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古賀メロディ聴き比べ9:人生の並木路

2010年02月11日 | 歌謡曲
 古賀政男は1904年(明治37年)に福岡県三潴郡田口村(現、大川市)に生まれた。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。7歳で父が死亡、田口村を離れ、朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代をすごした。故郷喪失の悲しみは「人生の並木路」のモチーフとなったが、最初は仁川に、その後京城で暮らした。

 「人生の並木路」は昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。
 映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。

「人生の並木路」は、昭和12年(1937年)1月に発売された。古賀政男の名曲のひとつでディックミネが歌って大ヒットした。
ディックミネは、明治41年(1908年)10月に徳島県に生まれ、立教大学を卒業し、ジャズバンドマンから歌手となった。
昭和15年(1940年)には内務省から敵国の名前を禁じられ、本名の三根耕一と改めたというエピソードがある。



<「人生の並木路」 自選聴き比べ>
1.ディック・ミネ 最初にレコードをだした歌手。
2.森進一 演歌の歌声である。
3.森昌子&北島三郎 1985年のステージ映像。


     人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


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2 コメント

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メロディ (「人生の並木路」と佐藤惣之助)
2018-04-21 22:41:06
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)

もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
http://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html

昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。
「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年、若きディックミネが歌うオリジナル版、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。
古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。

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佐藤惣之助と古賀メロディ (メロディ)
2018-06-30 21:28:05
現代の飽食の時代を満喫している現代人にはわからない言葉がある、

故郷を捨てる・・この言葉は何のことやらわからないだろう!。

昔の日本は草深い農村だった、そして人の人生は12歳で決まってしまったのだ。

そんな中で必死で幼くして人生を切り拓くべく人生を賭した多くの青春があっただろう。

あの野口英世の生家の柱には、「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」の自筆で刻んだ字が。

母の力で篤志家の援助で高等小学校を出た英世、そして医学を学ぶため東京に出る時、決意を刻んだもの。

昔は自身の未来を切拓くことは、貧しい故郷を捨てることだったのだ。

実はこれは昭和30年代、集団就職もその一つ。

「古賀メロディ」とは青春の、人生の苦悩をテーマとしたものということができる。

「青春、人生」「青春の苦悩」・・・いつの世でも時代を超えて普遍性を持つ、いつの時代でも新鮮でありうる、だから時代を超えて歌われる。

詩人・佐藤惣之助の青春を見事に謳った多くの名詩。

戦後「青春歌謡」というのがはやったが、実は
「古賀メロディ」とは元祖青春歌謡。


昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。

封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。

デイックミネ27歳のときである。

古賀政男はジャズしか歌ったことのなかったデイックミネに口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。

そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校(東京音楽学校)出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」(きよおとめのうた)は藤山一郎。

主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。

最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。


おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。


☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (川畑文子)1935.6
望郷の唄  (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに  (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣(びゃくえ)の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938








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