今日は統合中の日だったようです。
15時間ほど寝て体はしっかり元気なんだけれど、何かをしようとしても四つんばになってしまいます。昨日洗濯をしたものの、物に溢れた部屋をなんとかしようと思っても無理。お腹がすいているからかも・・とごはんを食べたけれど無理。
そこで思い出しました。アンマの後もそうだったと。http://www.amma.jp/
去年、抱きしめる聖者アンマのボランティアを2日間やった次の日、起きたくても体が動かず四つんばになってしまい、でも夜には友達の還暦祝いの飲み会があったので出かけたはいいが、お酒や揚げ物を食べたせいで、帰りに上からも下からも体外流出の巻で駅のトイレで苦しんだことを。
甥が生まれた瞬間にも、立ち会った私はその時のあまりにも大きなエネルギーに包まれ、その後四つんばになり立ち上がれなかったことを。命の誕生の瞬間ですから当たり前といえば当たり前なのですが。
きっと大きなエネルギーが私の中に入り統合するときにこういった状態になるのでしょう・・と何回か経験し学習した私は今日は予定も入れていなかったのでゆっくりすることにしました。
一つ素晴らしいことは声。
いいエネルギーに触れると声の響きが変わりますが、自分で声を出すのが気持ちいい。まさしくバイブレーションが違うのです。私にとって声は自分のエネルギー状態を教えてくれる大事なもの。
ということで、私が住んでいる日本でイスラエルで触れたエネルギーが今統合されているようですが、旅の間は考えられなかった「私と神様」あるいは「私とイエス」なんてことを初めて考えたりしました。
私はマリア幼稚園というキリスト系の幼稚園に通っていました。そこでお祈りというものを知り、幼稚園からもらったマリア様の小さな像に向かい毎日お祈りをしていたことを思い出しました。小学生になって近所の子供たちと毎週行っていた日曜学校は、帰りに駄菓子屋さんによって買い食いするのと、先生があまりにも優しいので調子に乗って先生のズボンの裾を上げ友達とスネ毛をひっぱったことしか覚えていません。もしかしたら父親との接触がなかった私には、大人の男の人とじゃれあうことを求めていたのかもしれませんが・・先生ゴメンナサイ。我が人生で懺悔すべき人はいっぱいいます。
しかし、家は仏教の家なので般若心経を唱えられた時期もあったし、ご先祖様に対する意識は普通の日本人家庭よりかなり大きいでしょう。
外国で暮らすと「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれることがよくあります。その度に「家は仏教ですが、仏様というよりは私に繋げてくれたご先祖に感謝し、仏壇にご飯を供えたり、お墓参りにいきます」というような答えをしてきました。
現在、私はご飯をいただく前に軽くお祈りをするので、よく「クリスチャンですか?」ときかれます。その度に私は「お祈り=クリスチャン」にしていては勿体無いなと思うのです。「ありがとう」と言うだけで水の結晶が変わることが目に見える形で証明されているこの時代。勿論「いただきます」という言葉を言うだけでも素晴らしいですが、感謝や祝福を与えるとどれだけ食べ物のエネルギーが変わるでしょう。
今「あなたの宗教はなんですか?」ときかれたらどう答えるでしょう。私はイエスも釈迦も自然の精霊も大好きです。私が繋がる神はxx教という枠がなくその全てを包み込む神、宇宙という言い方もできる大きな大きな目に見えない力です。
私がイスラエル行きの話をきいて、躊躇したこと、或いはそれを自分の目で体で知りたいと思ったことがあります。まず一つ目は去年あるヒーラーのワークショップの通訳をしていたとき、彼女が「ここに居る人はイエスが十字架に架けられたときの現場にみんな居ました」と言いました。そのヒーラーがワークしたかったことは「イエスのように生きれば苦しい目に遭う」という思考がその現場に居た私たちに入っているのでそれを解き放つということでしたが、「ほんまかいな」と思いつつその間中私の目からは涙、体からは咳きがでていました。
だからイエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」やそれまでの道ヴィアドローサに行くのが怖かった。ヴィアドローサは悲しみの道と訳されていますが、これは実際行って見ると「誘惑の道」。実はこの道、今日ではアラブ人のお土産やがずら~っと両脇に並んでいます。分かりにくい道なのでここでは脇目をふらさず皆についていかねばならぬ場所で、買い物したくてもできない私たちには「誘惑の道」なのでした。しかし、これも行って見なけりゃ分からない。
