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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

2015-01-26 | 歴史・地理・雑学
 今回の記事は、自分自身の備忘録としての側面が強いもので、善光寺平南端にある千曲川畔の小さな集落の歴史の話です。状況に応じて、その都度加筆修正します。歴史や郷土史、民俗学や文化人類学に興味のある方には、面白い内容だと思います。名もない寒村の話なのですが、この記事へのアクセスがトップのBABYMETALの記事についで多いので驚いています。アンダーラインのある文は、全て過去記事や外部へのリンクです。過去記事も読むと、本を一冊読むぐらいの量になりますが、興味のある方は、ぼちぼち読んで下さいませ。
                
 川中島の戦いで有名な妻女山の麓に岩野(いわの)という集落があります。明治の埴科郡誌によると、古代は斎場山(旧妻女山)の麓にあることから斎野(いわいの)といい、室町時代の延徳年間(1489~1491年)に上野村(うわのむら)と改称されます。この時代に国中で疫病が大発生し、延徳から明応へ改元せざるを得ませんでした。当地でも疫病が猛威を振るったのかもしれません。そして、江戸時代中期の始め、寛文6年(1666年:松代藩領内の総検地あり)に現在の岩野に改称されました。最初の改称の理由なのですが、疫病だけではなく、斎野という名称そのものが疫病の流行と共に忌避される対象となった可能性もあります。
                
 斎場とは、古代においては祭祀(さいし)を行う清浄な場所という意味だったのです。「齋(いつき)の場」あるいは「ゆにわ」ともいわれました。隣の清野村の清野は、古名を須賀野(菅野・すがの)といい、清々しい野という意味。どちらも神聖なる場という意味でした。古代科野国の聖地だったのです。
 ところが、斎場という語は時代を経るに連れ、単に葬儀、あるいは葬儀場を意味する言葉に変容して行きます。殯(もがり)という古代の、死体が白骨化するまで見届け、死を受認するという風習も、大化の改新の薄葬令や仏教の伝来と共に消えました(その名残がお通夜)。そんなわけで、いつしか忌避の対象になってしまい、改称を余儀なくされたということでしょう。
妻女山の位置と名称について「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
                
 明治の土口村誌には、斎場山の代わりに松代藩が付けたと思われる妻女山という名称は最も非なりと否定し、読みと意味が同じことから祭場山とすべきであると記しています。妻女山の妻女は、上杉軍が残してきた妻女を想いなどという伝説がありますが、そんな下世話な話ではなく、山上(御陵願平)に神社があり謙信が庇護していたという、信濃国造の妻であった会津比売命のことを想定して付けたのだろうと思います。山上の神社は、戦後武田軍により焼かれ、後に現在の山陰に再建との里俗伝があります。詳しくはリンクを。
                
 会津比売命は、『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と記されています。官位のない会津比売命に従四位下(じゅしいげ)の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。その理由は、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。父は皆神神社の祭神・出速雄命(いずはやおのみこと)で、祖父は諏訪大社の祭神・建御名方富命(たけみなかたのみこと)。その父は大国主命です。この科野で、出雲系と大和系が結婚したのです。これはある意味衝撃的な出来事だったはずです。一緒に従四位下を授かった、草奈井比賣神というのは、会津比売命の妹です。さぞや美人姉妹だったことでしょう。
 会津比売命と、父の出速雄命(いずはやおのみこと)については、「松代の古名・海津という地名の起源」を。武五百建命と会津比売命については、以前の記事「古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証」をお読みください。『會津比賣神社御由緒
                
 享保16年(1731年)、藩主は第四代真田信弘の時代に編纂された真田氏史書『眞武内傳』の川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とあります。戦国時代は口述筆記のため、読みが合っていれば漢字はどうでもよかったのですが、松代藩、怒ってますね。松代には西條山(にしじょうやま)という別の山がありましたしね。しかし、藩が命名した妻女山は、不評だったわけです。妻女山の初出は、現在調べた限りでは、江戸中期初めの正保4(1647)年、幕府の命により作られた『正保国絵図』です。制作には松代藩が関わっています。戦国時代には、妻女山という山名はありませんでした。恐らく西条山と誤記されることに業を煮やした松代藩が、改名したのでしょうが、この名称は全国的に全く普及しませんでした。マスコミもネットもない時代ですから当然です。
                
