆の踊子」を思い起こしていた。
小説の主人公の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出たのだったが、そうした感情は思春期の誰もが感じるものなのだろうか。

いささか個人的なことを言えば、私が十代の半ばに芽生えたひねくれた感情は、あらゆる権威や押しつけがましい力に対する名づけようのない反発になってその後の人生を大きく踏み外す結果をもたらしたように思う。
人生において「役に立つ」はずの高等教育なるものからは早々にドロップアウトしてしまったし、努力とか修練とかいう、大人たちが親切にも忠告してくれる言葉にはわざとのように反対の道をあえて選ぶような振る舞いに自分を追い立てるようだった。
そうした闇のような時期は誰もが経験することなのかも知れないが、私自身はそこから脱却することがなかなか出来なかったのだ。

それにしても「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことなのだろう。
人生をとおして人は何を得ようというのだろう。

「伊豆の踊子」の主人公は、旅芸人の一家との出会いと交流の中でその心をあたたかくときほぐされていき、最後の場面では素直で自然な感情のなかに身を委ね、甘く快い涙を流すのだが、私にとってそれに匹敵するものは何かと考えると、それこそ「演劇」であり、「病気」だったのかも知れないと最近になってよく考えるのだ。

演劇についていえば、結局私は「芝居で食う」ことが出来なかった三流の俳優でしかないし、病気は長く放置したことの「つけ」によって、腐れ縁のように一生付き合う羽目になっている。
自分の努力や心がけだけではどうにもならない世界に私はいるわけなのだが、逆に、そうした不条理な状況の中で悪戦苦闘することの意味というものを改めて噛みしめているのでもある。

スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作「最後の大君」(村上春樹訳)の訳者あとがきの中で紹介されているのだが、フィッツジェラルドは娘のスコッティ―にあてた書簡の中で、このように語っている。

「……人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです……」

……それはあるいはフィッツジェラルドの文学と、そして人生のひとつの要約になっているかもしれない……と、村上春樹氏は書いているが、たとえはじめから勝ち目のない負け戦のような人生でも、少しでもそれに抗おうと苦闘すること自体に価値があるのであり、その苦闘をとおして自分は満足感を与えられるのだ、ということだろうか。
私も同感である。

もう一つ、覚えておきたいエピソードがある。
イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」(須賀敦子訳)の最初の章に書かれている言葉である。

「……私たちが古典を読むのは、それが何かに『役に立つ』からではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。……」

そのうえでカルヴィーノは、思想家シオランの言葉を引用し、次のエピソードを紹介する。

「……毒人参が準備されているあいだ、ソクラテスはフルートでひとつの曲を練習していた。『いまさらなんの役に立つのか?』とある人が尋ねた。答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』……」

素敵な話ではないか。
私は、権威づくの押しつけは嫌いだが、こうした役にも立たない習練に嬉々としてうつつを抜かす姿を見るのは大好きである。
私自身もかくありたいと願う。

対立したまま共存する

2022-06-19 | 日記
今朝の新聞の一面に建築家・安藤忠雄氏のインタビュー記事が載っている。
聞き手は池上彰氏で、安藤氏が大阪中之島公園内に設計・整備し、大阪市に寄附するとともに、運営費用については広く寄附を募った「こども本の森 中之島」の話を中心に、子どもの頃から本に触れ、読書することの大切さを語った記事である。

今年80歳の安藤氏だが、10年以上も前に癌が見つかり、胆嚢と胆管と十二指腸を摘出、さらにその数年後にも癌のため、膵臓と脾臓の全摘出手術を受けたという話はよく知られている。
その安藤氏が今も毎日一万歩を歩き、元気に仕事で世界中を駆け回っているというのは奇跡とも思えるが、仕事が彼を駆り立て、元気の源になっているというのは確かなことだろう。何かを失ったら、それを補完する方法を見つければよいだけの話なのかも知れないと、氏の話を聞いているといつの間にか前向きになっている自分に気がつく。

以前手に入れた2015年11月号の「芸術新潮」では安藤忠雄の大特集が組まれていて、折に触れてこれを見返すのだが、いつも刺激を受ける。
今日もページを繰っていて目に飛び込んできたのが、2001年にアメリカのセントルイスに完成した〈ピューリッツァー美術館〉のプロジェクトの話である。

アーティストでコミッションワークを依頼されていたリチャード・セラとエルズワース・ケリーが初期段階から建築計画に参加してきたのだが、それぞれ立ち上がるものに対して自分なりのイメージを持っている者同士の意見がぶつかり合ったことがある。
そうした事態になった時の安藤氏のスタンスはとても共感できるものだ。