もうひとつイスラエル行きを真面目に考えたときに出てきた事は、ある意味「怒り」でした。どの宗教でもそうなのですが、政治や人をコントロールするために「神」という名前が使われたことに対する怒りがあるのです。キリスト教を布教するという名のもとに南米を侵略し虐殺を行ったり、実際ペルーでインカの人々の神殿を取り壊し上に教会を建てられたのを見ると、「これはイエスが望んだことであるわけない」と怒りをおぼえるのです。
私自身のことでいえば、自分の問題、例えば「人に自分を表現する異常なる恐怖」というのがどこから来ているのか探ってみると、行きついた先は過去世で修道女として「自分の思うことを言ったばっかりに、罰せられ仲間はずれにされ、神からの罰とされたこと・・がでてきました。でも本当の神様はそんなことで罰するはずがないのです。人間が人をコントロールするために使う「神」というものに対する怒りを感じるのです。
そういったことを胸にイスラエルに行ったわけですが、団長の赤塚さんからの「聖書は人生の書。宗教の書としていては勿体無い。」という言葉に「そうそうそう!」と嬉しくなり「今回の旅は人間としてのイエスの足跡」を辿る旅ときいてワクワクしました。「2000年経っても世界中の人が誕生日覚えているってすごいやろ?」って。確かに。
だって聖書によるイエスは私達が目にする十字架に架けられた偶像ではなく、とっても大きくて力強くてルックスもむちゃくちゃいい男だったようですから。偶像を禁止しているユダヤ教、ユダヤ人によってではなく、そこから「キリスト教」として広まったヨーロッパでキリストの像が創られ、絵が描かれたのですからね。
そして、今回エドガーケイシーセンターの光田さんもご一緒だったことで、「ケーシーの聖書の解釈」も聖書に実際でてくる現場できけました。こんな贅沢なことってないでしょ。ケイシーは聖書の教えを「自分の人生に引き寄せて、適用させて読め」と言っているそうでこれまたすごい解釈でした。
ケーシーについては、私は健康についてのリーディングは興味をもっていましたが、キリスト関係は今までパスしていました。しかし、ケーシーの聖書解釈に出会えたこと、光田さんと出会えたことは一生の宝となる気がします。
ケーシーについてはこちらをどうぞ。https://www.caycegoods.com/
ここの店長さんは今回の旅をご一緒した光田さんの妹さんでして、毎日ブログをアップされていましたので、「イスラエルのどんなところ行ったの?」という方は「店長ブログ」をどうぞ。写真も素敵です。http://caycegoods.exblog.jp/
私は行ったところ、感じたことを書くのには、もう少し熟成させる時間がかかりそうです。
写真はヘブライ語の「マクドナルド」
15時間ほど寝て体はしっかり元気なんだけれど、何かをしようとしても四つんばになってしまいます。昨日洗濯をしたものの、物に溢れた部屋をなんとかしようと思っても無理。お腹がすいているからかも・・とごはんを食べたけれど無理。
そこで思い出しました。アンマの後もそうだったと。http://www.amma.jp/
去年、抱きしめる聖者アンマのボランティアを2日間やった次の日、起きたくても体が動かず四つんばになってしまい、でも夜には友達の還暦祝いの飲み会があったので出かけたはいいが、お酒や揚げ物を食べたせいで、帰りに上からも下からも体外流出の巻で駅のトイレで苦しんだことを。
甥が生まれた瞬間にも、立ち会った私はその時のあまりにも大きなエネルギーに包まれ、その後四つんばになり立ち上がれなかったことを。命の誕生の瞬間ですから当たり前といえば当たり前なのですが。
きっと大きなエネルギーが私の中に入り統合するときにこういった状態になるのでしょう・・と何回か経験し学習した私は今日は予定も入れていなかったのでゆっくりすることにしました。
一つ素晴らしいことは声。
いいエネルギーに触れると声の響きが変わりますが、自分で声を出すのが気持ちいい。まさしくバイブレーションが違うのです。私にとって声は自分のエネルギー状態を教えてくれる大事なもの。
ということで、私が住んでいる日本でイスラエルで触れたエネルギーが今統合されているようですが、旅の間は考えられなかった「私と神様」あるいは「私とイエス」なんてことを初めて考えたりしました。