 いずれにせよ、斎場山という本名が、妻女山という俗名に変えられ、昭和の時代に赤坂山へその名称が移ってしまったということなのです。でも岩野は岩だらけでもないのに、不思議な村名だなと子供の頃に思っていました。祝野という名称があったという里俗伝もあります。まあ、優秀なコピーライターがいなかったということでしょうか。現代も、歴史を無視した大手ディベロッパーがつけた安っぽい町名が全国あちこちにありますね。歴史に学ばない者は、いずれ歴史に逆襲されます。歴史の記憶を失うことは、己を失うことです。文化を失うことです。
                
 岩野の集落は千曲川の畔にあるため、古代より度々洪水の被害に遭い、平安時代の貞観、仁和の大地震では、八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造り、翌年大決壊して善光寺平までその被害は及んだといいます。小海湖は、江戸中期まであったようですが、恐らく「戌の満水」で決壊して消滅したのでしょう。当地は、その後も幾度も洪水の被害に遭っています。
                
 そして、なんといっても前述の江戸時代中期1742年(寛保2年)に起きた「戌の満水」では、村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。原因としては、北流していた流れが、蛇行を無視して一気に西から村を襲った。増水の速度が異常に速かった。山際でいつでも逃げられるという油断があった。山際の方が海抜が低く逃げ遅れた者が流された。などが考えられます。
 その時の村のある組の伊勢講帳には、数人で伊勢講へ代参したことが書かれているそうです。それらの話を、『ムラにおける講集団とその役割」ー岩野地区の伊勢講を事例としてー』という論文にまとめた女性が近所にいます。彼女は調査のほとんどを、一昨年鬼籍に入った父から聞き出したそうです。父の葬儀には彼女も参列してくれ、お爺ちゃんがいなければ卒業できませんでしたと言っていました。私の息子が、祖父の話で卒論を書くと言ったら止めたでしょうけどね。卒業できなくても知らんぞと(笑)。父もなかなかやるなと思いましたけれど。それをきっちりまとめて論文にした彼女も凄いなと思いました。こちらで、その概論が読めます(19番目)
                
 その論文で彼女は、岩野の伊勢講が、信仰的な側面だけでなく、講仲間によって葬儀の際に野働きといって、埋葬の穴を掘ったり、納棺や棺を担いで墓地まで行き埋葬する役割があったということを記しています。葬儀において村人の相互扶助的な役割があったということです。内働きは、内輪(ウチワ)や隣家(リンカ)がやるわけです。その性格のためか、逆に土葬が無くなると同時に、伊勢講も消滅したと母は言っています。そして、奇しくもその最後の土葬となったのが、1972年に鬼籍に入った祖母だったのです。
 彼女は、幾度も聞き取りに見えた様ですが、父は歴史の話ができるのが相当嬉しかったのか、何度もその時の話をしてくれました。まあ、若くて可愛い美人の娘さんが、熱心に話を聞きに来てくれるのですから、それは楽しかったでしょうよ(笑)。しかし、卒論にするとは知らなかった様です。父が彼女の名前をお姉さんのそれと間違えていたというのはご愛嬌でしたが。父の最晩年に幸せな時間を作ってくれた彼女には、本当に感謝しています。非常に聡明な女性なので、臆せず色々なことにチャレンジして欲しいですね。彼女とは、民俗学の話を色々としてみたいのですが、なかなか会える機会もないのが残念です。
 ひとつは、彼女が論文で戌の満水以後に、村の代表が伊勢参りに(代参講)として行ったと書かれているのですが、それは何年後か。村の財産がすべて流失したので。旅行費用はどう捻出したのか。戌の満水以後に伊勢講が始まったと記されていますが、それ以前に松代藩の古文書に伊勢宮の記述があるが、それはどう説明するかなどです。伊勢講自体は戦国時代に始まり、江戸時代になり発達した経緯があるわけで。しかし、小さな集落で古文書も流失し、旧家にあるかもしれない古文書も埋もれたままで、非常に解析が困難なのです。
                
 そうそう、彼女の家の大本家の庭で、晩年の後藤新平と村の重鎮達が撮った写真があります(村会議員だった若い頃の祖父も)。彼はなぜこんな小さな村にわざわざ訪れたのか。以前の記事、【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平。リンクの記事では、ナショナル・ジオグラフィックの貴重な当時のカラー写真のスライドショーと、後藤新平と祖父の写った写真も掲載しています。震災からの復興を成し遂げた現東京の父ともいうべき後藤新平が、腐敗しきった現在の政治家、官僚、財界人と放射能で汚染された東京を見たらなんと言うでしょうか。
                
