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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

白い象

2011-01-23 | 読書
 正月、テレビのバラエティ番組の多さにはいささか食傷気味になったが、中にはハッとするような発見のあることもないわけではない。
 何の番組だったか、お笑い芸人やタレントが知識を競う3択クイズのなかで「白い象」は英語の俗語で何を意味するか、という質問があった。
 これは外国語の堪能な人にはありきたりの常識的な問題なのかも知れないのだが、答えは「無用の長物」である。無知な私はその答えを聞いて、突如視界の開けるような思いに捉われた。いわゆるアハ体験である。
 私が敬愛するヘミングウェイの短篇小説に「白い象のような山並み(Hills Like White Elephants)」という題名の小説があるのだが、そのタイトルと小説のなかで登場人物たちの交わす会話の意味が一挙に腑に落ちたような気になったのだ。

 この小説には当然何種類もの訳と版があり、それぞれ微妙にニュアンスが異なるように感じるのだが、この文庫本で10ページ足らずの短い小説を私は長く自分のなかのランキングの上位に置いてきた。
 うっかりと引越しを繰り返すうちに行方が分からなくなってしまった集英社版「世界の文学」に収録された翻訳が素晴らしく、私は友人にもことあるごとにその小説の魅力を語ってきた。(その翻訳者の名を私は失念したままなのだが・・・・・・)
 「こんな短篇が死ぬまでに一つでも書けたらほかに何も書けなくてもいい」くらいのことは言っていたように思う。
 友人は新潮文庫の以前の版でそれを読んだが、今ひとつピンとはこなかったようだ。「お前がそれほどまでに言う意味が分からない」としきりに言っていた。

 当然、私はそれぞれの本の末尾に書かれた解説を読んではいる。
 いま、新潮文庫のヘミングウェイの翻訳は高見浩氏のものになっているが、その「われらの時代・男だけの世界―ヘミングウェイ全短編1-」のなかで、訳者はその比喩の意味について「白い象(象の白子)は飼育にとびきり金がかかるため、昔、タイの国王は意に染まない家臣にわざとこれを送って破産させたという。転じて、“貴重だが始末に困るもの”の意を含む」と解説している。
 以前からこの解説を読んで知っていたにも関らず、クイズ番組の答えを聞いて何故いまさらのようにハッとしたのか・・・・・・。
 結局、それが俗語として一般に流通する言葉であるということの発見であったわけだ。
それが言葉の背後に秘められた隠喩であることと、日常会話でも頻繁に使われる俗語であるということには、大きな懸隔があるのだ。
 小説の主人公たちは、旅先で出来てしまったもの(無用の長物)の処理について言い争い、目の前に広がる山々が「白い象」のように見えるかどうかについて虚しい会話を繰り広げる。

 この小説について、篠田一士氏はその著書「二十世紀の十大小説」(1988年刊)のなかで、読んだはじめは訳の分からないところがあまりに多過ぎて、とてもすんなり呑み込めるようなものではなかったが、「折にふれ、なにかのハズミで、この短篇小説を読みかえすたびに、『白象に似た山々』のすごさは、次第にあきらかとなり、いまは、なんら躊躇うことなく、ヘミングウェイの傑作短篇のなかでも、第一等のものと推すだけの心構えはしかとある」と書いている。

 昨年3月に刊行されたちくま文庫版のヘミングウェイ短編集の解説のなかで、編訳者の西崎憲は、「『白い象のような山並み』は快い作品でもないし、愛玩するような作品ではない。むしろ読んだ後に残るのは漠然とした不快感だろう。しかし、この作品がデフォー以来世界中で書かれた短篇小説のなかで屈指のものであることに疑いをさしはさむ余地はない」と言い切っている。

 小説の魅力を文章で語ることは、舞台の印象や美術作品の美しさについて語ることと同様に虚しい。
 そう思いながら、もう一度西崎訳でこの小説を読んでみる。
 まるでト書きのようにそっけなく事実を連ねただけのような地の文に、登場人物の会話が芝居の台詞のように重ねられる。交わされる言葉の背後では、“始末に困る贈り物”を間において交錯する心理が綾をなしながら火花を散らす。
 これはこのままで上質な一幕の芝居になるのではないかな。そんなことを思いながら、そっと余韻を味わっている。


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