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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

オーケストラ!を観る

2010-05-26 | 映画
 映画「オーケストラ!」はとてつもなく面白い作品だ。第一級の悲劇であり、社会派のドラマであり、大メロドラマであり、ドタバタ喜劇でもある。
 一流オーケストラになりすましたニセモノ=実は手練の演奏家たちが、パリの一流音楽ホールで演奏会を大成功させるという話なのだ。その設定だけで何となく胸がわくわくするではないか。
 監督:ラデュ・ミヘイレアニュ、脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ+アラン=ミシェル・ブラン。主人公アンドレイ・フィリポフ役にアレクセイ・グシュコブ、その妻イリーナ・フィリポヴナ役にアンナ・カメンコヴァ・パヴロヴァ、ヴァイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケ役に今をときめくメラニー・ロランが配されている。

 2001年のこと、偽のボリショイ管弦楽団が香港で公演するという出来事が本当にあったのだそうだ。その話をもとに二人のフランス人作家が書いたストーリーのうちから、偽のオーケストラが香港で公演するというアイデアだけを抜き出し、新たに肉付けをしたのがこの映画なのだそうである。

 モスクワのボリショイ劇場で清掃員として働くさえない中年男のアンドレイが、管弦楽団宛てのパリ・シャトレ座からの出演依頼のFAXをたまたま手に入れて横取りし、かつての仲間を集め、ニセのオーケストラを編成してパリに乗り込み、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏、観客を熱狂の渦に巻き込む。
 そして、彼がソリストとして選んだのが、若手ヴァイオリニストとして人気のアンヌ=マリーだった・・・。
 実は彼は30年前の旧ソ連時代には世界にその名を知られた天才的な指揮者だったのだが、ユダヤ人排斥のため、多くの楽団員を解雇しようとした当時のブレジネフ政権の方針に逆らったがために失脚し、今ではしがない劇場の清掃員となっている。一時はその失意からアルコール依存症ともなり、今は立ち直ったもののその痕跡は心理的な傷となって消えることはない。
 彼の仲間たちもみな意に沿わない職業に身をやつしながら、それぞれたくましく生き抜いている。そして、誰もが音楽を捨ててはいなかった。
 その一筋縄ではいかない彼らがいかにしてパリの一流劇場の舞台に辿り着くかというスッタモンダがまた見どころではあるのだが、荒唐無稽で突っ込みどころ満載のようでいながら、骨太のストーリーがドラマをしっかりと支えている。
 
 この映画がいまシニア層を中心に多くの観客を集めてヒットしているのは何故なのだろう。3週間ほど前、私がこの映画を見ようと銀座に行った際には、上映時間の30分も前というのに長蛇の列で入ることができなかった。日を改めてネット予約のできる映画館で観ることにしたのだった。
 恐らくは、とびきりの腕前を持ちながら、今は世をしのぶ仮の姿で報われない日々を暮らしている者たちが、王位の正統性を簒奪者から勝ち取るといった物語性が観客の感興をいやがうえにも高めるのか。
 そんな単純な話ではないだろう。これは壮大な民族の戦いと政治ドラマをありったけの荒唐無稽さでくるみ込み、メロドラマの味付けをふんだんに盛り込んだ映画なのだ。

 「のだめカンタービレ」の千秋センセイの指揮者ぶりのほうが余程うまいと思わせるほど不器用に見えるアンドレイ役のアレクセイ・グシュコブなのだが、それすらも計算しつくされた演技なのかも知れない。
 案の定、ラスト10分間の演奏シーンのクライマックスは比類のない感動に包まれる。

 さて、アンドレイがなぜソリストにアンヌ=マリーを選んだのかがこの大ドラマの眼目なのだけれど、これ以上はネタばれ必至なので書くことはできない。
 それにしてもこのような往時の政権批判と思われる映画にロシアの俳優たちがこぞって出演し、その映画がヒットしているということそれ自体が素晴らしいことだと思える。

