seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

暮らしが仕事

2021-09-09 | 言葉
 「暮しが仕事 仕事が暮し」は、陶芸家・河井寛次郎のあまりに有名な言葉である。
 柳宗悦や濱田庄司らとともに1920年代に民藝運動を起こした河井寛次郎は、陶芸のほかに彫刻、デザイン、書、詩、随筆など多分野で作品を残した芸術家であるが、その生活は、仕事もプライベートも区別することのない、仕事と暮らしが混然一体となったものであったという。
 同じ敷地内に住居と仕事場、窯場が一緒に存在したことも、「暮らしが仕事」という言葉の背景にはあるのだろうが、河井は常々、日の出とともに起きて日の入りまで仕事をするお百姓さんのお仕事をとても尊いものとしていた、と紹介されている。

 たしかに農業の仕事は厳しく、作物を育てるためには一年中24時間気を配らなければならず、そこに仕事とプライベートの区別など入り込む余地はないように思える。
 また、作品制作によって日々の糧を得ることが可能な、いわゆるプロの芸術家であれば、その生活のすべてが仕事に通じるというのも分かるような気がする。

 では、作品だけでは生計の成り立たない、つまり「食う」ことの出来ない者にとっての「仕事と暮らし」の関係はどうなのか、ということを考えることがある。
 この世界に数多いる俳優、劇作家、画家や書家、彫刻家、詩人、デザイナー、ダンサー等々、その多くは自分が作品を創り出すことだけで食べていくことは出来ない。アルバイトを掛け持ちしたり、派遣社員として、あるいはフルタイムの会社員として勤めたり、学校等で教えたり……様々な手段で日々の糧を得ながら、家族を養い、制作のための材料を買いそろえ、残されたわずかな時間をようやく自分の創造のために使うのである。
 しかし、そうした時間のとらえ方――自身がめざす芸術のために費やす時間とそれ以外の時間とを区別する考え方は果たして正当なものなのだろうか。

 うろ覚えで申し訳ないのだが、昔読んだ永島慎二の「漫画家残酷物語」の中で登場人物の一人が、サンドイッチマンの仕事をしながら、「本当に描きたい漫画を描く一時間のために、十数時間をアルバイトに費やすことに何の悔いもない」と言うシーンがあって強く印象に残っている。
 それは、同じ漫画を描くのでも、ただ売れればよいとばかりに意に沿わない漫画は描かないという宣言なのだ。その彼にとって、アルバイトの時間は創作と無縁の時間ではない。それは本当に描きたいものを描くための一時間と直結した時間なのである。

 いま私は違うことを言おうとしてうまく言えずにいるのだが、誰もが思うとおりに生きられるわけではない。誰もが夢を抱きながら、その夢を実現できるわけでもない。では、その彼らは失敗者なのか……。そうではないのである。
 自分はこうありたい、こういうものを創りたい、実現したいという夢を抱き続ける者にとって、生きている時間は、そのすべてが仕事であり、暮らしなのだと私は思う。

 そしてそれは何も芸術やスポーツやビジネスの世界での成功を夢見る者のことのみを意味するのではない。
 病気や事故、ケガで本来目指していた道をあきらめた者にとっても、残された条件の下で、自分が挑戦できる最大限の可能性を探ることは出来る。たとえ病気になる前の体力は失われ、事故に遭う前の身体能力は減退し、余命も限られたとされる場合においても、生きようという意志のある限り、生きることそのものが大切な暮らしであり、仕事となる。
 それは実に貴いことなのだ。



古い船をいま動かせるのは

2021-09-05 | 言葉
 「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という、ドイツの哲学者ヘーゲルの有名な言葉がある。
 ミネルヴァはローマ神話の知恵と芸術の守護神であり、そのミネルヴァに仕える梟は、世界中の知識を集め、一つの時代が終焉を迎え、古い知恵が黄昏を迎えたときに飛び立つというもの。



 この言葉の解釈は様々あるようだが、私としては、一つの文明や時代、既存の価値や概念が終わりを迎えようという黄昏時に、過去を見定めて次の時代に向かう、という考え方が一番しっくり来るように思える。
 (ヘーゲルは違った意味合いでこの言葉を書いたようなのだけれど)
 今はまさに時代の転換期であり、これまでのグローバル経済や成長を追い求める経済重視の考え方が行き詰まりを迎えている。そうした時に、知恵と芸術という二つの目から歴史を見定め、私たちはどんな未来に向かうことができるのだろう。

 吉田拓郎が半世紀も前に作った「イメージの詩」が、稲垣来泉ちゃんという10歳の少女によってカバーされ話題になったのは最近のことだが、その歌詞のなかの、「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という一節がもう何年も前からずっと気になっていた。
 この言葉をどう解釈すればよいのだろう。
 ごく単純に考えれば、古い体制、古い組織を動かせるのは、これまでその舵取りを握ったきた古い人たちではない、ということなのだが。では、古い人たちとは誰を指しているのか。

 先ほどの歌詞に続くのは、「なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海のこわさを」という言葉なのだが、意味深ではある。
 古い体質の組織も新しい時代に乗り出さなければならない。しかし、古い人たちは新しい海のこわさを知っている。だから、新しい人たちがその船の舵取りをすべきだ、ということなのだろうか。
 だが、その新しい人たちには船を動かすための技術や知見は備わっているのか、ただ古いものを否定し、新しいというだけで舵取りを任せることが果たして妥当なのか、古いものと新しいものの違いとは一体何なのか……。
 考えれば考えるほど分からなくなってしまう。

 この数日、秋の気配が濃厚になると同時に、にわかに政局の慌ただしい風が吹き始めるようになって不穏である。その風向きにばかり気を取られて、目の前の舵取りばかりに夢中になっていると、ことの本質=本当に向かうべき目的地を見失いそうでならない。
 ミネルヴァの梟が見定め、飛び立った方向に思いを寄せたいものだ。

