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私の趣味3点+その他の紹介です。
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奈良 山辺の道(天理編)

2010年12月23日 | 旅行
 初冬の一日、天理駅から桜井駅まで山辺の道を中心にサイクリングで駆け抜けた。
山辺の道を訪ねるのは実に20数年ぶり、3回目になろうか。あらためて万葉歌碑を確認することと当時と比べて景観がどう変わってきているかがテーマである。
  24年前の1986年4月 山辺の道の景観はこちら。

朝方霧雨が降っていたが、山辺の道に入ったころには雨はすっかりやんでいた。
山辺の道は一部が石畳であったり細い山道だったりで、サイクリングには適していないところがあったが、いろいろ見て回りたいので今回は天理駅前の貸自転車屋で借りて桜井駅で乗り捨てるという選択をした。

  山辺の道(天理編)万葉歌碑群のブログはこちら
 


スタート地点:天理駅


天理駅前ロータリーの万葉歌碑


天理市役所 ここに万葉歌碑がある。


天理教本部


石上神宮
鳥居の前脇に柿本人麻呂の万葉歌碑がある。


石上神宮の鶏
東天紅という種類らしい。
楠木の枝に飛び上がり自慢そうに鳴いていた。


石上神宮楼門
堂々たる楼門で棟木銘に文保2年(1318)と建立年代が明らかな建造物で、重要文化財に指定されている。


石上神宮拝殿(左)、絵馬(右)
楼門をくぐると、正面に国宝の拝殿がある。平安時代の後期、石上神宮を殊の外崇敬された白河天皇が、宮中の神嘉殿を寄進したものだという。
古代には朝廷の兵器庫の役を果たしていたと言われている倉庫が、拝殿の後方にあり、聖域とされている。神宝の百済から伝来の七支力は有名である。豪族物部氏の本拠地であり、その一族が代々神宮の祭祀を行っていた。


石上神宮奥庭に向かう


奥庭から道路に出て(左)、梅林脇を抜けると(右)
布留の高橋に出る。ここは今回初めて訪ねた。


布留の高橋
日本書紀の影姫伝説にこの地が出てきて以来、万葉集にも歌われている。


再び石上神宮の境内に戻り、
石上神宮から山辺の道のスタート地点にたつ。
石上神宮は20数年前とほとんど佇まいが変わっていなかったのは嬉しかった。


内山永久寺跡
現在は周りの木陰を映して静まりかえる池のあたりは、かって内山永久寺の本堂が建っていた所である。
石上神宮の神宮寺として盛時には50以上の堂塔を誇ったが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となってしまった。

夜都伎(やとぎ)神社
珍しい萱葺き屋根の拝殿が広場の右手に建っている。
昔から、奈良の春日神社と縁故が深く、明治維新までは、この神社から蓮のお供えと称する神饌を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが通例になっていたとのことである。
このあたりも以前と左程変わっていないようで懐かしかった。


夜都伎神社付近から山辺の道方面を望む

このあと裾野を西に下り大和神社に至る。ここも今回初めて。


大和(おおやまと)神社
長い参道を抜けると拝殿に出る。
大和神社は、大和一国の国御魂(くにみたま)を主神として祀る名神大社で、伊勢神宮と並ぶ最古の神社であるという。


大和神社付近から山辺の道方面を望む

再び裾野を東に上がると萱生の集落にでる。


波多子塚古墳
萱生の集落の堀に隣接する古墳時代前期の前方後円墳。


萱生(かよう)環濠集落
遠く南北朝の時代から戦国乱世の時代にかけて外敵の侵入を防ぐため、周囲に水濠を巡らせた集落だという。


西山塚古墳
萱生の集落の堀に隣接する古墳時代前期の前方後円墳。


衾田陵に向かう途中の民家で猫が日向ぼっこをしていた


衾田陵
ここは展望が開けて気持ちのよい風景がみられる場所だ。
大和古墳群の中の中山支群の盟主的存在の前方後円墳。
継体天皇の皇后・手白香皇女陵に治定されており立派なたたずまいだが、考古学的知見とは時代が合わないらしい。


衾田陵付近の道


衾道(ふすまじ)の曲がり道
衾道は埋葬地の道という意味をもつ。


中山観音堂脇の石仏


大和神社御旅所
大和神社から西南約1.5kmにあるここ中山町のお旅所まで、神輿渡しが行われる毎年4月の「ちゃんちゃん祭」が有名だ。


衾田の万葉歌碑から引手の山を望む
柿本人麻呂の有名な万葉歌の歌碑がある。
”衾道を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし”
亡き妻を山稜に葬送して悲しみのうちに山路を帰る・・・
万葉の頃この山稜一帯は死者葬送の地であった。
今は明るく緑美しい山稜としかみえない。


