テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
(縮小画像はクリックで拡大表示)
「リンクメニュー」(分類別目次)機能付。

古賀メロディ聴き比べ15:湯の町エレジー

2010年03月18日 | 歌謡曲
 昭和23年(1948年)に近江敏郎が歌い大ヒットした「湯の町エレジー」。戦後の古賀メロディーの代表作である。
出だしのギターの伴奏が絶品! これだけでも名曲に入るだろう。

近江俊郎は大正7年(1918年)に東京に生まれ、武蔵野音楽学校を中退し、戦後歌手となった。新東宝や大蔵映画を設立した大蔵貢の弟であったことから、後に映画監督も努め、東宝の重役にもなった。
平成4年(1992年)に73歳で亡くなった。



<「湯の町エレジー」 自選聴き比べ>
1.近江俊郎 初レコード化した歌手。誠実な歌い方。
2.近江俊郎 レコードの歌唱。
3.木村好夫 ギター演奏。
4.アコーディオン演奏 公園で練習している風景。



     湯の町エレジー

  作詩 野村俊夫 作曲 古賀政男
  歌 近江俊郎 (昭和23年)

 1 伊豆の山々 月淡く
   灯りにむせぶ 湯の煙
   ああ 初恋の
   君を尋ねて 今宵また
   ギターつまびく 旅の鳥

 2 風の便りに 聞く君は
   出湯の町の ひとの妻
   ああ 相見ても
   晴れて語れぬ この思い
   せめて届けよ 流し歌

 3 淡い湯の香も 路地裏も
   君住むゆえに 懐かしや
   ああ 忘られぬ
   夢を慕いて 散る涙
   今宵ギターも むせび泣く 


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
近江俊郎と「古賀先生」 (メロディ)
2018-09-29 20:46:07
 近江俊郎は大正七年七月七日東京生まれ。本名大藏敏彦。流行歌手が音楽学校出身者によって占められていた頃、近江は武蔵野音楽学校に入学したが、早々と同校を中退してレコード歌謡に身を投じた。

「鮫島敏弘」を名乗りマイナーコードのタイヘイレコードから《辷ろよスキー》で十代歌手としてデビューした。マイナーレコードはたくさんあるが赤ちょうちんの夜店とかで売られていた。

近江俊郎の苦節の十年と言われた下積み生活はこのデビュー曲から、始まった。まさに青春の彷徨ともいえる無名歌手時代の流転人生の開幕だったのである。

 コロムビアの海賊盤を廉価に発売するリーガルのなどマイナーレーベルを転々としながら、鮫島弘、大友博、榛名敏夫などの変名を使用し、辛酸を舐めることになった。
 
戦前は不遇にしてあまりヒットには恵まれなかった近江敏郎、戦後になってその高音の安定感からヒットを連発した。

念願は歌手を目指す者は誰もがそうだったように、ただ一つ「古賀政男先生」の門下正となり古賀政男先生の歌を歌わせてもらうことだった。

昭和11年、タイヘイからデビュー。昭和13年、テイチクへ。テイチク黄金時代、新興テイチクで全権を任せられた古賀、古賀は楠木繁夫やディックミネなど下積みの歌手を迎え入れ大歌手に育て上げていた。

しかし古賀に「当社に藤山一郎は二人要らない」のつれない一言で念願は果たせなかった。

彼が名前を挙げたのはポリドールに入社してからだった。ポリ時代は「近江志郎」として活躍。

上層部と揉める昭和16年まで在籍し、以後コロムビアに移籍。コロムビアでは主に戦時歌謡を吹き込む。

1942年(昭和17年)、ポリドールの先輩である上原敏のヒット曲「妻恋道中」をテストで歌ってコロムビアの専属歌手に。

さらに古賀政男先生に懇願して、念願の門下生となり、主に軍需工場の慰問に活躍した。

古賀政男の「当社に藤山一郎は二人いらない」の一言で見事に落選したという言葉が物語るとおり、美声でその歌は申し分ない。

昭和19年、古賀政男から念願の持ち歌をもらう、国民歌謡(国民合唱)「明日もまた」 である。

国民歌謡:「明日もまた」 サトウ・ハチロー作詞、古賀政男作曲、二葉あき子、近江俊郎 コロムビア(1944-10)

その後、国民合唱「勝利の日まで」(合唱版)を歌うことに、作詞はサトウ・ハチロー、作曲は古賀政男、編曲は仁木他喜雄。歌は霧島昇。

合唱版は1944年、日本放送協会に委嘱して作られ、映画に先立ち、1944年3月10日に発売された。

映画公開と共に、8人の歌手(波平暁男、近江俊郎、志村道夫、高倉敏、菅沼ゆき子、奈良光枝、池真理子、渡辺一恵)によって吹き込まれ、1945年(昭和20年)1月に再発売されている。

