凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

道聴塗説

2006-06-01 19:47:22 | 中国のことわざ
中国のことわざ-229 道に聴きて塗(みち)に説くは、徳を之れ棄(す)つるなり。道聴塗説(どうちょうとせつ)


「道聴而塗説、徳之棄也」
善言を聞いてもそれを心にとどめて自分のものにしないこと。また、他人の言説をすぐ受け売りすること。転じて、いい加減な世間の受け売り話の意にも用いる。


「塗」も道の意。道で他人から聴いたばかりのことを、その道ですぐに別の人に説いて聞かせるの意から。


出典:論語(陽貨篇)、広辞苑、故事ことわざ&四字熟語辞典


学びて時に之を習う

2006-06-01 19:46:03 | 中国のことわざ
中国のことわざ-228 学びて時に之を習う


子曰。学而時習之。不亦説乎。(しいわく。学びてときにこれを習う。またよろこばしからずや)
有朋自遠方来。不亦楽乎。(ともあり、遠方より来る。また楽しからずや)
人不知而不慍。不亦君子乎。(人知らずして、いからず。また君子ならずや)


昨日出席した論語口座で先生から、“論語は前後の文章につながりがあって、物語風になっている点に着目して読むと面白いですよ」と教えられました。この「学びて時に(”つねに“という読み方もある)習う」は論語に触れるとまず最初に出てくるフレーズではないでしょうか。私もその昔、祖父からこの部分を教わった記憶があります。


先生がおっしゃった。繰り返し学問をしておくこと、それは喜ばしいことではないか。同門の友人が、遠くから、尋ねてきてくれた。何とうれしいことだろうか。他人が自分を認めないからといってそれについて腹を立てたり愚痴をこぼしたのでは君子とは言えない。(私の訳ですので念のため)


この部分を理解するには、孔子が生きた時代の歴史背景を知っておく必要があるという。孔子(紀元前551年~前479年)は春秋時代の魯という国の人である。彼は仁を理想の道徳として魯国に仕えたのだが、認められずに諸国を歴遊した。結局孔子を登用する国はなかったのである。この歴史を知っておくと、この部分を理解しやすい。


孔子は魯国はもとより歴訪した諸国からも認められなかった。しかし彼は腐らずに、いつしか登用されることを期待して、学問に励んだ。意気消沈しているとき、友達が尋ねてくれた。「お前随分苦労しているなあ。でもいつの日か、陽が燦々と君の身にふりかかるようになることだろう」孔子は友の励ましの言葉を聞いて涙を流したことだろう。“私はなかなか認められないのだが、腐っていないし、怒ってもいないのだよ。しかるべき時に備えて、先人の教えを繰り返し自分に説いているのです”


楽には三つの意味があるそうです。①楽しい②音楽③好む、好き。これはもちろん中国にも三つの意味があるので日本語で三通りの意味があるということだそうです。学ぶは“まね”という意味があります。孔子の生きた時代は竹簡(竹の小札)に文字を書き記していました。まだ紙は発明されていません。この時代は書くことは大変な作業だったので先生の言ったことを生徒は耳から聞いて必死で覚えようとしたのです。習うは復習の意で繰り返し、先生の言われたことを思い出しては、口に出したのでしょう。時には“つねに”と読む人もいる。朋は同門、友は同志。


出典:論語

鶏を割くに、焉んぞ牛刀を用いん

2006-06-01 19:44:11 | 中国のことわざ
中国のことわざ-227 鶏を割くに、焉んぞ牛刀を用いん(にわとりをさくに、いずくんぞぎゅうとう
をもちいん)


小さな事柄を処理するのに、何も大げさな方法や道具を使う必要などないということ。


「焉んぞ」はどうしての意。鶏を料理するのに、どうして牛を始末するのに使う大きな刀を用いる必要があるだろうかの意から


出典:論語(陽貨篇)、故事ことわざ&四字熟語辞典


迷惑というコトバ

2006-06-01 19:43:05 | 中国のことわざ
中国のことわざ-226 迷惑というコトバ

広辞苑で「迷惑」を引くと、①どうして良いか迷うこと②困り苦しむこと。難儀すること③他人からやっかいな目にあわされて困ることとある。今日、普通、「迷惑」と言った場合③の意味で使うことが多いように感じる。しかしもともとは①の意味でおろおろしている状態を言うのである。中国最古の辞書である「爾雅(じが)」には“迷は、惑なり”とある。つまり、迷と惑は同義語で、事の判断に見極めがつかず、おろおろしている状態のことを言う。中国語での用法は今ももちろん変わらないので「迷惑」というコトバを中国で使うときには注意を要する。


魏の曹操の「苦寒行」という詩に、真冬の厳寒のさなか、険しい山道を難渋しながら行進してゆく描写がある。

迷惑して故路を失い
薄暮にも宿棲るところ無し

この「迷惑」はもと来た道さえ分からなくなるほど判断のつかなくなった状態を言っている。


出典:広辞苑、日本経済新聞5月28日朝刊「漢字コトバ散策」


蒼生をいかんせん

2006-06-01 19:41:33 | 中国のことわざ
中国のことわざ-225 蒼生をいかんせん

今日では「乃(だい)公出でずんば蒼生をいかんせん」という形で用いられることが多いそうです。蒼生は人民のこと。「このおれさまが出馬しなければ、どうにもならぬ」という意味です。