 個人的には、アンドレイの妻イリーナを演じたアンナ・カメンコヴァ・パヴロヴァに泣かされた。
 身すぎ世すぎでたくましくしたたかな生活スタイルを身に付けた彼女がアンドレイからこのパリで演奏するという突拍子もない夢物語を聞かされた瞬間、「ぶっとばすわよ!」と言い放つ。
 思わず、またこっぴどく怒られるのではと身をすくめたアンドレイに向かい、彼女はこう続けるのだ。「それを実現しなかったら許さないから。何年その日を夢に見てきたことか」と。
 人はこんな言葉に励まされるのだ。

映画の中の少女たち

2010-05-13 | 映画
 少女たちの成長が主題となった2本の映画について話してみよう。

 「17歳の肖像」(原題:AN EDUCATION)は、1961年の英国を舞台としたまさに時代そのものが主題となった作品である。
 監督はロネ・シェルフィグ。英国の人気辛口ジャーナリストとして知られるリン・バーバーの短い回想録に基づき、ベストセラー作家ニック・ホーンビィが脚本を書いている。
 はじめ利発で無垢な16歳だった主人公が、ちょっぴり大人の17歳となり、それまで知らなかった人生のほろ苦い側面に触れて成長する。
 その主役ジェニーを演じるキャリー・マリガンはまさにこの映画で花開いた新星といってよいだろう。まるで映画の宣伝文句のようで気が引けるけれど、それほど彼女の魅力はこの作品全体を通して横溢しているのだ。(簡単にいえば、要は私の好みのタイプということにつきるのだけれど)
 一方、アルフレッド・モリーナ演ずる父親ジャックは打算的で家族には専制的にふるまう小市民であるが、娘が直面した危機に際して、気弱さと無力さをさらけだしながらも精一杯の思いやりを見せようとする。同年代の私としては、そうした父親像に思わず共感を覚えてしまう。
 さらに、ジェニーの相手役となるデイヴィッドは、世慣れていながらもどこまでも好感の持てる年上の男性である。その魅力にジェニーはもちろん、両親までもが幻惑されてしまう。観客にはその危うさが見て取れるというギリギリのところで、もしかしたらこいつは詐欺師の色悪なのではないかと思わせる面をしっかりと垣間見せながら、実に巧みなバランスの演技をピーター・サーズガードは見せる。
 彼もまた、ジェニーとのふれあいのうちに今は失われてしまった自分の中の何かを探し求める人間の一人なのだ。

 この映画の時代背景は、まさにビートルズやローリング・ストーンズが表舞台に躍り出ようとするその前夜といってよい。そうした新しい時代の胎動を感じながら、未知の世界に焦がれる人々の姿が描かれるのだ。
 その主人公たちも、今やもう前期高齢者と呼ばれる年齢にさしかかっている。
 懐かしいはずの過去の時代がなぜだかとても新鮮に感じられるのはなぜだろう。
           *
 さて、かたや19歳に成長した不思議の国のアリスを描いたのが、ティム・バートン監督作品「アリス・イン・ワンダーランド」である。
 その造形美にはいつもながらに驚嘆するけれど、正直なところルイス・キャロルの偏執的な夢の世界からはかけ離れた、常識的で、なおかつ教訓的な臭いすら感じられる作品に「堕してしまっている」と言えなくもないだろう。
 このあたりがディズニー映画の所以であり、限界でもあるのだろうか。
 原作が、少し変わったところのある独身数学者の夢見た「少女」の見る夢の世界であったのに対し、この映画のアリスは今や結婚を期待される年齢にあり、まさにある貴族の男性から求婚されているその場から逃れようとしてウサギ穴に落っこちる!
 彼女は常にここではない何処かへ旅立つことを求めている・・・ように思える。夢の世界に入ったのも、次の世界へ飛び立つための準備行為であったと言えなくはないだろうかと思えるのだ。
 その証拠に、映画のラスト、幼かった頃の自分の夢に落とし前をつけた彼女は、自分にまとわりつくあらゆるものを振り切るかのように別の世界へと旅立っていく。
 これは一人の少女が大人の女性へと生まれ変わろうとする成長物語でもあるのだ。まさにこれぞディズニー映画!
 反対にいつまでも幼児性を保ち続けようとするのが、ジョニー・デップ演じるマッド・ハッターのような男性であるというのはどういうことか。彼らは夢から覚めることを恐れるかのように《ごっこ遊び》に固執する。
 とはいえ、この役のしどころはあまりなかったのではないか。見ていてジョニー・デップは大変だったろうなと気の毒に思ってしまった。

