seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

凝視と解体

2010-12-31 | アート
 今年観たいくつかの展覧会について記録しておこう。
 まず、忘れがたいのが、王子・飛鳥山にある紙の博物館で11月28日まで開催されていた企画展「日本近代洋画の美―紙業界コレクション―」である。
 紙の博物館は「洋紙発祥の地」と呼ばれるこの王子で創立60周年を迎えたとのことだ。この展覧会はそれを記念し、博物館維持会員会社である製紙関連企業が保有する作品を展示するものである。
 全部で20数点というごく小さな規模の展覧会ではあるのだが、岸田劉生、黒田清輝、小出楢重、佐伯祐三、中川一政、中村彝、林武、藤島武二、三岸節子、安井曽太郎など、近代日本洋画を代表する錚々たる顔ぶれの作家たちの作品が並べられ、壮観である。
 作品の持つ力強さにも強く惹きつけられるが、こうした作家たちの作品を購入することで、紙業界の企業がその創作活動を支えてきたことということにも興味をそそられる。
 豊島区長崎町一帯に昭和の初めから終戦期にかけてアトリエ村が形成され、そこに集まった芸術家たちの交流がやがて池袋モンパルナスと呼ばれるようになったのは知る人ぞ知る周知のことだ。さらに紙の博物館のある王子から田端周辺はかつてモンマルトルとも呼称された。
 そのためか、本展覧会におけるコレクションの作家たちの活動場所もそうした所縁を深く感じさせる。

 そのなかでも私が深く惹かれたのが、上野山清貢の作品「鮭」である。
 ちょうど中川一政、中村彝、岸田劉生の作品の間に挟まれた格好で展示されていたのだが、その存在感は他を圧倒するばかりに異彩を放っている。
 上野山清貢はアトリエ村のゴーギャンとも怪人とも呼ばれた人だが、私が仕事の関係で知り合ったMさんのお祖父さんでもある。
 ギャラリー活動をしているMさんにお祖父さんの作品を観たよというメールを送ったら、早速紙の博物館に行って学芸員に話を聞いてきたと私のオフィスを訪ねて報告してくれた。

 さて、12月19日には、この日がちょうど最終日だった「麻生三郎展」を観に東京国立近代美術館に行った。
 麻生三郎が亡くなってちょうど10年なのだそうだが、その人となりは、その際の新聞報道、「太平洋戦争中に松本竣介、井上長三郎らと新人画会を結成。戦後は1964年まで、自由美術家協会に参加。暗色の重厚な画面に、根源的な人間像を描き出す画風で評価された」におおよそ言い表されているが、ただ、「その枠の中に麻生を押し込めてしまっては、私たちは何か大事なものを見逃すことになりはしまいか」と、同館の学芸員、大谷省吾氏が問題提起している。
 たしかに、70年代から90年代にかけても旺盛な創作活動を行ったその画業というものがそうした新聞記事からは読み取れないのだが、その今日性について、私たちはもっと深く感得すべきなのだ。

 会場では、パネルで麻生自身の言葉がいくつか紹介されていたが、その中の一つ「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリスムだとわたしは考える。もしもこの二つの質がちがった、方向の逆なものが、一つの平面のなかで生きていないのなら、その絵はもぬけのからの絵画になろう」がとりわけ印象深い。

 その日、同館内の常設展示も観て回ったのだが、そこに並べられた靉光、松本竣介、長谷川利行らの素晴らしい作品群を観ると、彼らを育んだ豊島区・長崎アトリエ村が本当に奇跡の場所なのだと改めて感じさせられる。
 その常設会場を回っているとき、知人のKさんとばったり出くわした。Kさんは区議会議員の傍ら長崎アトリエ村や池袋モンパルナスの作家たちを調査・研究する市民活動にも取り組んでいる人で、私も仕事の関係でお世話になっている。
 やはり今日が麻生三郎展の最終日ということで足を運んだとのこと。
 長谷川利行の最近発見されたという作品の前で二人無言のままそのマチエールに見入るというのも貴重な時間と思えた。