「……妥協によって調和させるのではなく、対話によって対立したまま共存する道を探していく。自立した個人と個人が向き合い、しっかりと対話することが肝要です。同じ共同作業でも、それに臨む姿勢によって、できあがる空間の緊張感は大きく変わってくるのです……」

資金を持った人間や自己主張の強い人の意見にただ迎合、妥協して調和の道を探るのではなく、対話とコラボレーションによって最善の方法を見つけ、創造していくことが何より大切だ、ということだろうか。

「二項対立の脱構築」という哲学用語を思い出すのだが、まさに「対立したまま共存する」ことで解決策を見出すことの意義を感じさせてくれる言葉だ。
単に調和を目指し、妥協案を探るだけではどうしても釈然としない部分が互いの心の中に残り、わだかまりとなってしまう。
そうではなく、対立した相互の意見を尊重しながら、アイデアを出し合い、より高次な解決策を発見することで、互いが納得し、より創造的な空間や作品を作ることが出来る。

私たちの人生も社会も政治的な課題も、今世界で起こっている紛争も、まさにこうしたスタンスでの解決の道の模索こそが求められているような気がする。

何も決めないという決定

2022-06-18 | 日記
昨日通院した時の話をして、主治医がはっきりしたことを言ってくれない、まるで禅問答のようだと書いたのだったが、それは何も医師を批判しようという意図によるものではない。おそらくそれは医師として正しい態度なのである。

分かり得ないものの前で人は沈黙しなければならない、というのは有名な哲学者の言葉だが、あらゆる判断の要素があり、そのどれもが正しく、そのどれもが間違っている可能性のあるときに判断を一旦留保するというのは、おそらく望ましい対処なのだ。
もちろん何らかの処置をしなければ目の前の患者が危機的状況になるという場合には異なる対処方法があるのは当然のことだ。

一方で、痛みに耐えかねているような時には、何らかの決定を下して欲しいというのも患者の側からの心理的要請としてあり得ることなのである。
たとえその判断が間違っていたとしても、自分に対して毅然とした裁定を下してくれる医師を頼もしいと感じる心理である。
おそらくこれは、不景気が続いて貧困や格差が広がり、国が経済破綻に陥って行き詰まった場合などに、独裁者が自分たち迷える国民を引っ張って行ってくれることを求める人々の心理とどこかつながっているのかも知れない。

「何も決定を行わないという代替案は、常に存在する」と言ったのはドラッカーである。「意思決定は本当に必要か」を自問せよということだ。
「意思決定は外科手術である。システムに対する干渉であり、ショックを与えるリスクを伴う。よい外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない」のである。

ここでドラッカーは、「2000年も前に、ローマ法は、為政者は些事に執着するべからずといっている」ということを紹介しているのだが、現実には、無能な組織のリーダーに限ってどうでもよいような些事に拘り、改革の名のもとに組織体制や人事を必要以上にいじくりたがるものだ。このことは身の回りの、少し見知った組織(企業や団体)の様子を観察すれば腑に落ちるだろう。

無能な独裁的リーダーほど、どんな些細なことでも自分の耳に入れたがり、どんな細かなことも自分で決定しなければ納得しない。その反面、人の意見には懐疑的で自分の考えに同調しないものを徹底的に排除しようとする。
彼はコミュニケーションなど歯牙にもかけず、自分に異論を唱えるものは容赦なく粛清し、組織を自分好みの体制に作り上げようと、改革という名目で不要な手入れを繰り返す。
その結果得られるものは、泥沼のような組織の弱体化でしかない。

必要なのは情報開示(公開)と観察、徹底的なコミュニケーションに基づくネットワークの構築であり、その結果得られる集合知をもとにした冷静な判断と決定ではないだろうか。

病気の話をしながら、いささか強引に組織改革の話にしてしまったけれど、いずれも組織細胞の病変にかかわることだとすると、これらはどこかで深くつながっているように感じられてならないのだ。

1500勝達成

2022-06-18 | 日記
もう夜半を過ぎてしまったので昨日のことになるが、4週間ぶりに西新宿の街を歩いた。定期的に病院に通う必要があるからだが、多くの勤め人が行き交うこの街が私はどこか好きなのである。
このビル群を眺め、ふらふらと徘徊しながら雑踏の中に身を潜めてみたくなる。そこに妙な安心感を覚えるのだ。