「戌の満水」で、伊勢講が始まったと思っていたら、前記の『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚において、上杉軍の斎場山(旧妻女山)布陣を書いているのですが、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」と記されているのです。戌の満水より11年前の記述です。既に伊勢宮があったことが分かります。伊勢宮とは、西幅下の笹崎の近くにあったらしく、祖母がよく伊勢宮の畑に行って来ると言っていたと父から聞いたことがあります。その土地は後年洪水で流失しました。そのいずれかの洪水の際に、伊勢宮も流出し、その後も伊勢講は続いたのですが、伊勢宮は再建されなかったということでしょうか。どこかに移されてないかと色々探しているのですが、明治生まれがもういないので難しいですね。
「戌の満水」の後に松代藩が行った大規模な瀬直し(領民を守るためではなく、松代城を守るため)では、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。領民の復興は後回しにされたのです。なんだか、福島第一原発事故後の日本と似ていますね。
                
 講自体は、戦国時代に組織が強化されたそうですから、当地の伊勢講も実はもっと古いのかも知れません。千曲川畔の各地には伊勢宮が数多くあります。加えて近隣の山には、御嶽講や大山講などの石碑や石像もあちこちに残っています。里山トレッキングをしていると、古墳や塚や、石碑や石像に遭遇することがあるのが楽しみなんです。
 だいたいこの地は川中島の戦いで戦場になったわけで、元からいた住民で戻ってきた者もいるでしょうが、現在の住民の多くは戦後移り住んだ武士が帰農したといわれています。我が一族も、小笠原長時に使えたとかとかなんとか*。元は松本の林城辺りの出とかなんとか。分かっている最初の祖は、林采女(うねめ:宮中の女官を束ねる官職名。戦国時代以降勝手に名乗る風潮があった。佐久間象山は修理)といって、戒名を釈林斎(ここに斎場山の斎の字があることが重要)といい、薬師山の北山隧道の上に天正10年3月10日没と記された墓があります。墓の様式は戦国時代のものではなく、明らかに幕末ごろのもの。集落の苗字を見ても、元々は武田か上杉に使えた武士だろうと思われるものが多いのです。そんな系図の村ですから、講への参加も早かったかもしれないと思うのです。
*これは後で誤りと判明。先祖は武田信玄の四天王のひとり山縣三郎昌景に使えた林織部というものがおり桔梗ヶ原の戦いで手柄を立て褒美をもらったという感状書の写しが残っています。また真田昌幸に使えた足軽大将の林太郎左衛門というものがおり、その長男は真田幸村(信繁)の7人いたという影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしています。その後、岩野に居を構えたのか、それ以前の川中島の戦いの後に移り住んだのかは分かっていません。
                
 数ある講の中でも伊勢講は非常に盛んだった様で、特に60年周期の「お蔭参り」で検索すると分かるのですが、当時の伊勢参りというのは、本当に凄いもので、1705年(宝永2年)のお蔭参りでは、参詣者が330万~370万人。当時の人工が2800万人弱ですから、なんと日本人の8人に一人は参拝したということになります。伊勢講のメンバーで積立をし、くじ引きで当たった数人が代参するのが習わしだった様で、他の村の記録を読むと、農閑期に、短くても数ヶ月、東北や九州からだと半年も旅をした様です。山梨県上野原村の記録では、伊勢参りだけでなく、京都や奈良にも行っています。この熱狂ぶりは、経済を活性化する側面もあり、庶民の不満のガス抜きの効果もあって、幕府にも止められなかったのでしょう。実際に他国の文化を経験する事で、得られるものも大きかったはずです。無尽講や頼母子講なんていうのは、今でも残っている地域があります。
 たまたま蔵書にあるのを見つけて読み始めたのですが、岩波新書の江戸時代シリーズで、『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』藤谷俊雄著。これは面白い本です。江戸時代の人々の熱狂ぶりが伝わってきます。と共に、「ええじゃないか」が結局革命には至らなかった事もよく分かります。民俗学や文化人類学は本当に面白いですね。里俗伝は、歴史家は軽視しがちですが、英雄史観では見えてこない時代を動かした人の営みが分かります。しかし、富や権力が一極集中して、たった1%の人間が世界を動かしているという現代は、人類史上最も異常な時代なんでしょう。
                
