妖艶なエコノミスト・浜矩子が、「昨日はあちら側に招かれて、今日はこちら側」と言った。
「昨日はあちら側」とは、18日に自動車業界の会合に招かれたということであり、「今日はこちら側」とは、19日に毎日新聞社労働組合などが主催する“第22回、毎日新聞社編集綱領制定記念のつどい”のパネリストとして招かれたということである。
労使関係の難しい今日、雇用者側と被雇用者側の両方の会合に招かれて意見を求められる浜矩子、一体何者なのだろう。
エコノミストの仮面をつけたコミュニストか?それとも、その中間のエコミュニストか?
小欄は、その、「今日はこちら側」の、毎日新聞社公開シンポジウムで浜矩子の主張を聞いた。
本シンポジウムは
主題「なんだ、この生きにくさは?!」
副題「小泉時代と報道」
である。
早速、二人のパネリストが、「この生きにくい日本は小泉改革が元凶だ」との趣旨の主張をする。
対して浜矩子は、それに同調するかのように、
~・~・~ 「(副題の)小泉時代という言葉、気に食わないところがございます。そこに込められている意味は良く判りますけれども、“何とか時代”というところに“小泉”の名前を置くというのは、彼に対して過大評価というか、小泉さんが、ほくそ笑みそうな気がするのです。小泉ごとき者によって我々はこういうところに追いやられているのではないと思うのです。だから「小泉時代」というように“ヤツを祀り上げる”のはやめたい、という面がございます」~・~・~
と言った。
小欄は思う。
この言葉の前に浜矩子は言った。「今の世の中は“狂者の論理”が支配している。狂者の論理によって、いとも簡単に「わが身さえよければ・・・・・・」という“自分さえ良ければ病”に罹っている」
“狂者”とは、強者だけを指すのではなく弱者をも指す。即ち雇用者側のみならず被雇用者側にも存在することを意味している。
浜矩子はこのことを「我欲の三点セット」と表現していて、「我欲の連鎖を断ち切れ」と警鐘を鳴らしている。
英国で成長し、同志社大で教鞭を執る浜矩子にとって、“我欲”とはキリスト教で言うところの“原罪”を意味するものかも知れない。
かくして、浜矩子がコミュニストではないことが判明した。
そして浜矩子は、現下の日本の混乱について、政界は与野党問わず、又マスコミの大方も、小泉改革を批判することで責任転嫁あるいは攻撃の的にしようとしているが、「それは間違っている」と語っているように思う。
浜矩子のディベートの骨頂は兵法家・孫氏に通じている。≪負けてはいけないが、勝ちすぎるのはもっといけない≫というものである。
小泉元首相に対して、「ごときもの」「ヤツを祀り上げる」などと表現して本シンポジウムの主催者、他のパネラー、参加者を喜ばせつつ、暗に小泉改革批判が完全に正しいものではないことを教える話法は、魔法ともいえる。
以下次回
浜矩子(はまのりこ)語録 目次へ
「昨日はあちら側」とは、18日に自動車業界の会合に招かれたということであり、「今日はこちら側」とは、19日に毎日新聞社労働組合などが主催する“第22回、毎日新聞社編集綱領制定記念のつどい”のパネリストとして招かれたということである。
労使関係の難しい今日、雇用者側と被雇用者側の両方の会合に招かれて意見を求められる浜矩子、一体何者なのだろう。
エコノミストの仮面をつけたコミュニストか?それとも、その中間のエコミュニストか?
小欄は、その、「今日はこちら側」の、毎日新聞社公開シンポジウムで浜矩子の主張を聞いた。
本シンポジウムは
主題「なんだ、この生きにくさは?!」
副題「小泉時代と報道」
である。
早速、二人のパネリストが、「この生きにくい日本は小泉改革が元凶だ」との趣旨の主張をする。
対して浜矩子は、それに同調するかのように、
~・~・~ 「(副題の)小泉時代という言葉、気に食わないところがございます。そこに込められている意味は良く判りますけれども、“何とか時代”というところに“小泉”の名前を置くというのは、彼に対して過大評価というか、小泉さんが、ほくそ笑みそうな気がするのです。小泉ごとき者によって我々はこういうところに追いやられているのではないと思うのです。だから「小泉時代」というように“ヤツを祀り上げる”のはやめたい、という面がございます」~・~・~
と言った。
小欄は思う。
この言葉の前に浜矩子は言った。「今の世の中は“狂者の論理”が支配している。狂者の論理によって、いとも簡単に「わが身さえよければ・・・・・・」という“自分さえ良ければ病”に罹っている」
“狂者”とは、強者だけを指すのではなく弱者をも指す。即ち雇用者側のみならず被雇用者側にも存在することを意味している。
浜矩子はこのことを「我欲の三点セット」と表現していて、「我欲の連鎖を断ち切れ」と警鐘を鳴らしている。
英国で成長し、同志社大で教鞭を執る浜矩子にとって、“我欲”とはキリスト教で言うところの“原罪”を意味するものかも知れない。
かくして、浜矩子がコミュニストではないことが判明した。
そして浜矩子は、現下の日本の混乱について、政界は与野党問わず、又マスコミの大方も、小泉改革を批判することで責任転嫁あるいは攻撃の的にしようとしているが、「それは間違っている」と語っているように思う。
浜矩子のディベートの骨頂は兵法家・孫氏に通じている。≪負けてはいけないが、勝ちすぎるのはもっといけない≫というものである。
小泉元首相に対して、「ごときもの」「ヤツを祀り上げる」などと表現して本シンポジウムの主催者、他のパネラー、参加者を喜ばせつつ、暗に小泉改革批判が完全に正しいものではないことを教える話法は、魔法ともいえる。
以下次回
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