私自身の体調はどうもはっきりしない……、どころか明らかに悪化しているようなのだが、今自分がどういう状態にあるのかが分からないのである。
採血検査、レントゲン撮影のあと、診察室に入り、主治医にこの4週間の身体の具合、どれだけ痛みが酷かったかなど経過を説明する。
医師はもちろんその話をよく聞いてはくれるのだが、その痛みの根本的な原因はという話になると、確定的なことは何も言えないらしく、この可能性もあるが、こちらの可能性も否定できないなどと、途端に禅問答のようになって分からなくなる。
一体この身体の中で何が起こっているのか。

 夏目漱石の「明暗」の中で、主人公の津田が独りごちる「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起こりつつあるのかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ」という言葉を思い出す。実際、そのとおりなのだ。

今日(17日)の新聞では16日の将棋の順位戦で羽生善治九段がプロ入りから通算1500勝を達成したというニュースが報じられている。
1986年1月に中学3年生で1勝目を挙げてから36年かけての快挙ということになる。その10年後の96年には7冠となり、一躍時の人となったのは誰もが知るとおりだ。

その7冠達成時、米長邦雄永世棋聖が経団連において「なぜ、羽生君に勝てないか」と題した講演を行ったことが新聞に載っていたのを覚えている。その時、53歳の永世棋聖はこう語ったのである。

「われわれベテラン棋士は得意の戦型が忘れられない。その戦型で勝った記憶が忘れられない。その戦型はもう通用しなくなっているのに」

当時はバブル経済の崩壊から数年経った頃で、日本経済の先行きは見えず、暗澹たるものだった。米長氏の言葉を、名だたる企業の経営者が、むずかしい顔をしてじっと聴き入っていたという……。

その羽生九段も今や50歳を超えて当時の米長永世棋聖の年齢に近くなり、29年も在籍した順位戦のA級から陥落してしまったし、タイトル戦からも遠ざかって久しい。
時の流れの無情を感じてしまうのも事実だが、私自身は羽生九段には《名人位》こそが相応しいと思っている一将棋ファンなのである。近いうちに必ず復位してくれるに違いないと捲土重来を心の底から願っている。

本屋さんの危機

2022-06-16 | 日記
赤坂の文教堂書店が27年間の営業に幕を下ろし、今月17日に閉店することが新聞やネットニュースで大きく報じられている。
首相官邸も近いことからかつては歴代首相も訪れた店舗だというのだが、これで赤坂から一般書店が姿を消すことになるとも書かれている。直接の要因は入居しているビルの再開発に伴う閉店ということらしいのだが、昨今のネット販売や電子書籍普及の波が老舗書店にも押し寄せ、これに加えてコロナ禍による外出自粛が店頭での販売に影響を及ぼしたのは間違いないだろう。

こうした現象は、音楽業界のネット配信の伸びや楽曲を聴くためのツールの多様化がCDの売り上げを大きく減少させる要因となったこととどこか似ているようである。とは言え、デジタル配信による売り上げがそれを補完し、音楽業界全体が発展しているのならそれはそれで良いのだが、実際のところはどうなのだろう。

一方、出版業界の状況はより厳しそうである。ネットで検索しただけでも、出版・印刷業界全体の売り上げが減少傾向にあることは疑いようのない事実のようである。
クールジャパンの代表ともいわれるコミックについても、紙媒体のマンガ雑誌等の売り上げは20年前と比べてほぼ半減しているというのだ。その反面、コミックの電子市場は前年比20.3%増で、市場の約9割を占めるまでになっているそうなのだが。

こうした現象には様々な要因があるのだろうし、何よりも各分野の当事者の皆さんが必死にその打開策に頭を絞っていることは十分に理解できるので、外野からとやかくいう必要はないのかも知れないのだけれど。
私自身はあくまで一消費者であり、街の本屋さんを愛する一個人の立場に過ぎないけれど、赤坂に限らず私が知っている範囲でもいくつもの書店がいつの間にかなくなっていることは衝撃であり、実に寂しくてならない。

今日の毎日新聞朝刊のオピニオン欄では、『[本屋さんの危機]つながる場 守りたい』と題した特集が組まれていて、その中で直木賞作家・今村翔吾氏の取り組みが紹介されている。
「文学界の『お祭り男』として出版界を盛り上げたい」という志のもと、今村さんは、全国の書店や学校をワゴン車で巡り、各地でトークイベントやサイン会を開き、読者と交流する取り組みを続けているのである。
今村さん自身、廃業の危機にあった大阪府箕面市の書店の経営を昨年引き継いでいるのだが、それもこれも「リアル書店はなくなってほしくない」という問題意識が彼を駆り立てているのだろう。