 彼女と話した時に、なぜ葬儀の相互扶助が仏恩講(ぶっとんこう)ではなく、伊勢講なのか聞いた?と訪ねたのですが、そこは分からなかったそうです。その際に、宗教的な問題じゃないかなと。色々な宗派があるし、伊勢講ならまとめ易かったんじゃないかなと言ったのですが、これが最近とんでもない間違いであることに気づきました。そもそも伊勢講と仏恩講では、まったく歴史が違うのです。信毎から出ている『「戌の満水」を歩く』というムックの中で、父が「仏恩講は、明治の廃仏毀釈で始まった(明治5年という記録)。戌の満水の犠牲者供養とは特に関係がない」と言っているのです。つまり、伊勢講の方が、遥かに歴史が古いということなのです。集落のほとんどは浄土真宗ですが、他の宗派の人も村の行事として参加しているそうで、宗教的な縛りは緩かったようです。また、村にあった正源寺は、戌の満水で流出しましたが、再建までかなりの時間を要したはずで、それも伊勢講が葬儀の相互扶助に用いられた理由かも知れません。
                
 元々日本では、農村を中心に「村落共同体」という集団単位で長い間生活していました。明治時代になるまで、現在の我々が概念として持っている「家族」という集団単位は存在していなかったのです。現在の「家族」につながる婚姻制度(一夫一婦制)が生まれたのは明治時代に入ってからです。1898年(明治31年)に「家制度」が制定され、武家の家父長制的な家族制度を基に、それを一般庶民にまで浸透させようと図ったのです。そのヒエラルキーの頂点には、もちろん天皇がいるわけです。この「家制度」は1947年(昭和22年)に、女性の参政権、日本国憲法の制定に伴い廃止され、現在の家族制度に繋がっています。つまり日本の一般大衆においては、「家族」はたった100年程度の歴史でしかないのです。それ以前、父子による血縁を重んじたのは、武家(あるいは武家の血筋)だけでした。名門の系統にいることが、唯一の存在理由(レーゾンデートル)の拠り所になっていたのです。
 多国籍企業による独裁的寡占の進行で、資本主義は完全に動脈硬化を起こしています。原価30円の紙を一万円と共同幻想に浸る時代は、そろそろ終わるのかもしれません。昔、ジャン・ボードリヤールの『記号の経済学批判』を読んだ時に、商業主義経済はいずれ破綻するのかなと、思った記憶があります。ありとあらゆるものが、商業主義の中で家族や人生さえも消費の対象となり、そこから逃れる術はない中で、家族とは何なのかを追求し、これからの人々の意識に合った新しい集団形態とは一体どのようなものが相応しいのか、考えなおす時代に来ているのでしょう。
シミュラークルとシミュレーション』J.ボードリヤール
                
 大正時代以降というのは、村落共同体が国家の圧力や、発達してきた経済市場の圧力で、徐々に浸食され始めた時代といえます。核家族は、都市部では既に大正時代に見られる(消費の爛熟。モボ・モガの出現)のですが、敗戦後、GHQの占領(植民地)政策の中で増大し、家族は生産の場と消費の場に分断されました。家庭は徐々に伝統的に継承されてきた教育機能を喪失した集団となり現代に至っているのです。皮肉な話ですが、恋愛至上主義ゆえに結婚制度が壊れ、家族が消失するという現象が、戦後の日本です。婚姻の商品化が、それに拍車をかけました。祖父母や父母は、神前でも仏前でもなく人前結婚でしたが、それが普通でした。核家族の脆弱さについては、厚労省もその問題点を指摘しているほどです。夫婦別姓、事実婚、同性婚、養子縁組や小さなコミューンなど、フランスや、友人がいて訪ねた北欧などは、既にかなり家族観や結婚観が変貌しています。誕生から死まで、全てのステージでメディアと企業が作ったライフプランに乗っかって生きるような(生かされるような)人生に疑問を持つ人が増えてきていると感じます。
                