歴史の書き替えは可能か

2021-05-07 | 言葉
 「歴史の欠点は、起こったことは書いてあるが、起こらなかったことは書いてないことである」と言ったのは三島由紀夫である。これは、文学座の「鹿鳴館」上演の際のパンフレットに三島が書いた言葉だそうだ。
 一方、寺山修司は「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」と言ったのだが、これもよく知られ、かつよく引用される言葉だ。
 これらを前後の文脈を顧みずにこの一文だけを取り出して比べることに意味があるかどうかはさておき、これらが一見同じことを言っているようでありながら、真逆のことを言っているのが実に面白い。
 これをどう読み取るかはリトマス試験紙のようなもので、私たちの内面に潜む歴史の捉え方や芸術への姿勢をまるごと焙り出してしまうように思える。

 三島は、起こらなかったことは歴史に書かれていない、逆に言えば、起こったことは歴史にちゃんと書かれている、という前提に立っているのであり、歴史そのものに疑問を抱いているわけではないように読める。
 これに対し寺山は、書かれたことだけが歴史なのではない、と言っているのであって、甚だ懐疑的である。
 
 しかし、これをさらに踏み込んで考えてみると、三島も寺山も、実際には起こらず歴史に記述されることはなかったが、人々が思い描きながら潰えた夢や選ばれることのなかった生き方、さらには歴史の闇に消えていった多くの苦悩や願望や空想、心理的な葛藤などがあったはずで、それらを補完する想像力や芸術の力こそが事実のみを記述する歴史に対して優位性を持つということを暗に語っているように思えるのである。
 その意味で、三島も寺山も真逆の歴史観に立脚しているように見せながら、実は同じことを言っていたのではないかと思わずほくそ笑んでしまうのだ。
 
 さて、少し観点を変えて、果たして「歴史の書き換え」は可能だろうか、という質問に対しては、どう考えればよいのだろう。
 歴史を書き換えるために、過去を創り変えることは、《現在》の自分を改変することであり、それは《未来》の自分自身にも当然影響を及ぼすことになる。
 「過去と他人は変えられない」とはよく言われることであるが、人はしばしば「過去」も「他人」も自分の思うがままに変えてしまいたいという抑えがたい願望を持つものである。
 歴史も人生も複雑に絡み合った様々な選択の結果として《現在》があるのだが、「現状の自分」に言いようのない不満を抱いた人間は、その選択の分岐点をオールリセットして、《過去》を丸ごと変えてしまいたいという欲求に翻弄されることになる。

 寺山修司の映画「田園に死す」は、「タイムマシンに乗って過去を遡り、三代前の祖母を殺したら、現在の自分はいなくなるか」という命題が重要なモチーフとなっているのだが、同じように、100年前に遡って自分自身の人生をそのおおもとからやり直したいという幻想的な願望を抱くことはあながち否定すべきことではなく、理解できないことではないとも思えるのである。
 もっともその願望は、あくまで個人的な夢想や芸術作品の中に昇華されるべきものであることもまた確かである。
 まかり間違って、本当に自分の過去を消去するために、自分の親や祖先をなきものにしようと企てる者が頻出したとしたら、それは殺戮に彩られた恐ろしい世界が出現するに違いないのだ。

 ところが、現実の世界に目をやると、驚くべきことに、わが国の政権や行政府が率先して自ら健忘症を装い、事実から目を背けるばかりか、それをなかったことにしたり、隠蔽したり改竄したりと、《過去》を消去することに躍起になっているではないか。
 これほど《歴史》というものを蔑ろにする時代がかつてあったろうか。

 「歴史とは、歴史家と彼が見出した事実との相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」と言ったのは、英国の歴史家・政治学者として著名なエドワード・E・カーだが、今何より求められるのは、《過去》を消し去ったり、歪めたりすることではなく、《未来》に向けて、冷徹に事実を発掘し、発見し、見つめながら、絶えず検証と対話を重ねていくことなのだ。
 そうして培われた豊かな土壌の上にこそ、芸術も人々の夢も希望も、豊かな花を開かせるに違いないのである。

伝える言葉

2020-12-16 | 言葉
 ナンシー・デュアルテ著「プレゼンテーション~人を動かすストーリーテリングの技法」からのメモを少し引用させていただくと、あのリンカーンのゲティスバーグの演説は278語で構成され、時間にしてわずか2分あまりのものだった、という。歴史上最も短い演説でありながら、最も偉大な演説の一つとして知られている。
 リンカーンがその短い演説のために長大な時間をかけて推敲に推敲を重ねたことは有名だ。彼は常にスピーチ原稿やメモを持ち歩き、時間さえあればそれに手を加えていたという。
 さらに、第28代アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの言葉――。
 「もし、私が10分のスピーチをするなら、準備に一週間は必要だ。15分なら3日、30分なら2日。だが、1時間のスピーチならもう準備はできている。」

 世の名演説家とされる人々は、自分の考えを、いかに簡潔に、分かりやすい言葉を使って、かつ印象深く伝えるかということに意を尽くしたのだ。

 言うまでもなく、その大前提となるのは、自分が信念をもって伝えたいビジョンをしっかり持っていることだろう。何を言いたいのか意味不明であるばかりか、訊かれたことには答えず、壊れたテープレコーダーのように的外れな言葉を空疎に繰り返し、時間を空費する為政者……。そんな現実を目の当たりにすると絶望的な気分に陥るが、だからこそ、言葉を吟味し、批評する力を私たち一人ひとりが育てていかなければならないのである。

 Twitterは、限られた文字数での発信という制約があるがゆえに、簡潔でインパクトのある言葉の鍛錬と発信に適しているとも思えるのだが、かの国の現大統領のツイートを思い出すまでもなく、実状は、誹謗中傷、デマやウソ、ささくれだった言葉の応酬によって思いもよらぬディストピアの様相を呈している。