衾田の万葉歌碑周辺のワイドビュー
何回か訪ねている山辺の道のコース上で一番好きなポイントだ。


長岳寺の根上り松
長岳寺山門前の 「根上り松」は枯れてしまったようだ。
20年前に訪ねた時には太い根がくねっていたようだったが。


天理市トレイルセンター(左)と黒塚古墳出土模型展示(右)
長岳寺の脇にあり天理市内のハイキングルートの紹介や黒塚古墳の模型、文化財などを展示している。ここは最近の新しい施設のようだが、ひなびた山辺の道にマッチしていないように思う。


崇神天皇陵(左側)と櫛山古墳(右側)
このあたりから眺める大和国中の景色はすばらしい。
竜王山から西北にのびる尾根の先端部を利用して築かれた前方後円墳がある。4世紀中頃に実在したとされる第10代崇神(すじん)天皇を埋葬した崇神天皇陵とされているが、実際の被葬者はわからない。そのため最近では陵墓の所在地から「行燈山古墳」と呼んでいる。
櫛山古墳は古墳時代前期 の4世紀後半に築造された、"双方中円墳"と呼ばれる非常に珍しい形の古墳。


伊射奈岐神社
169号線沿い、天神山古墳にある神社。
国道に面した入口は裏口だが、表にも立派な鳥居がある。
境内は広く末社も幾つかみられる。

ここから西に少し下り黒塚古墳を見に行く。今回初めてだ。


黒塚古墳
天理市柳本町にある前方後円墳。三角縁神獣鏡が33面も出土したことで一躍脚光を浴びた。
邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使者を派遣したとき銅鏡100枚を下賜されたことが「魏志倭人伝」に記されているためだ。


黒塚古墳頭頂部への階段(左)と頭頂部出土位置説明版(右)


崇神天皇陵と「玉かぎる万葉歌碑」


景行天皇陵脇の道
景行天皇陵は竜王山から延びる尾根を利用して築かれた柳本古墳群の中で、最大の規模を誇る前方後円墳である。

 →山辺の道(桜井編)に続く

奈良 山辺の道(桜井編)

2010年12月23日 | 旅行
山辺の道(天理編)に続き山辺の道(桜井編)を訪ねる。
山辺の道で景行天皇陵を過ぎたところから桜井市に入り、南下して大神(おおみわ)神社を経て桜井駅に至るコースである。

山辺の道(桜井編)万葉歌碑群のブログはこちら 


景行天皇陵を過ぎたところから三輪山を望む
ここには有名な額田王の万葉歌碑が建っており、ここからすばらしい三輪山の全景を眺めることができる。
ここからの景観は20年前と少しも変わらない。


珠城山古墳群
穴師集落の手前に、「珠城山古墳」がある。東西に並ぶ前方後円墳で、冠帽片、金洞中空勾玉、鉄鉾、鉄刀、鉄刀子等の副葬品が出土している。


纒向(まきむく)遺跡方面を望む
穴師集落付近から眺めた初期ヤマト王朝発祥の地。
纒向遺跡には、箸墓古墳を代表として20数基の古墳が存在する。


相撲神社
相撲神社は、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったところで、穴師坐兵主の鳥居の近くにある。


穴師坐兵主神社
相撲神社を出て上り勾配の参道を進むと、やがて道は鬱蒼と茂る木立の中に入っていき、その先に穴師坐兵主神社が見えてくる。


穴師坐兵主神社本殿
穴師山の山麓、纒向(まきむく)川の北に鎮座し、全国にその例を見ない三ツ屋根造りの神殿に三社を合祀している神社。


車谷付近
道も舗装されて、ひなびた風情が失われつつある。


巻向川
巻向川は、巻向山と三輪山、穴師山の間の谷川を集めて、穴師、車谷の村の中を流れていく小川で万葉歌に歌われている。


車谷から桧原への曲がり
ここもりっぱに舗装されている。


桧原への道沿いの万葉歌碑


桧原神社
桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地に建っている。


ここからは大和国中が一望でき、眼下に箸墓の森が見え、遠くに二上山の姿を眺めることができる。


桧原神社の三輪鳥居
檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。三輪特有の「三輪鳥居」とその奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所)が特徴だ。


桧原の井出池
この池周辺には万葉歌碑など多く見られる。


桧原から玄賓庵へのおもむきのある山辺の道
山辺の道の道標が立っているポピュラーなポイントで昔と変わらない景観だ。


玄賓庵付近
石畳が完備しすぎているようで、このあたりは自転車はきつい。


狭井川
「山の辺の道」を横切る小さな川があり、万葉集に歌われた狭井川である。


狭井神社
狭井川の畔にある大神神社の摂社。拝殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井がある。


大神(おおみわ)神社 二の鳥居から参道が続く三輪山を神宿る山としてあがめた原始信仰に起源をもつ日本最古の神社。


終点:桜井駅

桜井駅で貸自転車を返却して、今回の旅を終えた。
前半に時間を取り過ぎたため、狭井神社から大神神社にかけては駆け足で通り過ぎざるを得なかった。さらには金屋から泊瀬に至る場所を含め今後訪ねて見たいところだ。

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