 12月26日、Bunkamuraザ・ミュージアムで「モネとジヴェルニーの画家たち」展を観た。
 ジヴェルニーは、クロード・モネが1883年、42歳の頃から住みついたパリから80キロほど北西に位置するセーヌ河沿いの小村である。モネが描いた睡蓮や積わら、ポプラ並木などの作品で世界に広く知られるようになり、1915年頃までには、19カ国を超す300人以上もの芸術家がここを訪れ、さながら芸術家のコロニーの観を呈していたとのことだ。
 その中でとりわけ興味深かったのがモネ最晩年の睡蓮である。それを描いた頃のモネはすでに視力に障害が生じていた時期のものと思われるが、その作品は私たちが通常モネの絵として思い描く睡蓮とはまったく様相を異にし、色彩も線描さえもが細分化され、抽象絵画のような美しさを表している。
 これに関連する文章が前田英樹著「絵画の二十世紀―マチスからジャコメッティまで」のなかにある。
 「モネは、眼を写真機のように独立した器官、あるいは機械と考え、制作において実際そんなふうに眼を使い切ろうとした。たぶん彼を襲った強い視覚障害は、狂おしいようなこの意志と無関係ではなかろう。行動する身体からもぎ離された眼で見ようとする彼の意志が、眼を破壊してどこかへ進んでいった」
 モネの睡蓮は、麻生三郎の言う「凝視と解体」の一つの到達点を示しているように思える。
 それはジヴェルニーに集まった凡百の印象派の画家たちとはまるで違ったものを凝視していたのである。

トップガールズ

2010-12-23 | 演劇
 今月はじめに観た舞台、「トップガールズ」について書いておかなければならない。
 作:キャリル・チャーチル、翻訳:安達紫帆、演出:高橋正徳、企画制作:ミズキ事務所、会場:アイピット目白。

 幕開きはロンドンのキャリア・ウーマン、人材派遣会社の重役に昇進したマーリーンの祝いの席から始まる。実は、それはマーリーンが見た夢というか空想の世界なのであって、その席には、探検家イザベラ・バード、法王ジョーン、ブリューゲルの絵に描かれた悪女フリート等々、歴史上、芸術作品上で数奇な運命を生きた5人の女性たちが招かれ、ワインの酔いにまかせてそれぞれの女性としての戦いの人生について喧々諤々と語り合う。
 次の場面では一転して現実の世界が現れ、働く女性をめぐる様々な軋轢や葛藤など、現代女性の多様な姿が描かれる。
 そしてマーリーンとその姉ジョイスの会話を中心とした最後の場面では、自らの意志では選択できない時代と社会、環境、性など、女性にとっての切実な命題が露わにされ、観る者に深く問いかける。
 この舞台の初演は1982年。時あたかも鉄の女と呼ばれたマーガレット・サッチャーがイギリス初の女性首相となった頃である。彼女の出現は果たして女性の成功を意味していたのか、との問いもこの芝居にはこめられているようだ。

 出演者は、神保共子、山本道子、古坂るみ子など、文学座や演劇集団円の劇団員たちで、この演ずるには難解で相当に骨のある芝居をベテランの味でうまく料理していたが、私が特筆しておきたいのは、マーリンの姉ジョイスを演じた「かんこ」さんのことだ。
 かんこ、とはもちろん芸名であるが、以前は「菅伸」の名前でアンダーグランドの舞台で活躍していた女優さんである。知り合ったのは私が20歳の頃だから本当に昔々の話だ。
 その最後の舞台はたしか昭和の終わり頃で今回のように本格的な舞台復帰は22年ぶりとのこと。その間、出産、育児という時期があり、まあいろいろあったのだろうけれど、私生活上のことは私には分からないことが多い。何しろ彼女とは22年間も音信不通状態だったのだ。
 ただ、その間の時間の積み重ねが決して無駄ではなかったということは、今回の舞台の演技を見ればすぐに分かる。ベテラン揃いの布陣となったこの舞台において、彼女はひと際大きな独特の輝きを放っていたからだ。
 役者というものは不思議なもので、舞台を離れたり、芝居の世界から遠ざかったことがそのまま劣化を意味しない。例えばダンサーや歌手、音楽家であればそういうわけにはいかないだろうけれど、俳優は日常生活の中からでも多くのものを学び得るということの証である。年を重ねることが演技のふくらみとなって顕れる。
 もちろんそれはすべての役者に言えることでは決してない。多くの蓄積や感性があってのことであり、何より大切なのは感性であり、役者であり続けたいという意志の力なのだろう。
 彼女は、舞台に立つことのできない鬱々とした日常の暮らしの中で、ヘタクソなタレントの芝居を観ては毒づき、感動させる芝居を観ては激しく嫉妬しつつ日々イメージトレーニングしてきたと冗談まじりに言っていたが、その気持ちはよく理解できる。
 
 かんこさんはメールで「人の顔を見て老けたなというのは禁句よ」と言ってきたけれど、そんなことをもちろん言うはずもない。
 終演後、昔の仲間を交えて、22年という空白期間など吹き飛んでしまい、ほんの何日か会わなかっただけのように話に花が咲いたのは嬉しいことだ。
 それもこれも無闇に厳しかった肉体訓練や稽古、テントの芝居小屋を組み立てる材木運びにともに汗したという共通の思い出があるからだ。
 まあ、ただの感傷といわれてしまえばそうなんだけどね。でも、あの濃密な時間は強烈に私の脳裏に焼きついて今も離れない。
 そんな昔をなつかしみつつ、また何か新しいことが始まるという予感に震えた一夜なのだった。