 今は、真っ当であること、正直であること、真面目であること、真剣であること、一生懸命であるといったことを、ともすれば揶揄し、嘲弄することで自身を優位な立場におこうとするかのごとき風潮がはびこる時代である。
 しかし、そうした態度からは何も生まれないだろう、と思うのだ。
 私たちに必要なのは、人々に否定でも皮肉でもなく、肯定的なふるまいと勇気をもたらし、手を携えながら真摯に議論を深め、対話し、社会が抱える問題の本質に切り込み、その解決を促すような言葉に愚直に耳を傾けることである。もちろん、そうした言葉のつむぎ手となることが、私たち自身に求められていることは言うまでもない。
 そのような言葉こそを聞きたいと思うのだ。

名言と迷言

2020-05-13 | 言葉
5月9日付朝日新聞のコラム「多事奏論」で論説委員の郷富佐子氏が紹介しているのが英国ジョンソン首相の3月末のメッセージ映像での発言だ。
ジョンソン首相は、新型コロナウイルス感染が拡大する状況下、復職の呼びかけに応じてくれた医師、薬剤師やボランティアに名乗りを上げてくれた多くの市民に感謝し、こう締めくくったのだ。
「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会というものは、本当に存在するのだ」
この「社会は存在する」というのは、同じ保守党の故サッチャー元首相が残した「社会など存在しない。あるのは個人とその家族だけだ」という有名な発言のもじりなのだが、サッチャー氏本人は後に「(本意が)ゆがめられた」と嘆いたという。
ご本人が実際にどう言ったかはさておき、この言葉は、新自由主義と個人主義を推し進めたサッチャー氏の信念を象徴する言葉として世の中に流布されている。

一方、「イングリッシュ・ジャーナル」6月号の「柴田元幸の英米文学この一句」では、柴田先生が、シャーロック・ホームズが言ったとされる「Elementary,my dear Watson.」(「初歩的なことだよ、ワトソン君」)というよく知られた言葉を紹介している。
この言葉だが、実のところ、コナン・ドイルが書いたホームズもの全作品を見ても、このフレーズはどこにも出てこない。このことはホームズファンの間では、かなりよく知られていることであるらしい。

柴田先生曰く、「ホームズが一度もそう言っていないにもかかわらず、このフレーズが人口に膾炙したのは、それがいかにもホームズらしい発言、ドイルは書いていないけれど書いていても全然おかしくなかった一言だからだろう。人々の知恵が、ドイルを編集したのだ。いわば『正しい誤引用』」とのこと。

そういえば、よくビジネス書などでも引用される進化論で有名な生物学者ダーウィンの名言に「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、激しい変化にいち早く対応できた者である」というのがある。
経営トップの方々もよく引用される言葉なのだが、これもまたダーウィンの全著作のどこを探しても出てこないとのことだ。つまり、ダーウィンはそんなことは言っていないのだ。

こうした例は枚挙に暇がない。あの人ならこう言ったに違いないという誰かの思い込みや人々の共同願望が形になったものなのだろうか。
いずれにせよ、これらの言葉はその時代や世相を反映しながら、私たちの生活を味わい深いものにし、ある意味で豊かにもしてくれる。目くじら立てることではないのかも知れない。

だが、そう言っていられないのが政治の世界である。
私たちの暮らしや国としての行く末に影響を及ぼしかねない政策決定が、誰かが思い込んだり勝手に捏造された言葉の「誤引用」で左右されてはならないだろう。
それゆえにこそ、政策の意思決定の論拠やプロセスを明らかにし、後世に残すための議事録や公文書の作成・保存は極めて重要なものなのである。
ゆめゆめおろそかにしてはならない。

語る歌/歌う言葉

2013-02-10 | 言葉
 映画「レ・ミゼラブル」を観てから、言葉と音楽の関係についてもっと考えなければと感じたのだが、脳神経科医で「レナードの朝」の作家として知られるオリバー・サックスは「知の逆転」の中で次のように語っている。
 ……言語能力をなくした失語症の患者でも、本人にとっても驚きであるが、(言葉を失っても)歌を歌うことができる。患者に接する医師(この場合はサックス)がまず歌い始めると彼らも一緒にあわせて歌ってくる。歌っているうちにメロディーだけでなく言葉が思い出されてきて、これを取っ掛かりとして、新たに言語を呼び戻したり、言語野がないほうの脳で言語的な発達を促すこともできる。
 アルツハイマー病患者の場合も、古い歌、昔の歌など知っている音楽に対してうつろだったり興奮している患者も静かに聞き耳を立て始め、涙を流したり微笑んだりする。音楽が、昔それを聴いていたときの感情や情景の記憶を呼び覚ますからと思われる。
 個別の記憶やエピソード記憶は失われてしまっても、音楽は残っている。
 音楽の力は、一般的にも多かれ少なかれ病気によって侵食されず残っているのである。……

 言語と音楽が不即不離の関係にあることの何よりの証左であるが、最近こんな話も聞いた。
 障害者のグループホームなどを運営するNPO法人の代表者で、障害者の音楽活動に熱心に取り組み、今年はカーネギー・ホールでのベートーヴェンの第九演奏会に挑戦するというUさんの話だ。
 成人近い年齢まで日本で育ち、その後アメリカなどに移民として渡った人々が、何十年を経るうちに英語を覚え、不自由なく生活できるようになって、いつしか日本語を忘れてしまう。
 ところが老齢になってやや認知症も疑われるようになったとき、英語での会話が次第に覚束なくなり、それとともに今度は忘れていたはずの日本語を話し始めるというのだ。
 「そういう人たちは子どもの頃に覚えた日本唱歌や民謡を歌ってあげると本当に喜んでくれるのよ」というわけだ。
 こんなエピソードからも言語と音楽の関係について様々に考えを巡らすことができるだろう。