 3組に1組が離婚し、7組に1組が不妊に悩み。家庭内離婚は数知れず。それ以前にお金があっても忙しく、お金がなければ貧乏で結婚できない現状。結婚できなければ子供も作れない社会です。昔は一人扶持(ぶち)は食えなくても二人扶持は食えると言いました。なぜそうでなくなったのでしょうか。共働きと家事分担が当たり前の時代に変わっても、「お金は男が稼ぐもの」という価値観に男女とも縛られ続けているのも問題ですが、働く既婚者をケアする政策が事実上、全くされていないのが最大の問題でしょう。少子化対策など全くないのが現状です。加えてこれから2016,17年には放射能パンデミックが必ず起きます。ウクライナの例を見ると、人口の大規模減少は避けられないでしょう。
 いずれにせよ、古代から家族という制度があったわけでもなく、不変なものでもなかったということです。興味のある方は、『日本婚姻史』を読まれるといいかも知れません。『共同体社会と人類婚姻史』未開部族の婚姻様式などから、人類500万年に亙る共同体社会の原基構造に迫るブログもお勧めです。
                
 江戸時代の共同体の話に戻りますが、江戸時代というのは誤解を恐れずにいうと、ゆるやかな共産体制だったといえます。年貢は個人で払うのではなく、村に課せられます。家屋敷地内の畑は別として、山林は個人所有ではなく、村の財産で、組単位で管理していました。我が家が所有する山林は、属していた組のものを、明治になってそっくり買ったものだと父も言っていました。田畑は個々の領主の所領でしたが、年貢は名寄帳を元に、村全体に課せられるものでした。年貢は飢饉の時などは相当に厳しいものだったようですが、農民が本当に単なる農奴であったのなら、伊勢参りなどできるはずもありません。江戸時代を貶める教育をしたのは、明治政府の策略でした。実際、年貢が租税として個人に課せられる際には、全国で一揆が起きています。特に松代藩は、戊辰戦争のために膨大な軍事費を使って財政を破綻させたあげくに、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。大規模な一揆が起きました。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより真田幸民も謹慎処分になりました。その真田への反感でしょうか、大正時代に建てられた松代城の石碑には、松代城ではなく、海津城と刻まれています。
 明治維新というのは、実は英仏の金融勢力を背景とした「田布施システム」によるクーデターであったというのが真実です。こんなことは決して大学では教えません。戦後GHQが、全ての天皇陵を調査しその結果を発表しています。興味の有る方は、「田布施システム」、あるいは「孝明天皇 暗殺」で検索を。歴史はいつも時の権力者によって都合よく捏造されるものなのです。
                
 この集落の、もうひとつ特徴的な側面は、集落内の道がいずれも微妙に曲がっていて、綺麗な直線がほとんどないということです。カギ型に曲がった小路もいくつかあります。父は、昔はカギ型の箇所がもっと多かったと言っていました。特に集落に入ってくる道が全部曲がっていて内部が見通せないのです。その理由は、ここが笹崎の難所を利用した松代藩の外部に対する橋頭堡の様な役割の村だったからだと考えられます。松代には、「ま抜け言葉」というのがあります。「行きましょう」を「行きしょ」。「やりましょう」を「やりしょ」など。これは江戸初期に、真田信之は父・弟と別れて徳川方につき、その功によって父・昌幸が築いた上田城とその領地を継ぐことを許され、1622(元和8)年には松代に転封となったわけですが、完全には信用されていなかったから、外部の隠密を見破るために考えられたものだという俗説もあります。しかし、この曲がりくねった細い道は、車社会には全くそぐわないもので、住民は往生しています(笑)。

 上の写真は、仏恩講が行われる清水庵地蔵堂で、生前の父が私の息子達に由来や仏像の説明をしているところです。801(延暦20)年、征夷大将軍、坂上田村麻呂が正法寺と号した清水庵地蔵堂を岩野に建立と伝わる古刹ですが、古くは戌の満水で流出した荘厳山正源寺の境内にあったといわれています。地蔵堂の北の堤防の辺りの芦原という字に寺屋敷という地名があります。そこに正源寺があったということで、現在はその一部が集落の主な墓地になっています。ところが、前記の様に戌の満水で流出。貴重な古文書なども失われたといいます。
                
 後に斎場山の北西の麓、旧岩野駅の南に再建されましたが(再建年度は不明。地蔵堂と同じ文政の頃か)、後継者がなく戦後廃寺になりました。本堂は篠ノ井御幣川の太平観音堂として寄進されたのですが、2005年8月24日未明に全焼しました。ここでも貴重な古文書が失われたかも知れません。正源寺の山号の荘厳山とは、薬師山のすぐ東にある前方後円墳の土口将軍塚古墳のことです。正源寺と共に流出したと思われる清水庵地蔵堂は、1822(文政5)年に村出身の、中興釋妙証僧尼により再建され、同じく村出身の再盛透禅法師(宮本勘左衛門)により、1856(安政6)年に近村(不詳)より寄進を願い、百観音菩薩を安置したと伝わっています(8体損失)。再建は、なんと戌の満水から80年後のことです。いかに洪水のダメージが大きかったががうかがい知れます。戌の満水で被災者を出した他の村には、今も慰霊祭などの行事があるのですが、当地には石碑はありますが、慰霊祭などはありません。村人の3分の1が亡くなるという悲劇に、贖う気力さえ奪われたのでしょうか。言葉を失います。
                