こうした試みが市場全体の大きな動向にどれほどの効果を生むのかは分からないが、その志はきっと多くの本屋ファンの胸に届くに違いない。
バタフライ・エフェクトという言葉もある。一人ひとりの地道な取り組みがやがて大きな潮流になると、一人の本屋ファンとして願っている。

記録映画のこと

2022-06-14 | 日記
しばらくの間、短めのメモを書くことにしたい。
情けないことに病気の進行なのか、薬の副作用なのかは分からないのだが、パソコンを前に机に座っていること自体が辛くなってしまった。外出どころか、近所の散歩すら出来なくなる事態は想定していなかったので、本人としては笑ってしまいたくなるほどの痛恨事なのだが、そう泣き言ばかり言ってもいられない。
差し障りのない範囲で日記代わりにメモを書き散らしておくことにする。
言うなれば、私家版の《病牀六尺》か《仰臥漫録》を気取っているのである。

最近は新聞を読むこともさぼりがちで、溜め込んでいた記事の切り抜きを読む。
先週の夕刊の映画欄に河瀨直美監督の「東京オリンピック2020 SIDE:A」が全国200館で公開されながら、事故レベルと言ってよい不入りだという記事が載っている。
オリンピック本番は新型コロナウイルス新規感染者数が大きく増加するなか無観客で行われたが、この映画までほぼ無観客で上映されているというのは皮肉以外の何ものでもない、といった論調だ。

1964年の市川崑監督の「東京オリンピック」が記録映画の金字塔と評されたのとは大きな違いだが、この違いは単に時代の変化なのだろうか。
当時は各家庭にビデオなどなく、人々がオリンピック競技の感動をもう一度味わおうと思ったら映画を観るしかなかったのだが、この変化は大きいだろう。
今や多くの人が見たい場面を見たい時にインターネットやSNSを使って繰り返し見ることが出来る時代なのだ。加えて、競技後に多くのメダリストがテレビ局を掛け持ちして繰り返し《感動の場面》が放映されていた。
受容する側にとってもその《感動》はある意味ですでに飽和状態に達していたのかも知れないのだ。

さらに、前回オリンピックと今回では多くの人々の期待値にも大きな違いがあった。
コロナ禍のもとでの開催に反対する人も、賛同する人も、みな複雑な感情を持たざるを得ない状況だったのだ。
さらに、本映画の撮影現場をドキュメンタリーで追ったNHKの番組でインタビューの字幕捏造の案件や、河瀨監督自身のハラスメントと思しき事案など、ネガティブな報道が続いたということもあるだろう。
今年2月に始まったロシアのウクライナへの侵攻はじめ、その影響による物価の高騰や極端な円安問題等々は、人々の関心をすでに過ぎ去った去年の感動からは遠いものとしてしまったのではないだろうか。

映画そのものを私自身は未見なので、その評価云々に関して何も言う資格はないのだが、映画公開の環境としては甚だ課題山積だったとは言えるのだろう。
しかしながら、映画表現そのものについての議論が深まらないという現状は、どの立場の人にとっても不幸なことに違いないと感じるのである。

昨日の世界

2022-03-15 | 日記
 友人で群馬県在住の詩人、中村利喜雄君が送ってくれた詩集「この世の焚き火」の中に、「イエスタデイ」という詩がある。
 この詩集全体はある年齢に達した人間が過去を振り返る時のほろ苦さとも悔恨とも言い難いノスタルジーを感じさせるのだけれど、とりわけこの「イエスタデイ」は、私自身の個人的な思い出とも絡み合って、腹をくすぐられるような可笑しみとともに若さ特有のみっともなさと恥ずかしさがブレンドされた記憶を喚起させられる作品だ。
(以下、要約と一部引用で紹介)

 ジョン・レノンがいなくなってから40回目の冬の夜、詩人は炬燵にあたりながら、映画「イエスタデイ」を見る。
 世界中を襲った12秒間の停電で同時代の人々にビートルズの記憶がなくなった、どこかパラレルワールドのような話……

 「主人公は『エリナー・リグビー』の歌詞の/あるところがどうしても思い出せない
  エリナー・リグビーの墓の前に佇んでも/記憶は戻ってこない
  そしてある人から言われる/人は見たものしか歌えない」