 さて、オリバー・サックスによれば、「ロリータ」で知られる作家ナボコフは音楽を理解することができない音楽不能症だったそうだ。前頭葉のある部分の結合が欠けていたと思われる。ナボコフにとって音楽とはイライラする音の連続に過ぎなかった、というのだが実に興味深い。
 たしかカフカも音楽を雑音としか認識しなかったという話を聞いた覚えがあるが、こうした作家の書くものには何か共通する特質があるのだろうか。
 一方で執筆中は何か音楽がかかっていないと書けないという作家もいるし、例えばSF作家のP・K・ディックはヘッドホンを耳にハードロックを大音量でガンガンに響かせながら書いたという。
 ロシア革命によって移民したナボコフは、母語ではない、習得した言語である英語を使って難解な魔術的文体と称される数々の小説を書いた。
 そこに何らかの秘密があるのだろうか。興味深い話だ。

重い言葉

2012-11-21 | 言葉
 新聞のコラムを読んで涙することなどめったにないのだが、何日か前の日経新聞春秋欄に紹介されていた森光子の言葉にはなぜか胸が熱くなってしまった。

 歌手の松任谷由実の対談集「才輝礼賛」に収載されているそのくだりは次のようなものだ。
 松任谷由実が訊ねる。
 「(私は)こんなにステージをやってきて、お客さんも喜んでくれているけど、この先に何があるんですか」
 それに対して森光子が答える。
 「飽きないでください。それだけでいいです」
 34歳年長の女優の言葉にユーミンは、「ズッシリ受け止めました」と応じた。

 「ズッシリ受け止め」ることができたのは、それを発したのが、40歳を過ぎてようやく主役の座をつかみ、その後40数年をかけて「放浪記」という舞台を2000回も演じ続けた森光子だからであり、それを受けたのが20歳そこそこのデビュー以来、30数年も第一線のステージに立ち続けてきた松任谷その人だからである。
 私のように飽きっぽく、何もかも中途半端な人間にその本当の価値は分からないだろう。
 松任谷由実が「ズッシリ受け止めた」その言葉の意味は重い、と素直に思う。

バタフライ効果

2012-01-03 | 言葉
 1876年、グラハム・ベル、エリシャ・グレイ、トーマス・エジソンといった人々によって電話が発明されたが、それは当時の最新技術であった新型電信機の開発競争の中で生み出されたものであった。今の電話とは似ても似つかないもので、当時の人々は誰も実用化に値するものとは思ってもいなかった。

 1874年、モネ、ピサロ、ドガ、ルノアール、セザンヌ、シスレーらによって「画家、彫刻家、版画家の匿名協会」と題する展覧会が開催された。印象主義の誕生であるが、当時彼らの作品は人々に受け容れられず、嘲笑の的だった。
 マネの作品「印象、日の出」を観た新聞記者は「なるほど、印象的にヘタクソだ」と揶揄し、それが印象派の名前の由来となったという。

 1903年12月、ライト兄弟は自ら製作したライトフライヤー号により、人類初の動力飛行に成功した。4回の飛行実験を行ったが、4回目の飛行は59秒間、260メートルだったという。
 この成功に当時の人々はまったく冷淡で、あるアメリカの科学者は「機械が飛ぶことは科学的に不可能だ」とのコメントを新聞に発表した。飛行機が実用化されるなどとは誰も夢にも思わなかったのだ。

 1953年、パリのバビロン座でひとつの作品が上演された。サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」である。後には演劇の概念を変えた不条理演劇の傑作とされ、今も世界中で上演される作品だが、当時、聴衆の反応の9割は無視か敵視だったという。

 モダン・ダンスの大家マース・カニングハムが若かりし日に、前衛音楽家ジョン・ケージとオハイオの美術館で公演を行ったが、それを観た人々は感情的な悪口を言うばかりで、若い2人はがっかりしてニューヨークに帰った。
 ところが10年後、ある人がジョン・ケージとカニングハムに向かい「私の人生はあの晩、変わったのです」と告白した。発明品や形の残る美術作品とは異なり、夢にように儚い芸術である舞踊が観客の心に残り続け、その人の人生まで変えてしまったというのだ。

 ある小さな行為や取るに足らないと思われた試みが、のちには世界を変えるような力を持つことがある。

 ドラッカーは、著書『新しい現実』(上田惇生訳/ダイヤモンド社)に次のように書いている。
 「数学的に厳格に証明され、さらに実験的にも証明された法則によれば、アマゾンの熱帯雨林で羽ばたきする蝶は、数週間後あるいは数ヵ月後、シカゴの天候を変えることができるし、事実、変えることがある」
 有名な「バタフライ効果」と呼ばれるものであるが、この言葉には何とも言えず勇気づけられる。

 さらにドラッカーは、未来を知る=予測する1つの方法は、自分で未来をつくることである、と言っている。
 単純に言えば、子どもを1人つくれば、人口が1人増えるといった話であるが、それと同じように、たとえ小さな会社でも何か事業を起こせば、世の中を変えてしまう可能性を持つ。歴史はそうやってつくられるのだとドラッカーは言う。
 歴史とは、ビジョン=夢を持つ1人ひとりの起業家がつくっていくものなのである。

 最初に記述したいくつかの挿話は、そうやって未来を創っていった人々の話である。
 蝶の羽ばたきのようにはかなく頼りないものかも知れないが、今日、私たちが取り組む「仕事」が明日の世界を創るのだと信じて、一歩、そして次の一歩を踏み出そう。



言葉を発する

2011-12-31 | 言葉
 群馬県の伊勢崎市で陶芸をやりながら詩を書いている友人から何冊かの詩集・詩誌を送ってもらった。彼を含む3人の仲間で発行している詩集や彼が参加している同人誌である。
 それらを今ぼんやりと眺めるように読んでいる。
 いま、言葉を発するのが難しいときだ。それでもやむにやまれず表現しようとするのが人間なのだろう。語り得ぬものの前で沈黙するのではなく、あえて言葉を発しようとする行為、それは貴いものだと思うけれど、それをいかに受けとめるか、それは私自身の問題である。