私はマリア幼稚園というキリスト系の幼稚園に通っていました。そこでお祈りというものを知り、幼稚園からもらったマリア様の小さな像に向かい毎日お祈りをしていたことを思い出しました。小学生になって近所の子供たちと毎週行っていた日曜学校は、帰りに駄菓子屋さんによって買い食いするのと、先生があまりにも優しいので調子に乗って先生のズボンの裾を上げ友達とスネ毛をひっぱったことしか覚えていません。もしかしたら父親との接触がなかった私には、大人の男の人とじゃれあうことを求めていたのかもしれませんが・・先生ゴメンナサイ。我が人生で懺悔すべき人はいっぱいいます。
しかし、家は仏教の家なので般若心経を唱えられた時期もあったし、ご先祖様に対する意識は普通の日本人家庭よりかなり大きいでしょう。
外国で暮らすと「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれることがよくあります。その度に「家は仏教ですが、仏様というよりは私に繋げてくれたご先祖に感謝し、仏壇にご飯を供えたり、お墓参りにいきます」というような答えをしてきました。
現在、私はご飯をいただく前に軽くお祈りをするので、よく「クリスチャンですか?」ときかれます。その度に私は「お祈り=クリスチャン」にしていては勿体無いなと思うのです。「ありがとう」と言うだけで水の結晶が変わることが目に見える形で証明されているこの時代。勿論「いただきます」という言葉を言うだけでも素晴らしいですが、感謝や祝福を与えるとどれだけ食べ物のエネルギーが変わるでしょう。
今「あなたの宗教はなんですか?」ときかれたらどう答えるでしょう。私はイエスも釈迦も自然の精霊も大好きです。私が繋がる神はxx教という枠がなくその全てを包み込む神、宇宙という言い方もできる大きな大きな目に見えない力です。
私がイスラエル行きの話をきいて、躊躇したこと、或いはそれを自分の目で体で知りたいと思ったことがあります。まず一つ目は去年あるヒーラーのワークショップの通訳をしていたとき、彼女が「ここに居る人はイエスが十字架に架けられたときの現場にみんな居ました」と言いました。そのヒーラーがワークしたかったことは「イエスのように生きれば苦しい目に遭う」という思考がその現場に居た私たちに入っているのでそれを解き放つということでしたが、「ほんまかいな」と思いつつその間中私の目からは涙、体からは咳きがでていました。
だからイエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」やそれまでの道ヴィアドローサに行くのが怖かった。ヴィアドローサは悲しみの道と訳されていますが、これは実際行って見ると「誘惑の道」。実はこの道、今日ではアラブ人のお土産やがずら~っと両脇に並んでいます。分かりにくい道なのでここでは脇目をふらさず皆についていかねばならぬ場所で、買い物したくてもできない私たちには「誘惑の道」なのでした。しかし、これも行って見なけりゃ分からない。
もうひとつイスラエル行きを真面目に考えたときに出てきた事は、ある意味「怒り」でした。どの宗教でもそうなのですが、政治や人をコントロールするために「神」という名前が使われたことに対する怒りがあるのです。キリスト教を布教するという名のもとに南米を侵略し虐殺を行ったり、実際ペルーでインカの人々の神殿を取り壊し上に教会を建てられたのを見ると、「これはイエスが望んだことであるわけない」と怒りをおぼえるのです。
私自身のことでいえば、自分の問題、例えば「人に自分を表現する異常なる恐怖」というのがどこから来ているのか探ってみると、行きついた先は過去世で修道女として「自分の思うことを言ったばっかりに、罰せられ仲間はずれにされ、神からの罰とされたこと・・がでてきました。でも本当の神様はそんなことで罰するはずがないのです。人間が人をコントロールするために使う「神」というものに対する怒りを感じるのです。
そういったことを胸にイスラエルに行ったわけですが、団長の赤塚さんからの「聖書は人生の書。宗教の書としていては勿体無い。」という言葉に「そうそうそう!」と嬉しくなり「今回の旅は人間としてのイエスの足跡」を辿る旅ときいてワクワクしました。「2000年経っても世界中の人が誕生日覚えているってすごいやろ?」って。確かに。
だって聖書によるイエスは私達が目にする十字架に架けられた偶像ではなく、とっても大きくて力強くてルックスもむちゃくちゃいい男だったようですから。偶像を禁止しているユダヤ教、ユダヤ人によってではなく、そこから「キリスト教」として広まったヨーロッパでキリストの像が創られ、絵が描かれたのですからね。