「勝利の日まで」それは古賀メロディ、隠れた名曲、前奏・間奏‣後奏がそれぞれ 独立した一曲に値するような哀調を帯びた名曲。

「勝利の日まで」というより、昭和20年、敗戦の坂道を転げ落ちる中で、全国に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。いま聞いてもいい歌。

デビューから10年目の戦後、1946年(昭和21年)に「悲しき竹笛」が大ヒット。当初、会社側は奈良光枝のソロで発売したい意向であったが、古賀の推薦により近江がデュエットすることとなった。

さらに翌年、ポリドール時代に懇意にしていた米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。

この曲のヒットでコロムビアの専属となった米山の次作「南の薔薇」も大ヒットし、歌手としての地位を確立。近江が主演し、水戸光子の共演で大映で映画化されるほどとなった。

1948年(昭和23年)、霧島昇のために作曲した「湯の町エレジー」を、古賀は近江にレコーディングさせた。

歌い出しの低音が出ず、本番を20回近く録り直す苦心の末に発売。同曲は1年で40万枚、最終的には100万枚近い大ヒットになる。

「湯の町物語」などシリーズものが発売されるほどのヒット作となり、岡晴夫、田端義夫とともに戦後三羽烏と言われるスターダムにのし上がることとなる。


返信する
古賀メロディの隠れた名曲「勝利の日まで」 (メロディ)
2018-09-30 10:41:17
古賀メロディの隠れた名曲「勝利の日まで」

5000曲にわたる古賀政男の膨大な作品群、昭和の著作権王・古賀政男、それは名曲の宝庫、隠れた名曲が沢山あります、その一つが「勝利の日まで」。

平成16年、「学童疎開60年」の年、夏には各地で記念展や行事がありました。学童疎開は、今から74年前、ちょうど敗戦の一年前より行われたものです。

昭和19年8月より、20年にかけ、国民学校3年以上の学童は、戦火を避けるため縁故があれば縁故で、無い者は集団疎開をおこないました。映画『少年時代』は、この学童疎開を、体験した藤子不ニ夫原作によって映画化したものです。なお、これとは関係無いが、あの對馬丸の悲劇はこの時、昭和19年8月に起こったものです。
 
 「学童疎開」、それは家族がバラバラになり、空腹といじめ、のみ・しらみなどそれは厳しいものだったようです。当時学童疎開を励まし歌ったものに、NHKから流れた国民合唱・『父母の声』(草川信作曲)、♪太郎は父のふるさとへ 花子は母のふるさとへ・・、同じく国民合唱『勝ち抜く僕等小国民』(橋本国彦作曲)♪勝ちぬく僕等小国民 天皇陛下の御ために・・などがあります。同じ頃、「お山の杉の子」が歌われました。
 
 こんななかで、疎開学童に歌われたもうひとつの歌に、古賀政男の隠れた名曲
国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)があります。昭和19年末にNHKから。そして20年に入って同名の映画『勝利の日まで』(東宝 昭和20年1月25日公開)の主題歌として。これは行進曲風で、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、緊張感漂う哀調を帯びた名曲。

8人からなる合唱版(波平暁男・近江俊郎・ 志村道夫・高倉敏・ 菅沼ゆき子・奈良光枝・ 池真理子・渡邊一恵)を歌った近江俊郎は、戦後、奈良光枝とともに「悲しき竹笛」(西條八十作詞、古賀 政男作曲)を歌っている。


なお、東宝映画「勝利の日まで」はサトウハチロー作の慰問映画、原節子も出ている。内容は戦地にロケット爆弾に慰問袋を入れて送るという荒唐無稽な娯楽映画、円谷英二の特撮映画でもあり、これが戦後に至る特撮映画の原点。

昭和20年、2月には硫黄島の戦い、3月10日には10万人が亡くなった東京大空襲で、映画どころではなかったはず。


 「勝利の日まで」・・♪丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる吾等がいのり いつかあふるる感謝の涙・・は、勝利の日まででというよりは、敗色濃くなって日本が敗戦への坂道をころげ落ちてゆくなかで、この歌は映画とは関係無いが、あちこち散らばった何百万の疎開学童によって歌われていたといいます。このことについて、次ぎのような証言があります。


「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)

昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。

遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 
楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。

『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。

そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。

・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・

勝利の日まで
        サトウハチロー 作詞
        古賀 政男   作曲

1.丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我らの瞳
何時(いつ)かあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