 言葉を発することはおろか、それを読み、受容する方向に自身を押し出す力が希薄になっているようだ。これは衰退なのか、怠慢なのか。
 あふれる言葉を前にそれらの意味をつかみ取るにはそれなりの力が必要だ。
 こういう時、何となく惹かれるのが短歌や俳句、漢詩といった類の表現形式である。
 どうにも気持ちの弱ったときには、最近買った山川登美子の歌集や杜甫の詩などが不思議に心を慰めてくれる。
 これはそれらの定型的な表現様式が、とらえどころなく曖昧な言葉というものに一定の形=拠り所を与えているからなのか。

 1929年、萩原朔太郎は幼い2人の娘を伴い、老いた両親のいるふるさと前橋に戻った。
 13歳年下の妻が去り、家庭が崩壊しての帰郷だったという。
 詩集「氷島」の一編「帰郷」には、「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱えて」との添え書きがある。もっともこれには多分にフィクションが入っているそうだ。
 この「氷島」は朔太郎が切り開いた口語自由詩ではなく、文語調で書かれている。
 これについて朔太郎自身「明白に『退却』(リトリート)であった」と認めているそうだが、定型の詩にはそうした弱ったこころを慰めてくれる何らかの作用があることの証左かも知れない。

 さて、友人の詩をあらためて読み返していて、そのすばらしさに瞠目する瞬間がある。
3・11後の世界を彼なりの言葉で捉えようとする力があるのだ。
 「これから起こるかもしれないことと/起こってしまったことの間で/目を覚まし続ける」それらの言葉は、「結晶」となって私のもとに届けられた。

 そうした言葉の力に鼓舞される。私も目覚めなければならない。

その前と後の表現

2011-09-12 | 言葉
 すでにひと月近くも前の記事だが、8月17日付の日経新聞夕刊に載っていたシンガー・ソングライター山下達郎の発言が気にかかっている。
 要約された発言のさらにその一部分だけを引用することは誤解を招きかねず、ご当人にも迷惑このうえないことだろうが、あえて抜書きをメモすると次のようなものだ。

 「・・・・・・大衆音楽が震災後のこういう状況でどんな役割を果たせばいいのか。言葉にすると陳腐かもしれないが、人々を励まし、元気を与え、癒すことだろう。歌が聴き手に寄り添い、メロディーや詞が生活するうえで助けにならなければいけない。ポピュラー音楽は大衆に奉仕する義務がある。」
 「・・・・・・シンガー・ソングライターは実体験を歌にフィードバックする。文学でいえば私小説だ。だから、もともと僕らの歌は作り手と聴き手が同じ空気感を共有し、互いの距離が近い。・・・・・・今はシンガー・ソングライター的なアプローチが有効だと思う。リアリティーがないと聴き手に響かないからだ。
 ある種の前衛芸術は、いまのような局面になると力を失うだろう。人々の心がよじれてしまっているときによじれた表現は無用。アバンギャルドというのは安定のなかでこそアンチテーゼとして機能する。」
 「(今後)震災の前と後という概念で文化表現が選別される可能性がある。既存の表現が機能しなくなるかもしれない。表現者にとってはとても厳しい時代になる。」

 文脈や発言の流れが記者によって編集されているから必ずしも本意でないところもあるかもしれないが、山下達郎のこの意見には同感するところとどうにも納得できないところがある。
 ポピュラー音楽の創り手としてのスタンスはたしかにそうだろうと理解できるのだが、これからは「表現」が選別される可能性があるとのくだりには違和感を覚えざるを得ないのだ。
 それは、あらゆる表現が一方向に向かうことを是としてしまうことを意味するのではないか。

 8月31日付の同紙には、作家・辺見庸がインタビューに答えた記事が載っている。

 辺見庸もまた、ドイツの哲学者アドルノが1949年に語った「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉を引用しつつ、「あの巨大な破壊と炉心溶融の後に、以前と同じ言葉、文法、発想は使えないという気持ちが非常に強い。書くそばから消して、死産ばかりだ。出てくる言葉が、3・11以前と同じであることにどうしても納得がいかない。」と語り、震災後における表現の困難さに直面していると語る。
 しかし、それは山下のいう「選別」とは異なる次元の問題意識に基づくものであろうと思う。

 辺見庸は続けてこう語るのだ。
 「いま、詩に限らず、表現の多くが震災を大変な悲劇としてとらえ、悼むことに多大なエネルギーを費やしている。無理からぬ成り行きだろうが、僕は薄気味悪さを覚える。
 坂口安吾は空襲の破壊の美を書いた。中山啓という詩人は関東大震災で2つに折れたビルの様子を「愉快」だとよんだ。悼み、悲しむ姿勢とは対極にある、そのような言葉を、今日受け入れる自由な空気があるか。書こうとする作家や詩人の存在があるか。恐らくない。そのことに危うさを感じる。
 国難が叫ばれ、連携や絆、地域、国家を重んじる時代には、往々にして、特異な個人が排除される。……いま必要なのは手に手を取って「上を向いて歩こう」を歌うことじゃない。個人がありていに話す空間、新しい知をつくることが希望に至る一筋の道だ。」

 苦渋のなかから吐き出される言葉には錐もみするような痛みを伴いながら肺腑を抉る鋭さがある。

 9月9日付毎日新聞夕刊では、作家の五木寛之がこんな話をしている。

 「沖縄の版画家、名嘉睦稔さんが書いていました。自らバンドを結成して、老人ホームに慰問に行った。お年寄りを元気づけようと明るい曲を演奏したら、怒られた。おれたちは悲しい。悲しいときには悲しい歌が聴きたいんだ、と。歌謡曲の多くは失恋を歌っているでしょ。涙、別れ・・・・・・。立ち上がれないとき、人は悲しい歌を欲しがるんです。大きな悲しみに出合ったとき、どうすればいいか? 本居宣長も言っています。悲しい、悲しいとつぶやき、叫べ、と。その叫びが歌になるのだ、と。」

