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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

武田別働隊と戸神山脈の謎に迫る!(妻女山里山通信)

2009-12-17 | 歴史・地理・雑学
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 明治の『埴科郡志』には、「戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り、屈曲して西し、笹崎に至り千曲川に迫りて尽く。一、戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部とし、西條村に在りては之を森野と呼ぶ貴船の神祠あるのみ。戸神山の称なし。本誌編纂に当り、山寺常山の『河中嶋合戦地理記』、高野莠叟の『古城考』明治三十五年五月廿一日松代町役場より、東宮殿下に献じたる川中嶋古戦場絵図写等により、永禄四年九月九日の夜甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山は森野の頂上なりと決定し、尚当地を踏査して命名したるものなり。」とあります。つまり、地元では戸神山と呼んでいる山は存在しないということです。(別働隊は、信州先方衆大勢なのに道に迷った!?)
 『埴科郡誌』では、「戸神山脈は高遠山三瀧山の中間より出でて北に走り」ともあるので、戸神山と三瀧山は、別の山ということです。というわけで、旧更埴市誌には、1185mを三滝山と記していますが。埴科郡誌』では、船ヶ入の最高地点を三滝山としているので、鏡台山北峯の北にある小さなコブが本当の三滝山となります。ただ三滝山というのは、西条山と同じく三滝の上の山域全体を指す呼称でもあるので、1185mを三滝山としても誤りとはいえないでしょう。

 ところで、戸神山という記述が最初に見られるのは、第四次川中島合戦を描いた、『川中島五箇度合戦之次第』(江戸時代に米沢藩が幕府に献上した上杉方のバイアスがかかった史料、作者は上杉景勝に仕えた清野長範とされる。)で、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」と記されています。この清野長範という武士は、会津蘆名氏の出で景勝の小姓。文禄元年(1592年)信濃の名族清野氏を継承し、信州猿ヶ馬場城、4177石に配されましたが、6年後には会津に移封されています。猿ヶ馬場城は、姥捨山の奥で三峯山の麓の高原にある山城ですから、川中島に下りる際には、当然鏡台山から斎場山(旧妻女山)に続く戸神山脈は目にしたことでしょう。

 あえて言えば、篠ノ井の御幣川辺りから見る鏡台山(北峯のみ、南峯は見えない)は、三角に見えるので戸神山といってもいいかも知れません。猿ヶ馬場城から松代や善光寺へ向かう際に、その三角の山容を目にしたかもしれません。しかし、途中の姥捨では鏡台山はなだらかなお尻形(鏡台形)に見えるのですが…。

 ただ、この戸神山というのが曲者なのです。戸神とは三角の頂を持つ急峻な山をいいます。ところが当該の1185mは、どこが山頂かも分からないような茫洋とした山容で、鏡台山から続く尾根の肩という表現がピッタリの山なのです。清野長範が、実在の山から戸神山という名をとったのは、極めて疑わしいのです。『埴科郡誌』に、「戸神山の称なし云々。戸神山は森野の頂上なりと決定し云々」とあるように無理にこじつけたというのが本当のところかも知れません。以上のことから、『埴科郡誌』の編者が、1185mを戸神山と規定したのは無理があるといわざるを得ません。『埴科郡誌』の編者が参照したという山寺常山、高野莠叟の書も、恐らく『川中島五箇度合戦之次第』を元にしたものでしょう。

 その『川中島五箇度合戦之次第』ですが、作者清野長範が、戸神山なるものをでっち上げた可能性もあるのです。この当時の上杉藩は米沢ですが、米沢には三角の戸神山というのがあるのです。それをこじつけた可能性も否定できません。なにより武田別働隊が越えたとされる鏡台山周辺には、三角の山頂を持つ山はありませんから。海津城や松代から鏡台山は見えません。もちろん戸神山や三滝山も見えません。それどころか千曲市のほとんどの場所からも鏡台山は見えないのです。

 清野長範が猿ヶ馬場城から川中島に下る際に目にした鏡台山は、北峯と南峯が見えて間に鞍部がある鏡台の形に見えます(リンク画像は、姥捨から見た戸神山脈)。三角の戸神山はどこにも見あたりません。

 「甲軍一万二千西條村より倉科村に出でんとし迷ふて道を失ひたる戸神山」ということが史実なら、別働隊は尾根に乗ったら尾根づたいに進軍したのではなく、一度倉科村に下りたということになります。倉科の伝承では、斎場山の南、天城山東の二本松峠から倉科側に下った山麓に「兵馬」という、別働隊が襲撃に備えて集結、隊を調えたという伝説の地があります。傍陽から倉科へ、西条から坂城の日名へ抜ける街道が鏡台山周辺で交差していたことを考えると、尾根づたいに斎場山へ行くよりは、一度倉科へ下りた方が速いし、生萱や土口からも攻め込むことができます。また、雨宮の渡と千曲川右岸の山の間を塞いで、上杉軍の甲州への進軍をくい止める、或いは退路を断つこともできます。

 『川中島合戦』に関しては、第一級史料がなく、軍記物は上杉方や武田方のバイアスがかかている上に、そうあって欲しい、そうであったら面白いという江戸時代の庶民の願望が集約されていると思います。史実に願望がてんこ盛りにされて枝葉尾鰭がたくさんついて、どれが史実なのかを非常に分かりにくくしています。かといって全て作り話という訳でもないところが悩ましいところなのです。

 このリンクの写真は、松代城跡駐車場公園から見た戸神山脈ですが、海津城の北から見た三角に見える山は、手前の御姫山、大嵐山以外には、その南の1042mしかありません(城からはわずかに頂上のみ見える)。松代からは、三滝山や鏡台山は見えないのです。『埴科郡誌』には、前記のように「戸神山は倉科村に在りては三瀧山の東部~」と記されていますが、1042mは北部です。東部には西高遠山ぐらいしかなく、三角ではありません。また、倉科からは見えません。これを誤記とすると1042mが戸神山の候補として一躍挙ってくるのです。また、『埴科郡誌』には、「戸神山を森野の頂上なりと決定し~」と記されていることから、字森野にある1042mを戸神山と命名したと考えてよさそうです。つまり、戸神山とは地元で古くからそう呼んでいた山名ではなく、『埴科郡誌』編纂の際に、編者が集まってそう決めたということなのです。これは山脈名も同様であると記されています。

●写真最上部の図は、赤線が海津城から斎場山への武田別働隊の襲撃経路想像図。写真は松代城下から見た戸神山脈。最下部は、奇妙山から見た戸神山脈。*図は、「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作後画像加工。高さを1.5倍に強調。

◆戸神山については、以前のブログ記事、「武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」「続 武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」を御ご覧ください。
◆いわゆる「啄木鳥戦法」については、『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証をご覧ください。
◆また、妻女山がいかに政治的軍事的に利用されてきたかを知るには、「妻女山:有名人訪問年表」をご覧いただくといいかと思います。

武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。物好きしか登らない戸神山(三滝山)も登っています。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。驚愕の史実が!

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