2.山で斧ふる 翁(おきな)の腕も
海の若者 櫓を漕ぐ腕も
町の工場(こうば)の 乙女の指も
今日も来る来る お国のために
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

3.空を飛び行く 翼に祈り
沖をすぎゆく 煙に誓う
国を挙げての この戦いに
湧いて来る来る 撃ちてし止(や)まん
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

歌人・楠本憲吉氏は、古賀政男が逝った昭和53年に平凡出版から出た『昭和の日本のこころ 古賀政男 −我がこころは永遠』・・楽譜付きです・・に、「日本人と古賀メロデー」で自分の選んだ古賀メロデーの名曲10曲 として「勝利の日まで」を2番目に挙げている。「軍国歌謡の1つだが、この歌には思い出があり、忘れられない曲」だという。
 
(CD紹介)「SP盤復刻による 日本映画主題歌集」5 (COCA-12855)!))1995
返信する
戦後の古賀メロディ (メロディ)
2018-10-09 21:57:36
昭和19年(1944年)、サトウ・ハチロー作詞、古賀政男作曲の「勝利の日まで」は、軍歌というのでなく サトウハチローの詩になる当時の国民の素直な心情を歌ったもの。

翌年1月には徳川夢声、高峰秀子、古川緑波が出演した同名の映画(東宝)が製作された。

マイナーレコードを転々としていた近江俊郎は、日本の最も苦難の昭和19年から20年にかけての戦時下、NHK国民合唱「明日もまた」(サトウハチロー作詞/ 古賀政男作曲)を皮切りに(サトウハチロー作詞/ 古賀政男作曲)でNHK国民合唱を歌うことになった。

国民合唱「明日もまた」(サトウハチロー作詞/ 古賀政男作曲)(二葉あき子・近江俊郎)
国民合唱「勝利の進軍」(サトウハチロー作詞/ 古賀政男作曲)1944-12
波平暁男・近江俊郎・ 志村道夫・高倉敏・ 菅沼ゆき子・奈良光枝・ 池真理子・渡邊一恵
国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞/ 古賀政男作曲)

昭和19年2月には松原操と「僕等の空へ」(サトウハチロー作詞、 仁木他喜雄作曲)

一方、古賀政男はこの後昭和、20年3月から8月まで戦火を避けて疎開することとなった。

古賀は、女々しいとか軍部にも批判され続けたのだが、渡辺はま子の慰問先で歌った「誰か故郷を想わざる」など、畑俊六元帥(支那派遣軍総司令官)に涙を流させた、

その陸軍(陸軍省)が空襲の最中、国民作曲家・古賀に対し疎開してくださいとトラックを差し向けたのだ。

古賀の疎開したのは富士の見える河口湖,現在その河口湖湖畔には、古賀政男生誕百年記念 古賀政男記念公園がある。

記念碑と古賀政男のレリーフのついた、「影を慕いて」の古賀政男自筆の歌碑がある。

終戦とともに、これで自分たちの世代はすべてが終ったのだと思ったと自伝「我が心の歌」にある。

再び作曲を発表するような時代や、また、すでに発表した歌が、再び唄われる日も決してめぐって来ないのだと覚悟したのだった。

この疎開先である出来事が・・

それは米軍がしきりに戦犯を逮捕して巣鴨に収容している頃であった。

古賀政男はジープではるばる訪ねてきた米兵の訪問を受ける。

夜道にジープのヘッドライトがだんだん近づいて来るのを見たときは、さすがに不安であった。・・
 
米軍の将兵たちは、私が探している当人だと知ると「オオ、ミスター・コガ」と、愛想よく、まるで百年の知己であるかのように握手を求めた。

逮捕などという気配は全くない。いぶかる私に、一人が流暢な日本語で訪問の目的を説明してくれた。・・

彼等は戦争中、日本進駐後の司令部要員として、米陸軍で日本語の教育を受け、テキストとして日本映画を見せられた。ところがそのとき、私がかつて作曲した東京ラプソディなどの歌をきき非常に感動したのだという。

そして、日本に行くようなことがあれば、作曲した古賀政男という男に、是非とも会ってみようと相談していたのだったという。

彼等は親切にも、食糧難で私も困っているだろうと、ジープに食糧を沢山積んで、プレゼントするためはるばる訪ねて来てくれたのだった。

このことが虚脱状態から立ち直る精神的糧を得た古賀政男。

たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを改めて確認させられたのであった。

そして、20年8月には復帰することに。

終戦後初の作品が霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)昭和21年5月。

そして6月、近江俊郎、奈良光枝「悲しき竹笛」西條八十作詞、古賀政男作曲)1946-06である

返信する

コメントを投稿