その原典は十八史略、「淵源出でずんば蒼生をいかんせん」(殷浩どのが出馬しなければ、天下万民はどうなることやら)

広辞苑。「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」


死して後已む

2006-06-01 19:40:11 | 中国のことわざ
中国のことわざ-224 死して後已む(ししてのちやむ)


「死而後已、不亦遠乎」死ぬまで行い続ける。命ある限り努力してやめない「論語(泰白)」(広辞苑から)


過ぎたるは猶及ばざるがごとし

2006-06-01 19:38:50 | 中国のことわざ
中国のことわざ-223 過ぎたるは猶及ばざるがごとし

子貢問曰、師与商也執賢。子曰、師也過。商也不及。曰、然則師愈興。子曰、過猶不及。
子貢が「師(子張の名)と商(子夏の名)と、どちらが優れていますか」とおたずねしたところ、老先生はこうお答えになった。「師は多いな、商は少ないな」と。子貢は「では師の方が優れているのですか」とおたずねしたが、老先生はこう教えられた。「どちらも均衡がとれていないので、ころあい(中庸)ではないという点では、多いも少ないも同じことだ」

「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」は”オーバーなことは駄目だ”という意味に使う人がいるが、それは誤用であることが、上の問答からわかる。余りにも有名なものだから、このフレーズだけが独り立ちして誤った解釈されることがあるのだ。このように論語はその場の前後の話を読んで理解する必要があるのだが、残念ながら、その場の前後の話が時間とともにそぎ落とされてしまったものも多い。


度を過ぎたことは、少し足りないというのと同じようなもの。ものごとはすべからく中庸が大事だということ「論語(先進篇)」


関連で、”①薬も過ぎれば毒となる②分別直過ぐれば愚に返る③彩ずる仏の鼻を欠く”がある。


英語に「Overdone is worse than undone.」(焼き過ぎは半焼きより悪い)がある。




出典:加地伸行・すらすら読める論語・講談社・2005年11月11日発行、故事ことわざ辞典

路遺ちたるを拾わず

2006-06-01 19:36:09 | 中国のことわざ
中国のことわざ-221 路遺ちたるを拾わず

“路遺ちたるを拾わず”は天下が太平で、良く治まっていることのたとえ。「戦国策」がその原典だが、「十八史略」にもたびたび用いられて、一種の決まり文句となった。

東晋王朝時代41年間も軍の要職をつとめた陶侃(とうかん)は明敏で決断力に富み、絶対にごまかしを許さなかった。行政官としての手腕も抜群で、南陵から白帝城に至る数千里の地域の住民は、誰一人として落とし物を私物化するものもないほどよく治まったという(自南陵至白帝数千里、路不拾遺)

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」

殷浩の失脚

2006-06-01 19:30:51 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー115 殷浩の失脚

こうしたさなかに、後趙の臣の蒲洪(ほこう)が、晋に降伏を申し入れてきた。それというのも、蒲洪は歴代の趙王に仕えた重臣だったが、石遵が王位につくと、讒言を真に受けて彼を解任したからである。蒲洪はやがて三秦王と称し、姓を符(ふ)と改めた。符洪の死後、その子符健(ふけん)は、長安を占領して自立し、国名を秦とし、皇帝を自称するに至った。

いっぽう、燕王の慕容雋(ぼようしゅん)もまた皇帝を自称し、かくて東晋は、秦・燕と並んで三つどもえの対立状態に入った。そこへまたしても大物の亡命者が現れた。後趙の遺臣で、羌(きょう)族の部族長の姚襄(ようじょう)である。

姚襄は、勅命により“しょう城”に駐屯することになったが、やがて歴陽に根拠地を移した。この当時、寿春にあった揚州・予州の軍司令官殷浩は、姚襄の威勢が盛んなのを妬み、趙からの投降者をそそのかして姚襄を襲撃させたが失敗に終わった。

この事件に先立って、朝廷は中原の混乱に乗じて失地の回復をはかり、殷浩を総司令官として連年北伐にあたらせたが、なんら見るべき成果がなかった。ここにいたって、殷浩は名誉を挽回しようと全軍を率いて北進を開始した。先鋒を命じられた姚襄は選り抜きの精鋭を伏兵に配置し、山桑の地で殷浩の本隊を邀撃(ようげき)した。殷浩の本隊はなだれを打って潰走した。

桓温は、殷浩大敗の責任を問い、その職を解くとともに、貴族の身分を奪って庶民に下すよう奏請した。朝廷にしてみれば、そもそもは殷浩を重用することによって桓温の勢力を押さえる腹だったのが、殷浩が失脚してしまうと、もくろみとは全く逆の大権をすべて桓温に集中させる結果となったのである。

流謫(るたく)の身となった殷浩は、無念やるかたない思いであったが、それを表面には表さず、指先で空中に「咄咄怪事」(ああけしからぬことよ)の四字を書いては、気をまぎらしていた。そのうちに、桓温は部下の“ち超”のすすめによって殷浩を尚書僕射(ぼくや)(行政府次官、副宰相格)に任命しようとし、書面で意向を殷浩に告げた。殷浩は喜ぶまいことか、返事の手紙にまずい点があってはならぬと心配して、文箱に出したり入れたりすること十数回、あげくのはては空の文箱を送り届けるという失態を演じた。このため、桓温からすっかり見限られ、けっきょく配所で世を去ったのである。

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から