 仏恩講は、明治5年(1872)に、村の宮本英重と山崎与一が伊勢参りに行き、その途中に京都の西本願寺に参拝し、六字名号を拝領し、始まったと伝わっています。しかし、明治新政府の神仏分離政策により廃仏毀釈の動きが高まります。それは神仏混淆(こんこう)の中で従属的立場に置かれていた神道側から仏教側への激しい攻撃を生み、寺院や仏像の破壊といった廃仏毀釈の動きをもたらしました。
 明治5年には、修験道を廃し、無檀無住の寺院庵堂の廃止の布告が出されました。岩野の地蔵堂でも透禅法師が廃却届けを提出。仏像仏具は正源寺へ移され、地蔵堂は村へ譲渡、透禅法師は還俗(げんぞく)し、宮本勘左衛門として帰農した旨が書かれています。
 しかし、地蔵堂は7年後の明治13年に再び認められ、『科野国仏堂明細帳』に記載されました。長野市内ではわずか16箇所と少なく、廃却されたお堂は400箇所にのぼります。その再建の基になったのが仏恩講の存在であったと考えられているのです。仏恩講を組織した宮本英重が、地蔵堂の本寺的な正源寺の檀家総代で、透禅法師と親戚関係であり、仏恩講が檀家に相当するような組織としてお堂の再興を願い出たということの様です。仏恩講が、本来の浄土真宗では相容れないようなお堂の行事を主体的に行っているのも、このような歴史に由来すると思われるということです。岩野の仏恩講は、地蔵堂を守ることを目的として作られたということです。(参考文献:『村人の祈りと集いの場~お堂の役割を探る~』長野市博物館)
                
 現在の堂宇は、1970(昭和45)年建築のもの。古い地蔵堂は、藁葺でした。お釈迦様の入寂した涅槃会(3月15日)に、上新粉で作った「やしょうま」を沢山奉納し、それを貰いに行ったことを思い出します。お釈迦様が臨終の際に、弟子のヤショに美味かったと言ったと父は話してくれました。「ヤショうまかった」が「やしょうま」に転化? ダジャレですか・・。他には妻のヤソダラという説や、痩せ馬が転化したという説もあるようです。「やしょうま」は、今でも人気があり、春になると、和菓子屋の店先やスーパーに並びますが、昔は各家々で食紅を入れたり、胡麻や青海苔などを入れたものを作ったものです。私は祖母の手伝いをして作った思い出があります。中国菓子の麻花兒(まふぁーる)も作りましたね。背が高く「おはなはん」が大好きなハイカラな祖母でした。やしょうまは、今でも信州の春を告げる郷土料理のひとつです。
                
 正源寺は、浄土真宗本願寺派(西)で、大本は上野国(こうづけのくに:群馬県)にあったが、戦乱を避けて当地に移ったという由緒があります。現在の住民の多くが檀家の千曲川対岸の東福寺にある専精寺(元は土口にあった)は、浄土真宗本願寺派(東・大谷派)です。専精寺は、海野山報恩院専精寺といい海野氏と深い関係にあるようです。正源寺も上野国ということで、真田や滋野、海野辺りと深い関係があるのかも知れません。東京の高輪にある榮山淨喜院正源寺(ばんえいさんじょうきいんしょうげんじ)は、慶長8年(1603年)、上野国新田郡出身の繁蓮社昌誉萬榮和尚によって木挽町に創建とあります。恐らく同根なのでしょう。これについては、現在調査中ですが、正源寺は、前記の様に、戌の満水で流出し、再建されたが廃寺になり、挙句の果てに全焼という哀れな末路を辿ったがために、ほとんど記録が残っていません。旧家に関連の古文書でも残っているといいのですが・・。
                