 「ほんとうに?
  想像力と空想する力があるじゃないか」

 映画の終盤、主人公は渡されたメモを頼りに海辺に暮らす78歳のジョン・レノンを訪ねる。

 「ビートルズを知らないのか/主人公はジョンに聞く/彼は首を横に振る
  船員として満ち足りて生きてきた彼は/主人公に言う
  大事なのは愛だ/好きな人を見つけて一緒に暮らせ
  そしてハグをして別れる」

 詩人の目は映画の世界から1980年の東京に移り、雑踏と喧騒にまみれ、仕事に疲れて行き場をなくした彼自身の内面へと入り込んでいく。
 そしてその年、彼は結婚するのだ。招待客の前で彼ら二人はチューニングが狂ったままのギターで「贈る言葉」を歌う。ジョン・レノンが死んだその年の暮れ、彼は仕事を辞める。翌年二人は東京を離れた……。

 断片的な引用と下手くそな要約では詩の魅力を伝えようもないが、こんなことが「イエスタデイ」という詩の中で語られる。

 ここで私が個人的な思い出というのは、この中村君の結婚披露宴での出来事だ。
 まだ若かった私は友人代表として行ったスピーチでどうやらしくじったらしいのだ。ウケをねらったはずが、どちらかの親戚の不興を買ったらしく、𠮟責に近いヤジを食らってあたふたとしてしまい、そのあと自分が何をしゃべったのかまったく覚えていない。
 このことはトラウマとなって残り、その後しばらくは結婚式恐怖症といってもよいくらいだった。芝居仲間の結婚式で司会の仕事を頼まれた時も頑なに断って、それをまた後になって悔やむといった具合だった。これではいけないと一念発起し、その後は知人友人の結婚披露宴のたびに司会役を買って出ることにして場数を積み重ね、いつの間にか千人規模のイベントの司会まで平気でこなせるようになったのだが、だからと言って中村君の結婚披露宴での失敗は心の奥底で燻り続け、忘れることはなかったのである。

 そんな時、ごく最近になってこの詩「イエスタデイ」を読み、こんなことがあったねとLINEに書いて送ったところ中村君からは、「悪いな。スピーチまったく覚えてないよ」という返事が来たのだった。
 往々にしてそんなことはある。周りは誰も覚えてなくて、自分だけが思い出してはブルブルと震えるということが。
 「ということで、もう忘れておくれ」と中村君からのLINEには書かれていた。
 こうして私は長年の呪縛からようやく解き放たれたのだった……、という笑い話である。オチはない。

バック・イン・ザ・U.S.S.R

2022-03-12 | 日記
 つい最近、たまたまザ・ビートルズの「バック・イン・ザ・USSR」を耳にする機会があったのだが、現下の国際情勢の中でこれを聞くと何とも複雑な感情に捕らわれる。以下、その一部分を引用……(山本安見訳)
 ♪ 懐かしのU.S.S.Rに帰ってきた
   この国に住んでる人たちよ
   アンタたちは本当に幸福ものだぜ

   ウクライナの娘たちには まいっちまう
   西洋なんて 屁とも思っちゃいないのさ
   それにモスクワの娘たちときたら
   ”我が心のジョージア”を僕に大声で歌わせるのさ

 もちろんこの歌はロシアの旧体制時代に作られたもので、当時はウクライナもソ連邦に属する一地域だったのだが、1991年、ソ連邦の崩壊に伴い、ウクライナは独立を果たした。
 2003年、モスクワの赤の広場で行われたポール・マッカートニーのライブコンサートにはプーチン大統領も足を運び、この歌を聞いたというのだが、一体どんな思いで聞いていたのだろう。当時はロシアもNATOに対してまだ親和的な立ち位置にあったようだが、この20年の間にプーチンは腹蔵する苛立ちを募らせていたのだろうか。

 それにしても、この何日かのロシア側の発表や外相の会見などを見聞きする限り、人道回廊の無効化をウクライナ側のせいにしたり、小児科・産科病院をロシアが攻撃した際にも、あの病院はウクライナ軍が占拠していた場所で市民に被害は及んでいないといったことを公式の場でしれっとした顔で話している。その自己正当化の厚顔無恥ぶりには開いた口がふさがらない。

 ある識者の話では、ロシアの外交官はそうした訓練を受けているから、ウソをウソとも思わず、プーチンの発した言葉と整合性を取ることだけを目的に罪悪感もなく話が出来るそうなのだが、本当だろうか。
 その真偽のほどはともかく、しかし、これはわが国の官僚と呼ばれる人たちにもどこか似たところがあるように思えてきて怖ろしくなる。人間の業ともいえるもので、多かれ少なかれ、私≒私たちはそうした要素を心のどこかに隠し持っているのかも知れないのである。