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黛信彦の時事ブログ

浜矩子語録(81) 政官攻防物語は、報の腕のみせどころ(毎日新聞・時代の風090920)

2009年09月21日 | 浜矩子語録
鳩山内閣は、各省庁の事務次官の記者会見を原則禁止することを打ち出し、17日から影響が出ている。
これについて、マスコミの反応は批判的で、報道統制を狙っているとの見方もある。
小欄も、同意人事などを巡る民主党のマスコミ対応を見ていると『マスコミ剥がし』を感じざるをえない。

しかし、妖艶なエコノミスト・浜矩子は、20日付毎日新聞・時代の風欄に≪「脱官僚」掲げる新政権―――メディアの腕の見せどころ≫を寄せて、異なる角度から、メディアに対して、行動原理と取り組み姿勢の変更を促した。

浜矩子はこの中で、英国で80年代のシリーズものTV番組に君臨したBBC放送の「イエス・ミニスター」(かしこまりました、大臣)を取り上げて、日本の政官攻防に関するメディアの在り方に意見を投じている。

以下は、その大要の転載である。
~・~・~ 政治家と官僚との虚々実々の攻防をこれほどまでに鋭く可笑しく活写したドラマ(イエス・ミニスター)はほかにない。
脱官僚政治を掲げた政権が発足したので、筆者は目下、この番組の録画を改めて最初から鑑賞しなおしている。今回は、また感慨ひとしおだ。

どこまでが政治で、どこからが行政か。どこまでが政策の形成で、どこからが政策の実施であるのか。この微妙にして厳しい政と官との棲み分けに関して、某事務次官が大臣殿にご進講申し上げる場面がある。彼の判じもの的長広舌の難解さたるや、人知を超えている。神業だ。
とうてい、単刀直入。単純明快を旨とする政治家たちがついて行ける世界ではない。けむに巻かれるか、逆襲するか。はたまた、共存共栄の道を探るか。政対官の手に汗握る爆笑の駆け引きが続く。
その顛末を改めて堪能しているわけなのだが、その中で、今回、新しい発見があった。
それは、政官攻防物語における第三の存在だ。その名はメディアである。
メディアをどう味方につけるか。どう敵に回さないか。いかにメディアをおだてて、脅して、翻弄するか。そこを巡る政官の主導権争いも、なかなか見応えがある。それを今回の鑑賞で初めて強く意識した。

なぜ、今回はそこに目が行ったのだろう。恐らくそれは、今回の政権交代と新政権の脱官僚宣言に関して、日本のメディアそのものに戸惑いがあるからなのだと思う。
延々と続く55年体制は、報道の在り方にも影響を及ぼしてきたはずである。
しっかりした情報を政と官から引き出していくには、彼らの生態と関係のカラクリに精通し、それをうまく活用することが前提となる。だが(新政権が各省庁の事務次官の記者会見を原則禁止したことを踏まえると)、その前提そのものが崩れるとなれば、報道も行動原理と取り組み姿勢を変えていかなければならない。
この(新政権の)やり方が、報道の自由や国民の知る権利とのかかわりで正当化されるものであるのか否か。これらの諸点を巡って、報と政の応酬が始まっている。

沈黙のカーテンの中で、官がやりたい放題をするのは許さない。その観点からメディアが会見廃止を糾弾するなら、それはわかる。だが、便利で、使い慣れた情報チャンネルを奪われることへの抵抗であれば、それはちょっとまずいと思う。相手が言いたがらないことを聞き出すことこそ、ジャーナリズムの醍醐味のはずだ。

そこに行けば話が聞ける。それに慣れ過ぎると、メディアは発信者の広報と化す。それを狙う政官と、報はどう向き合っていくのか、新政権の発足で、この点が改めて問われていきそうな気がする。

今日のイギリスのメディアには「イエス・ミニスター」のような上質の風刺が姿を消して、下卑た笑いの追求ばかりが目立つ。これはどうしたことだろう。
彼らは、政の懐柔策に屈したのか。官の裏操作に手なずけられたのか。少々短絡かもしれないが、報道の姿勢と番組の質とは、もとより表裏一体であるはずだ。「イエス・ミニスター」時代の気概を取り戻してほしいものである。

日本の「イエス・ミニスター」時代は、むしろこれからだ。政官攻防の場は、報にとっても格好の腕のみせどころ。読者をうならせる伝えと語りを期待する。~・~・~

浜矩子語録目次Ⅱ

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