 正源寺より古い古刹として、薬師山(笹崎山)の瑠璃殿があります。正式名称は、笹崎山(一名薬王山)政源密寺といいます。「笹崎山薬師如来の縁起」については、長いので以前書いたリンクのページを参照してください。境内の広さは四町(4ha)余りで、七堂伽藍が建ち並び壮大なものであった。とあるのですが、どうなんでしょうね。ただ、こちらも何度も洪水に襲われ、山上に移ったり里に下りたりを繰り返していた様です。縁起には、戦国時代には山頭にあったが、武田の兵火に焼かれたとあります。謙信が寝屋としていたとも。そうすると御陵願平にあったのか。会津比売神社が当時山上にあったが、同様に兵火に焼かれたという里俗伝もあり、御陵願平、陣場平、堂平(下の絵図参照)などが山上の平地なんですが、それぞれがあった場所がどこなのか非常に興味深いところです。
                
 真ん中の写真、左の本尊は行基(668~749年)作といわれていますが、松代町史には、慈覚大師(円仁:794~864年)と記されています。行基作と伝わる木彫は、この地に多いのですが、行基ではなく弟子の伴 国道(ともの くにみち)を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている〔天長5年(828年)頃か〕ので、その途中に弟子達と立ち寄ったのかも知れません。戌の満水で流出したが、十二河原で見つかったという逸話まであります。百番観世音菩薩は、上杉謙信の家臣、宇佐美駿河守が安置といわれていますが、別の本では文政5年(1822年)安置と。右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、幕末の松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年-1903明治36年)の慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。彼は我が家の斜め裏に居住し、当時名主をやっていた逸作爺と仲が良かった様で、肖像画を送られていますが、友の為にと書かれています。
                
 逸作爺は、子がなかった先祖が、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦と縁ができ、養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)か文化元年(2月11日~)(1804年)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。本家、大本家でもなく、養子でありながら若くして名主に選ばれたのですから、相当優秀で人望もあったのでしょう。時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は佐久間象山の進言などにより尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。

 写真右は、薬師山の先端の笹崎。左の未舗装の道は、昔の堤防です。現在の堤防上(中央の家の土台の高さ)には6,7軒の家がありました。その笹崎の山際に、地元で金毘羅さんと呼ぶのが右の写真。仏恩講で管理をしているそうですが、世話人をしていた父も、起源や由来は分からないと話していました。幕末か、どんなに古くても文化文政の頃だと思います。なぜ金毘羅さんと呼ぶのかと思っていたら、近所の方に、堤防上にあった家の間に金比羅宮があったという話を聞きました。それがどこへ移設されたかは分からないそうです。もしかしたら現在秋葉社といわれているものが、それかもしれません。
 金比羅さんは、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院でした。廃仏毀釈というのは、天皇制を神格化するために行われた文化破壊の愚行でした。南方熊楠も猛反対した合祀令も、文化と歴史を大きく歪め破壊しました。

 左に水祖(みおや)罔象女(みずはのめ)神。真ん中に秋葉社の石祠。右に水天宮。俗に金毘羅さんともいいます。これらがいつからここにあるのか分かりませんが、石碑を見るとそう古いものではなさそうです。いずれにせよ、皆水に関係のある祭神で(秋葉社は防火ですが、消火には水が必要)、この集落がいかに水害に悩まされていたかを物語っています。戌の満水で助かった我が一族の娘が、死に物狂いで岸に上がると、着物の袂に蛇がたくさん逃れて入っていたという言い伝えさえあります。

 秋葉社の中に置いてあった御札。八百万の神。右は、そこから、伊勢宮があったと思われる岩野橋方面を見たところ。

 左は、薬師山への登山道入り口と廃線になった長野電鉄屋代線の北山隧道。サイクリングロードとして復活の予定です。中と右は、登山口にある祠(何社か不明。上の薬師山瑠璃殿の里宮か。破風板の先端が屋根を貫く千木(ちぎ)が無いので伊勢宮とは違う? あるいはこれが金比羅宮か)と市大神の石碑。市大神は、大国主命ですね。会津比売命の曽祖父(ひいおじいちゃん)です。もうひとつ道祖神もあります。薬師山の祭り(おやくっしゃん)では、昔はここに飴細工や駄菓子やおもちゃの店が出ました。市の神様の石碑があるということは、昔はここに市が立ったのでしょうか。昔、父か祖母に、ここに千曲川で採れた魚を中心に市が立ったという様な話を聞いた気もするのですが、記憶が定かではありません。