 一方この映画の登場人物の中でもっとも親近感を感じたのがヘレナ・ボナム・カーター演じる「赤の女王」だ。
 いびつに歪んだ心と変形した体躯を持て余すかのように奇怪な声で叫び声をあげる彼女の、その成育の過程や背景までをも感じさせるその演技は、まさに真の俳優による仕事といえるだろう。
 その素晴らしい造形によって生み出された「赤の女王」の姿には、誰もが同情にも似た共感を抱くのではないだろうか。

眼鏡デビューのこと

2010-05-10 | 日記
 しばらくブログから遠ざかってしまったが、なかなかパソコン画面に向かうという気分になれない状態だったのだ。
 すでに2週間以上も前のことになるが、左側の白目の部分の血管が切れ、出血するという事態となった。当の本人にはまるで自覚がなく、下まぶたのあたりに少しばかり異物感があるなというくらいの感覚しかなかったのだが、ちょうどそばにいた人から「ちょっと、目がすごいことになってるよ!」と注意されて気がついた。

 もともと充血しやすいタチではあるのだが、それどころの話ではなく、鏡を見ると、左の眼球を中心に目頭から下まぶたの部分にかけて白目がどす黒く血に滲んでいる。
 あわてて眼科医に駆け込んだのだが、いろいろ検査した結果、要は目の酷使による疲労ということらしい。
 乱視が相当程度に進行し、それに老眼が加わったうえ本来の近視も進んでいる、その状態で本を読んだり書類を見たりするのだが、そのピント合わせの調整を力ずくでやろうとするものだから目に負担がかかるのだ。
 手許の書類を見ながら、少し離れた場所に置いたパソコンの画面を眺めつつ作業をするという状態が最も疲れる。どうりで最近肩こりが甚だしく疲れがちだったわけだ。
 「よくこんな状態でいられましたね」と医者には言われた。「メガネをつくるべきですね」

 数日経ってようやく決心がつき、眼鏡屋に行ったのだが、そこでも「2年前にはつくっておくべきでしたね」と言われてしまった。
 つくったメガネは中近両用というやつで、室内での作業用だから、それをかけて屋外を出歩くと目がかすんで危険なことになる。
 それにしても読書は格段に楽である。肩こりも気持ちのせいか薄らいだようだ。
 それはそうなのだが、屈折の入り混じったレンズの調整を自分で加減するのにまだ慣れていないのと、近くにあるものがより大きく見えるレンズの特性なのか、手許に大きな原稿を置いて書いている時など、角度によってその用紙がひし形に歪んで見えてしまうのはどうしたものか。
 まだ操作に慣れないオモチャをあてがわれたようで戸惑ったままである。

 ただ、メガネのフレーム越しに世界を見る、という体験は新鮮なものだ。もちろん役のうえでメガネをかけて演技するという体験はあるのだが、実生活でメガネをかけるのは初体験なだけにそれで人前に出るのが気恥ずかしくもあり、何だか妙に誇らしくもある。それこそ新しいオモチャをもらった子どものような気持ちなのだ。
 サングラスは人格を変えるというけれど、こうした普通のメガネも顔の一部となれば、ある種の化粧のようなものだから、それをかけた人間の気持ちも変わり、ものの見方も変わるような気がする。
 これから自分の前にどんな世界が現れるのか、不思議な期待感でわくわくとしている。