そして、今回エドガーケイシーセンターの光田さんもご一緒だったことで、「ケーシーの聖書の解釈」も聖書に実際でてくる現場できけました。こんな贅沢なことってないでしょ。ケイシーは聖書の教えを「自分の人生に引き寄せて、適用させて読め」と言っているそうでこれまたすごい解釈でした。
ケーシーについては、私は健康についてのリーディングは興味をもっていましたが、キリスト関係は今までパスしていました。しかし、ケーシーの聖書解釈に出会えたこと、光田さんと出会えたことは一生の宝となる気がします。
ケーシーについてはこちらをどうぞ。https://www.caycegoods.com/
ここの店長さんは今回の旅をご一緒した光田さんの妹さんでして、毎日ブログをアップされていましたので、「イスラエルのどんなところ行ったの?」という方は「店長ブログ」をどうぞ。写真も素敵です。http://caycegoods.exblog.jp/
私は行ったところ、感じたことを書くのには、もう少し熟成させる時間がかかりそうです。
写真はヘブライ語の「マクドナルド」
イスラエル行って感じたのは、私達が見る宗教絵画、宗教曲もヨーロッパへキリスト教が行って、その後できたものだよなあと。
最後の晩餐の場所なんて、皆ダビンチの絵のイメージをするけど、その時代テーブルなんてなくて、地べたに座ったり、寝転んでいたそうだから全然イメージちがってた。
それだけでも、全然世界感が変わると思う。
私も、架空の人物やろーと思ってた。。。
コースを読み始めてだいぶ経って、ようやく、ほんまにいる存在なんだ、と感じ始めています。
宗教音楽、バッハのカンタータなど、キリストの事を歌ったり演奏したりするものも、とても面白く感じます。
イエスって小さいころは「神様」だったから伝説の人だと思ってた。大人になって人間だったらしいと知っても、どこか信じられない気もしていたけれど、イエスの足跡を辿る旅をして、やっと彼も生きていた人間なんだと感じました。
それだけでもすごいことだよね。
さて、コースはHelen Chucmanというコロンビア大の教授(?だと思う)をしていた女性が、7年にわたるチャネリングを通して書いたものですが、その内容を読むと、ここにかかれている言葉はキリストのものである事がわかります。直接的な表現はないけれど、例えばcrucifixionの意味がかかれた章(Chapter 6, I. The Message of the Crucifixion)などがあります。ここで語られる” I "は、まぎれもなくキリストの事です。
全ての人にキリストを見なさい、という言葉も出て来たりします。
Godは愛であり私たちの父であり、キリストは私たちと同様、神様の子供です。(神様の子供は一人だけ。ー we are oneです)キリストは私たちとまったく同じで、ただエゴを全て持つ事をやめたのだと書かれている箇所もあります。
おうおうおう!!見てたの見てたの!?
実は今回の旅は、あの2回やった講座の続きであり最終章であったのです。妹菜穂子さんが「最後はぜひイスラエルで」ということで提案されて。
私は今までケーシーのイエス関係はパスしていたけど、DVD買います!!
光田さんに出会えたことは、この旅の大きな収穫の一つです。自分の使命、役割を全うしている人の美しさ、神々しさ、そしていかなるときも神の祝福を受けていると感じていらっしゃることに本当に感銘、感動しました。そして、私も自分の役割を全うした人生を歩みたい、歩むと決心して帰ってきました。
勿論、ケーシーの聖書の解釈は本当に素晴らしい。私達が日常生活でどんな風にそれを使えるかって・・・。
DVDを見ていたなんて本当に嬉しいわ。会ってお話するの楽しみにしています。
ああ、そうなんだ。新約聖書の解釈書ともいえるのかしらん?GODはイエスのことを指しているの?
時々パッと開けたページを読んだりしています。書いてあることの文章の意味はわかってもそれを噛み砕いた理解というのには、時間がかかります。でもてもとにあるというか、持っているというのが嬉しい一冊です。ありがとうね。
それから光田さんの「神の探求」には至極興味をもっていたのですが、講座に参加することもなく日々が流れていました。
でもイエスに対する親近感は強く沸き起こっていて、
幼い頃より、イエスキリストを身近に感じているんです。。。
今回、かえるさんが、イスラエルに行ったことが、私にとってのきっかけとなって、延ばし延ばしになっていたけど、イエスのこと、神の探求、もちろん、たかこさんのコメントのように、「コース」を探究しよう!って強く思いました。
ありがとう~。
良かったら読んでみてね:)
ささのイスラエル体験記、とても楽しみです。