 GHQが昭和23年に撮影した航空写真です。昔、私がある出版社(廃業)から買い、父に贈った掛け軸状の大きな写真です。赤丸の場所に昔は伊勢宮があったと思われます。明治43,44年の大洪水の前は、千曲川はこの写真より50mほど左を流れていたそうです。赤い線は、うちとあと二軒の旧家で金を出し合って岩野橋を造った場所。渡り賃としてわずかな金を徴収していたという話を聞いています。その袂に伊勢宮はあった様です。祖先が名主を30年余り務めていたという幕末の頃の話だと思います。50mもの河原があったので、我が家はそこに一反分(300坪=約992平方メートル)の伊勢宮の畑があったそうです。上の写真の赤坂山(現妻女山)の右側(東)は、旧清野村ですが、中沖と西沖にそれぞれ伊勢宮があります。
                
 青い線は、戌の満水が来る前の千曲川の流路の想像図です。恐らく戦国時代もこんな感じだったことでしょう。千曲川は、一級河川としては類を見ないほど水位の増減が激しく、その上犀川の流れに押されて、南側の山際に押し付けられるように流れていたのです。昔は堤防などないのですから、網目状に勝手に流れ、洪水の度に流路が変わったのです。川式(川敷)という地名は、川だったことを証明するもので周囲より低く、展望台から見下ろすと、2本の平行な畑道と共に、昔の流路が浮かび上がって来ます。赤坂山の文字の坂の字の上の山際には、下の絵図に描かれている千曲川の流路の跡である蛇池(または、ヒビ池)が残っています。現在は埋め立てられ高速道路の下ですが、私もここで雷魚を釣ったりザリガニを捕まえたりしました。小学校か中学校でやった理科の授業の、カエルの解剖のウシガエルもここで捕まえた様な気がします。
地名から読む戦国時代の千曲川河道(第四次川中島合戦当時の千曲川)
上杉謙信が妻女山(斎場山)に布陣したのは、千曲川旧流が天然の要害を作っていたから

 これは、江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず)。出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)。それに、地名や遺跡名、神社仏閣名を書き込んだものです。これだけ書き込めるほど正確に描かれているということなのです。上の写真とは天地が逆で、上が南です。新しい千曲川の流路や蛇池が描かれていることからして、この絵図が戌の満水の瀬直し以降、つまり1781(天明元年)より後に描かれたということが分かります。絵を逆さにすると、笹崎の上で二つの流れが合流しているなど、昭和23年当時とよく似ていることが分かります。絵図の赤い線は山道を、赤い点は兵士を表しているのでしょう。
                
 江戸時代後期になると、伊勢講だけでなく庶民の旅が盛んになるのは、十返舎一九のやじさんきたさんでお馴染みの『東海道中膝栗毛』がベストセラーになったことでも分かります。善光寺参りも盛んで、その土産に何種類もの川中島合戦絵図が描かれ売られたといいます。これもそのひとつかも知れませんが、他の絵図に比べると段違いに地形の描写が正確なのです。この榎田良長なる人物が、いつの時代のどういう人物か調べたのですが分かりませんでした。善光寺参りの旅人が、この様な絵図を買い求めて、戦国の世に思いを馳せたのでしょう。平和だからこその営みです。
                
 この絵図には、他に信玄の茶臼山陣取りの図と川中島古戦場の絵図があります。それらについては、以前の記事『上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」』で紹介しています。ご覧ください。今は地滑りで崩壊してしまった茶臼山南峰にあったかもしれない山城も描かれています。赤い線の古道や、千曲川と犀川の渡しも描かれていて興味を引きます。いずれにせよ、歴史に学ぶという謙虚さがなければ、また同じような自然災害で、多数の犠牲者を出すかも知れないということです。広島、長崎、チェルノブイリに学ばなかった日本が、福島第一原発の核爆発やメルトダウンで、人類未曾有の放射能汚染のまっただ中にいます。そして、現在破滅の危機にある現状を見れば、自ずと分かるでしょう。政府や御用マスコミの情報だけを頼りにしていたら、生き残れませんよ。
 仏恩講に関しては、新しい資料も入手したので、いずれ加筆していきます。廃仏毀釈は、中国の文化大革命に匹敵するほどの文化破壊だったわけです。それに贖うために全力を尽くした村民の気持ちが仏恩講に込められていたのです。権力者は常に歴史を捏造すると心得よ。

この記事の続編『信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)』もぜひお読みください。
 
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