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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

虫倉山と松代藩(妻女山里山通信)

2010-11-15 | 歴史・地理・雑学
 妻女山展望台から虫倉山は、茶臼山の右奥にこんもりと見えます。松代城からも同様に見えます。虫倉山は、松代藩の領地でした。中条村、小川村までが松代藩の領地で、松本藩の美麻村との境には口留番所が置かれ、出入り口を取り締まっていました。また、虫倉神社は、松代藩真田家の尊崇が厚く、江戸幕府の老中となった第八代藩主幸貫は、定紋の幕、祭礼幟、鳥居を寄進。夫人が神簾、姫が千羽鶴を奉納しています。

 虫倉山の虫とは、蛇という漢字が虫偏であるように、古来は昆虫というよりは、蛇の象形文字でした。それも毒蛇の。蝮(まむし)と書かれている本が多いのですが、私は仏教の発祥地・天竺(インド)のコブラではないかと思っています。虫の本来の字は、蟲(虫という字が三つ)ですが、生物全般を表すものであったそうです。では、虫倉山の虫はというと、水神信仰の虫であり、この場合の虫とは龍のことです。倉は御座(みくら)、つまり神の座のことです。

 虫倉山は、不動滝に象徴されるように周り中にいくつもの沢を持ち、麓の山村を潤してきました。その信仰の中心地であったわけです。その北にある戸隠や飯縄山の様に修験の山ではありませんが、里人の深い信仰を集める山として大切にされ、また松代藩の尊崇をも受けたのでした。虫倉山の山腹には巨岩や洞窟がいくつもあり、それらの多くは信仰の対象になっています。虫倉神社の奥社裏にある夫婦岩などはその典型でしょうし、虫倉神社の元社自体が元穴といって洞窟です。

 洞窟は、原始においては住居であり、それが墳墓となり、修験の場となり、信仰の場となっていきました。洞窟は臨死体験の場であり、御霊と出会える場であり、黄泉の国への入り口でした。現在は、1847年5月8日(弘化4年3月24日)の善光寺地震や風化により消滅したり、辿る道が崩壊したりして麓から穴だけが見えるものもあります。虫倉山の南の麓にある太田の集落から真北を見上げると、山の中腹に大きな洞窟がぽっかりと穴をあけているのが見えます。周りは断崖絶壁で到達は極めて困難に見えます。あの洞窟が調査されたかは未確認ですが、ひょっとしたら数多くの石の仏像が安置されているのではないでしょうか。

 その善光寺地震で、古い太田の集落は虫倉山の大崩壊により消滅しました。11軒の家が埋まり54人の村民が亡くなりました。その様子は、善光寺地震から3年後の1850年(嘉永3年)、松代藩主真田幸貫の藩内巡視の折に、御用絵師・青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)により、克明に描かれています。当時の御用絵師というのは、現代でいうカメラマンのことでもあり、状況を克明に描写するのが重要な任務でした。これらの絵は松代の真田宝物館」に所蔵されています。雪郷は、我が家の近所で名主をしていた祖先と近しい関係にあったようで、友の為にと書かれた彼の祖先を描いた掛け軸が残っています。

 妻女山展望台から見る奇妙山は、中国からの黄砂により黄色くどんよりと霞んでいました。黄砂は、中国の工業地帯の上を飛んで来るため大量の汚染物質を含んでいます。その上、極めて微細なため呼吸器官や内蔵に悪影響をもたらすそうです。戦国時代や江戸時代も黄砂は飛んで来たはずです。当時、この空を黄色く染める謎の物質を見て、遥か中国から来たと想像できた人はいたのでしょうか。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいずれアップします。北アルプスの大パノラマや山座同定を掲載する予定です。

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