 いま、巷には被災地や被災者を元気づけようとする言葉や言い回しが溢れている。
 いわく、わたしたちの歌で元気を届けたい。このイベントの盛り上がりが少しでも被災地の皆さんのところに届きますように。この勝利が被災者の皆さんに勇気を与えてくれますように・・・・・・。
 あらゆる表現が、行為が、・・・・・・のために、という言い訳や前提のもとに語られる。
 そうしたカギカッコつきの表現が世の中に充満し、そうでないものは選別され見向きもされなくなる。
 それが健全な状態でないことは確かだろう。
 表現は、芸術は、もっともっと多様なものであるはずだ。

論語と演劇

2011-02-13 | 言葉
 最近よく(といっても気が向いたときだけれど)論語をひもといてはその言葉を噛み締めている。
 論語と聞くと何だか説教くさくて堪らないと思っていたし、孔子という人物があまりに立派な出来すぎた御仁でなんとも鬱陶しい先生のように思えてならなかったのだが、いつだったか、日本経済新聞日曜の書評欄の名物コラム「半歩遅れの読書術」のなかで次のような読み方が披露されていて思わず納得してしまった。
 お書きになっていたのが誰だったのかすっかり忘れてしまったのだが、孔子が急に身近な人に思えてきたのだ。
 紹介されていたのはあまりに有名な次の言葉である。
 「子曰く、吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」

 これは次のように読めるというのである。(記憶だけで書くので少しニュアンスが違っているかも知れないけれど)すなわち、
 「私は15歳になるまで学問などしようとは思わなかった。30歳になるまで自立できなかったし、40歳になるまで誘惑に負けてばかりだった。50歳になるまで自分の使命に気づきもしなかったし、60歳になるまで人の言うことなんかに耳を傾けなかった。70歳になるまで自分勝手に行動してはついつい行き過ぎて失敗ばかりだった」

 ・・・・・・どうだろう、急に孔子が悩み多き身近な友人のように思えてきたのではないですか?
 論語はまさに孔子がその生活の中で悩み、傷つき、失敗を重ねながら体得した言葉の積み重ねだったのである。そう思うと、説教ばかりと感じていた言葉の数々がまるで違ったもののように心に響いてくるのではないだろうか。
 
 思いついた言葉を並べてみると、次のようなものがある。
 「子曰く、父在せば其の志を観よ。父没すれば其の行いを観よ。三年父の道を改むる無くんば、孝と謂う可し。」

 私たちはついつい先人の教えからどうやって脱却しようと焦ってばかりいる。それをイノベーションとか改革とか格好良いことと思いがちだ。
 中村勘三郎さんが若い頃、先代の勘三郎さんから教えてもらった役を何とか自分流に変えようと苦心していたときのこと、
 「頼むからオレの目の黒いうちは教えたとおりにやってくれ」と云われたという有名な話がある。
 一方で、「伝統は革新の連続によって創られる」という意味の言葉もある。とりわけ伝統芸能の世界にいる方々から聞くことが多い。
 要するにこれはただ単に真似をしていろということではないのだろう。その志やめざすべきところ、その行いの底にある思想を受け継げということなのかも知れない。そう思うと、この言葉は限りなく深いものに感じられる。

 「子曰く、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。」

 これはどういうことだろう。
 誰もが公平な心と眼で正しい評価ができるわけではない。どれほど尊敬できる人生の先達であっても常に正しい情報を持ち、身びいきにならない公正な鑑識眼を持っているとは限らないということだ。まして周りには「巧言令色」の輩が跋扈している。悲しいことだけれど。

 「子曰く、父母に事えては、幾諫す。志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。」

 尊敬すべき父親世代の扱いほど厄介なものはない。
 もしその行いや考えが正しくないときにはそれとなく諌めるが、それでも父母がそれを受け容れないのであれば、もとどおり敬意を払って従い、世話を続けて文句は言わない、ということだ。
 孔子も内心手を焼いていたのではないだろうか、その困って苦笑する顔が思い浮かぶようだ。

 芸術の世界において世代間の闘いはどうあるべきなのか。
 芸術は先行する価値観を乗り越えることによって新しいものが生まれる。それは宿命なのだ。であれば先人からの批判を畏れていてはならないだろう。

 10日付の日本経済新聞に野田秀樹氏のインタビュー記事が載っている。
 今の若者と接して感じることはと問われて、
 「自分の20代の頃と比べて傍若無人なのが減った。日本の文化全体を見ても元気がない。・・・80年代のサブカルチャー的なものを焼き直しているように感じることが多い」と答えたあと、その飽和状態をどう突破できると思うか、との問いに対し、次のように語っている。
 「たぶんそれは次の世代の仕事でしょう。僕にとっては不愉快なものかもしれないけど、いつか強い表現が出てくるだろうと思う。僕の若いときだって、上の世代からは不愉快に思われていたかもしれないので」

 その意見に賛同する。
 若い世代よ、がんばれ。大いに不愉快なもの、演劇はこうあるべき、こうあらねばならないといった既成概念を打ち壊す強い表現を創り出してほしいものだ。


赤い鳥

2010-07-03 | 言葉
 7月1日、西池袋にある自由学園明日館で「第40回赤い鳥文学賞」、「第28回新美南吉児童文学賞」、「第24回赤い鳥さし絵賞」の贈呈式があり、その会場に顔を出す機会があった。
 この日、7月1日に贈呈式を行うのは、今から104年前、1918年(大正7年)7月1日に作家・鈴木三重吉によって雑誌「赤い鳥」が創刊されたことに因んでいる。
 その「赤い鳥」の足跡を顕彰するとともに後進の作家を世に送り出すという使命感をもって、この文学賞の創設に尽力したのが「びわの実文庫」で知られる作家・坪田譲治である。
 その坪田譲治の旧宅もこの日の会場となった自由学園のすぐ近くにある。

