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三軒茶屋から都立大学へ 今と昔

2003年05月28日 | 散歩
                            (今回のコースマップ)

 かつて自宅があった三軒茶屋を訪ね、
高校時代を自転車通学した都立大付属高校(目黒区八雲)までを徒歩散策した。
私は三軒茶屋には結婚した昭和43年(1968)まで住んでいて、高校は昭和33-36年ここから通っていた。
大学の時は、玉電で渋谷まで乗っていた。のんびりした電車だった。
かつての家は昭和46年(1971)まで親父が住んでいたが、その後転居し家も取り壊されビルが建っている。
玉電もなくなり、三軒茶屋の街は高速道路の高架で分断されてしまった。
しかし三軒茶屋は私の青春時代の懐かしさが色濃く残る街で、時々思い立って出かけて見たくなるのだ。


三軒茶屋交差点、駒沢方面(左側)へ高架が走る。


玉電全盛期の頃の三軒茶屋交差点、首都高の高架が未だない時代である。
「いもむし電車」と言われた車体が懐かしい。玉電が廃止されたのが昭和44年、
その後は三軒茶屋-下高井戸 間が世田谷線として存続している。


現在残る世田谷線の「三軒茶屋」駅、モダンな駅舎になった。


玉川通りから栄通り商店街に入ったところ、当時の商店街は独特の賑やかさがあったものだ。


栄通りを抜けたところの三叉路、写真では見えないが右手に「金冠(キンカン)堂」がある。


スーパー「マルフジ」(左手)は昔と変わらない。


当時は家に内風呂がなく銭湯通い、よく通った「弘善湯」がまだ残っていた。


弘善湯のところから南に細い路地を下っていくと、


中里小学校(左手)が見えてくる。


小学校角の十字路。右手奥今は茶色のビルが建っているところが、以前の我が家があったところ。


以前の我が家の位置から見た中里小学校、校舎はその後建て替えられていた。
家の斜向かいが小学校だったので、朝の開始サイレンが鳴り始めてから家を出ても遅刻しないで間に合ったのである。


当時我が家からスケッチした中里小学校(1959年写生)、私の17歳の作だ。


以前の我が家から真っ直ぐ突き当りに、当時は明治薬科大学の正門があった。
今はアクティ三軒茶屋の高層ビルが連なる。
この正門前の通りは、子供の格好の遊び場で、三角ベースの場所だった。 


隣にある長屋住宅は以前のままだ。ここにいた友人とよく遊んだ思い出がある。


家のわきの路地から見たら、庭に当時あった梅の木がまだ残っていた。
この狭い路地でメンコやビーダマで遊んでいたのだ。


蛇崩川にかかる橋から、やおや(左手)・そばや(右手)が今も健在。


橋はあるが蛇崩川は蓋がされて緑化歩道になっていた。


アクティ三軒茶屋、ここは明治薬科大学があった場所である。


明薬大日大横交差点から右手に折れ、野沢方面へ


このあたりは野沢一丁目で、巨人川上監督(当時)の家があった。


野沢稲荷を過ぎると、


環七通に出る。環七通を突っ切り、


ここから目黒区に入り、東が丘一丁目の広い路を行く。


東根小学校のわきの道、当時自転車通学でよく通った道である。


駒沢通りを突き抜けて、八雲十中通を行くと、もう母校は近い。


この通りは邸宅が続く


正面に母校が見えてきた。


着いた。私の母校。都立大付属高校。


高校の表札と昔からの門塀は変わらない。
都立大付属高校は2010年には閉校され、東京都立桜修館中等教育学校へ吸収される予定になっているのは寂しい限りだ。


当時の写真・高校正門


当時の高校全景


当時の写真・ありし日の高校風景


現在の母校全景(左)、かつてのテニスコート(右)
高校に隣接していた都立大学人文学部は既に解体され都営アパート群とホールや図書館、体育館などのある複合施設「めぐろ区民キャンパス」となっていた。
その都営アパートの階上から眺めた現在の高校である。
高校時代に汗を流したテニスコートは桜修館中等教育学校として拡充工事中であった。


めぐろ区民キャンパスと都立大学門跡
かつての都立大学の正門の一部が記念に残されていた。


都立大駅に向かう坂道(左)、駅前交差点(右)
都立大学も既に八王子に移転しており、2011年には都立大学は首都大学東京に一本化される予定になっている。ここの駅名だけはその後も「都立大学」のまま残るらしい。消え行く都立大学の名前がわずかだが後世に残るようなので、ほっとしているところだ。

終点:東急東横線「都立大学」駅

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