メモリー

2010-12-22 | 舞台芸術
 今週の「エコノミスト」誌に中国人ジャーナリスト、安替(アンティ)氏のインタビュー記事が載っている。 
 安替氏は中国語ツイッターにおける影響力測定で4位にランキングされているジャーナリストで、国際交流基金の招きで10月から12月にかけて日本を訪れていたそうだ。
 彼によれば、中国のニュースサイトやブログは政府の検閲下にあるので、しばしば言葉を削除されるが、ツイッターは運営会社が米国にサーバーを置いているため、言葉を削除されることがないという。
 そのため、特に社会的にセンシティブな問題について発言する時に有効なのだとのこと。

 4億人いるという中国のネット利用者に比して、ツイッターを介して情報発信したり、アクセスしたりする人は10万人ほどだということだ。
 この数字は驚くほど小さいが、彼らは情報に極めて敏感であり、ネット利用者のなかでも精鋭であることから、議論を構築する力を持っているのである。
 安替氏自身も反日教育を受けて育ったため、中国で起きている悪いことはすべて日本による侵略のせいだと信じ込んでいたが、ネットでさまざまな情報に触れ、詳細な文書や裏付け資料を読むうちに情報のバランスがとれてきたのだという。

 必要なのは情報である。なのに、日本から中国に向けて発信される情報のほとんどがそれを必要とする人のもとには届いていないという現実がある。
 文化としての情報戦略をもっと本気で考え直す必要があるのだろう。

 そんな雑誌の記事を読みながら、すでに3週間ほども前に観た舞台のことが忘れられないでいる。
 フェスティバル/トーキョーの演目の一つ、生活舞踏工作室の「メモリー」である。振付:ウェン・ホイ(文慧)、ドラマトゥルク・映像:ウー・ウェングアン(呉文光)。会場:にしすがも創造舎。
 演劇とドキュメンタリー映像をクロスさせた作品で、舞台上に張られた薄い布地の天幕の中で母と娘の会話が交わされる。
 天幕をスクリーンとして、文化大革命をめぐるニュース映像やアニメーションが映し出される。と同時に、母と娘はゆったりとしたトーンで60年代、70年代の記憶をたどりながら、その時代を回想する会話を重ねていく。
 その間、母親はミシンで繕いものをしたり、洗い桶で衣服を洗濯したりする。その水音が舞台に響き渡る。そのなかを娘は極めて緩慢というか、極度にスローモーにデフォルメされた動きで舞台を縦断するのだ。
 まるで長い時を刻んで滴り落ちる水滴を遡ることで記憶の闇を辿るかのようにそれは思える。

 この舞台には、上演時間の長短で2種類のバージョンがある。私が観たのは1時間のショートバージョンだったのだが、もう一つ、8時間のロングバージョンも上演されていた。彼ら自身の体験したことを十全に表現するにはそれだけの時間が必要ということなのだろう。
 私自身の言葉が鈍磨しているために、この舞台の感想やら印象やらを的確に書くことができない。
 そのため今日まで何も書けないままにきたような気もするけれど、あの空気感、水音、ささやくような二人の会話、その緩慢な動きのリズム、挿入される映像は今も私の脳裏にありありと残っている。
 この作品を記憶するということと、歴史を記憶し回想するという行為の重なりの部分にこの舞台の魅力や意味合いがあるのかも知れない。

 生活舞踏工作室は、ウェン・ホイ、ウー・ウェングアンらが主宰するインディペンデントのカンパニーであるが、彼らはまた創作・発表の拠点として北京の草場地という村に「草場地(ツァチャンディー)ワークステーション」を設立し活動している。
 国内外のアーティストの交流の場でもあるこのワークステーションでは、春と秋の年2回、コンテンポラリーダンスとフィジカルシアターのフェスティバルが開催され、海外の関係者との交流も密に行われるという。
 中国という超巨大な国の中における、まことに小さな微小とさえいえる場所ではあるが、受発信する情報の深さにおいて、広さにおいて、その鋭敏さにおいて突出しているということなのだろう。
 それは小さなつぶやきこそが力を持ち得るという、この国におけるツイッターの位置づけと共通しているのかも知れない。

 内閣府が18日に発表した「外交に関する世論調査」で、中国に親しみを感じないとした回答が77.8%にのぼり、対中国感情が過去最悪になったとのことだ。
 この結果には、例の尖閣諸島をめぐる問題の数々や北朝鮮への対応など、様々な要素があると思われるが、一方で、経済的にも社会的にも、中国という国の存在はわが国にとってすでに不可欠のものになっているという現実がある。
 「メモリー」はまことに小さな作品ではあるが、いま私たちが感知しなければならない声の在り処というものを教えてくれる重要な舞台であったと言えるだろう。