 残念なのは、その「赤い鳥」の名を冠した文学賞も今回をもって幕を閉じることになったということ。いろいろ事情はあるだろうがもったいない、と思うのは部外者の勝手である。
 この賞の運営は坪田譲治先生のお弟子さんたちを中心に行われてきた、その人たちが次第に高齢化して、まだ元気なうちにきちんと仕切りをつけたいということなのだろう。それはそれで潔い考え方だ。

 さて、各賞の受賞者と作品は次のとおり。
 第40回赤い鳥文学賞: 岩崎京子「建具職人の千太郎」(くもん出版)
 第28回新美南吉児童文学賞: 三輪裕子「優しい音」(小峰書店)
 第24回赤い鳥さし絵賞: 田代三善「建具職人の千太郎」(くもん出版)

 ここで紹介するゆとりがなくて残念なのだが、受賞された皆さんのスピーチが素晴らしかった。岩崎さん、田代さんともに米寿ということのようだが、独特のユーモアと絶妙の間で会場を沸かせていた。
 田代さんの挨拶には、今は寝たきりになられた奥様への愛情もこもって胸が熱くなった。
 受賞の報告をすると、意識があるのかないのか定かではないが、奥様はその本をそっと手で撫でたのだそうだ。
 田代さんは今回の自身の作品について、職人を主題にした絵としては「少し色気が足りなかったようだ」と反省の弁を述べておられる。
 「自分は88歳だが、まだ少し時間が残されているようなので、もう少し描いてみようかと思う」との言葉には聞いているこちらが励まされるようだ。

 最近、何となく心のすさむような出来事が多く、鬱屈を抱えたような気分でいたのだったが、きれいな水で洗われたような清々しさをいただいた。

トリツカレルということ

2010-06-30 | 言葉
 四世鶴屋南北は56歳でその名を襲名し、70歳で「東海道四谷怪談」を書いたそうだ。
 「お岩幽霊」の劇作家・坂口瑞穂氏はその芝居のパンフレットの中で南北のことをトリツカレタ男と形容している。
 南北は読み書きが得意ではなかったという説があるようだが、そんな老狂言作者が、深夜ひそかに筆を舐めつつお岩殺しの話を一字一字書き進めているという図はその怪談以上に怖ろしい。
 そのエネルギーというか執念の源はなんだったのだろう。

 27日の日曜日、立教大学で行われた市民向けのパネルディスカッションを聞く機会があった。
 「つながるいのち……いま生物多様性を考える」をテーマとして、東京女子体育大学の圓谷秀雄教授がコーディネーターを務め、横浜国立大学名誉教授の宮脇昭氏、立教大学理学部教授の上田恵介氏が話をした。
 宮脇昭氏は「今年わずか82歳」と自称される植物生態学者だが、世界中に4千万本の木を植えた男として知られる方だ。
 一昨日ロシアから帰国したばかりで明日にはもうモンゴルに旅立つという。劇場の暗がりに棲みついて、一つの町からからほとんど外に出たことのない私など、さしずめ純粋培養のひよわなモヤシでしかない。
 宮脇節とも言えるそのお話はまさにエネルギーに満ちている。ここにもトリツカレタ男がいた。

 その生物多様性だが、いまや日本では4つの危機にさらされているという。
 そのうちの3つが人間の営為によるものなのである。
 第1が、開発や乱獲など、人間活動による種の減少・絶滅、生息・生育地の減少。
 第2が、人間活動の縮小(里地里山などの手入れ不足等)による自然の荒廃。
 第3が、人間により国外から導入された外来種による地域固有の生物相や生態系の撹乱。

 これらもまた、何かにトリツカレタ人間たちの所業なのだろうか。


 

無名ということ

2010-06-20 | 言葉
 俳優にとって、あるいは多くの芸術を志す人間にとって成功とはなんだろう。
 隠棲したいまとなってはもはやどうでもよいことのように思えるけれど、若い頃の自分は「無名」であることに拘っていた。振り返れば青臭い考えなのだが、そのことで自分のなかの純粋性に酔っていたのだ。
 成功することがマスコミに取り上げられ、映画やテレビドラマに出ることを意味するのならそんな成功はくそ食らえと本気で思っていた。オレのタマシイは売り渡さないぞというわけだ。
 しかし、観客に観てもらってはじめて成り立つ演劇(この定義には異論があるかもしれないが)にとって、無名であることはそのまま興行上の不採算を意味する。
 結局、客は自分でチケットを売りさばいて呼んだ知り合いか、コアな何百人かの固定客にとどまって広がりをもたない。
 その大半は演劇自体には何の興味もない観客ばかりだから、そうした人々を相手に媚びた瞬間、舞台は荒れ果ててしまい、そんなものを誰も評価しない。
 当然、芝居では生活ができないからバイトで食いつなぐか、誰かの世話になるしかない。そうやって、芸術上の成功という問題以前の生活に疲れてしまい、舞台を去っていった何人もの優秀な舞台俳優たちがいる。

 「語るピカソ」(ブラッサイ著、飯島耕一・大岡信訳)のなかでピカソはこう言っている。
 「芸術家には成功が必要だ。パンのためだけではなく、とくに自分の作品を実現するためにだ。金のある芸術家ですら成功しなければならない。芸術について何かがわかっている人はほんとうに少ない。すべての人に絵画への感受性があたえられているわけではない。大部分の人は、芸術作品を成功の度合いによって判断する。(中略)ぼくを守る壁となってくれたのは、私の若い時代の成功だ・・・・・・青の時代、バラ色の時代、それはぼくをかばってくれた衝立みたいなものだった・・・・・・。」

 成功とは何か、ということを明確に定義づけることは難しい。所詮それは一人ひとりの価値観の問題なのだ。
 だが、その瞬間に立ち会ってもらわなければ成り立たないパフォーミング・アーツにとって、一人でも多くの観客を集めることは成功・不成功の価値判断に直結する。

 腹話術の芸人である「いっこく堂」が何かのインタビューで、昔まだ無名だった頃、ボランティアで芸を披露したときのことを語っていた。
 ある高齢者の福祉施設かどこかでのことだ。自分ではよい出来だと手応えを感じた舞台だったのだが、ある中高年の女性から、彼がまったく「売れていない」芸人ということでその芸まで揶揄されてしまった。一方、その女性は同じ舞台に出ていたテレビに出始めのタレントの歌を絶賛したそうで、彼は「売れていなければ評価もされない」ということを思い知ったという。

 最近、小劇場といわれる舞台にもアイドル系のタレントや俳優がこぞって出演するようになった。まさに私のような化石時代の役者の目からは隔世の感がある。
 これは言わずもがなのことだが、多くの観客を集めたい興行上の要請と、そうした舞台に出ることで箔をつけたいタレント側の利害が一致したということで、それだけ演劇が認知された証左と言えなくもないのだろうが、そこには留意すべき陥穽がある。
 芸術的良心を売り渡した瞬間、舞台はお子様ランチと化してしまうからだ。

 森まゆみ氏が地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の草創期のことを書いた「『谷根千』の冒険」のなかにこんな文章がある。
 創刊したばかりの地域雑誌の広告取りや委託販売の依頼に行っては、まだまだ冷たいあしらいを受けていた頃のこと。あるきっかけでその雑誌が新聞に取り上げられ、テレビでも報道されたのだ。
 「しかし、たしかにマスコミは偉大であった。何度、私が目の前で心をこめて広告や委託をお願いしてもウンといわなかったお店が、新聞に出たとたん、『あんた新聞にでてたでしょう』と相好をくずす。『奥さんテレビ映ってたね』とあっさり信用してくれる。この権威付与装置としてのマスコミの効果はすごい。すごいというか恐い。」

 結局のところ、観客の評価を信用してはならないということだ。
 であるならば、自分のやるべきことを愚直にやりぬくしかないのではないか。

 今日の毎日新聞にジャズピアニストの故ハンク・ジョーンズのこんな言葉が載っている。
 「練習を1日休むと弾いている自分が、3日休むと妻が(技術の衰えに)気づき、1週間休むと仕事がなくなる」
 「世にピアノプレーヤーはごまんといるが、ピアニストはほんの一握りだ」
 「演奏は、一人でできるものじゃない。大きな耳で共演者の音を聴いて対話するものなんだ」

 心に刻み込みたい言葉だ。

逆走するシマウマではなく

2010-06-09 | 言葉
 今週のはじめ、株式会社セルコの代表取締役社長小林延行氏の講演を聴講する機会があった。巣鴨信用金庫がメンバーシップ向けに開催する特別講演会なのだが、ひょんなご縁でご招待いただいたのだ。
 「立ち上がれ中小企業・・・時代は俺たちのものだ!!」という演題とともに「倒産の危機から世界一のコイル技術の会社へ」という惹句が目を引く。
 定員300人のホールは多くの中小企業経営者や起業を目指す人々でいっぱいの熱気に満ちていた。

 小林社長は長野県小諸でセルコというコイル製造会社を経営しているのだが、そのほかに農業経営、普通の人のエッセイクラブ副編集長、オヤジロックバンド「セルパップブラザース」リーダーなど多彩な顔を持つバイタリティにあふれた人だ。
 経営理念は「Harmony and prosperity in Self-controlled people(自らをコントロールし調和と繁栄をもたらす)」とのことで、会社名の「セルコ」は、このセルフコントロールを略した言葉なのだ。

 2時間の講演はあっという間に過ぎたが、私が特に関心を持ったのは、完全なる秘密保持と創造のためのコラボレーションのバランスである。
 秘密保持を危機管理と捉える考え方には、自社で開発したどのように独創的なアイデアも大企業相手に気を許したその一瞬にノウハウは盗まれるという苦い経験があるのだ。
 一方で自社製品の開発には、異分野で同様の志を持ちアイデアを共有できるパートナーとのコラボレーションが欠かせない。その見極めが生命線といえるのだろう。
 セルコでは、コラボによって、磁気を使って金属の状態を調べるセンサーの開発や、セルパップコイルという痛みや凝りをほぐすコイルの開発に成功している。こうした話には興味が尽きない。

 講演の最後に小林社長は中小零細企業の社長の生き方・考え方について話をした。
 ライオンに食べられてしまうシマウマはどんなシマウマか、というのである。それは足の遅いシマウマだろうか。体力のないシマウマだろうか・・・。
 答えは、襲われたことでパニックを起こし、ライオンの群れに向かって逆走してしまうシマウマなのだそうである。
 そうならないために、悩みや不安に打ち勝つ方法として小林社長は次の4点を挙げている。
 A,悩んでいる、不安になっている対象をはっきり突き止めること。
 B,その対象となっている事象を徹底的に調べること。
 C,その事象の実態がはっきりしたら、それを解決するための解決策を考えること。
 D,それに向かって、でき得る限りの努力をすべく行動に移すこと。

 上記の考え方は、デカルトの「方法序説」第2部に書かれている4つの規則と共通している。
 その第2、第3の規則として、デカルトはこう言っている。
 「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」
 「わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと」

 これらの言葉は私たちに多くのことを教えてくれる。

 最後にもう一つ、小林社長は、終戦後にシベリアに抑留されながら無事帰還した人から聞いたという話をした。
 飢えと寒さで次々に倒れていく同僚たちの骸を目にして、その人は芝居をすることを思いついたという。仲間とともに台本を考え、楽しい芝居を演じて見せ合い、希望の灯をつなぐことで彼らは生き抜いたのだ。
 芝居や音楽、芸術には力がある・・・、それはたしかなことである、はずだ。