中国のことわざ-228 学びて時に之を習う
子曰。学而時習之。不亦説乎。(しいわく。学びてときにこれを習う。またよろこばしからずや)
有朋自遠方来。不亦楽乎。(ともあり、遠方より来る。また楽しからずや)
人不知而不慍。不亦君子乎。(人知らずして、いからず。また君子ならずや)
昨日出席した論語口座で先生から、“論語は前後の文章につながりがあって、物語風になっている点に着目して読むと面白いですよ」と教えられました。この「学びて時に(”つねに“という読み方もある)習う」は論語に触れるとまず最初に出てくるフレーズではないでしょうか。私もその昔、祖父からこの部分を教わった記憶があります。
先生がおっしゃった。繰り返し学問をしておくこと、それは喜ばしいことではないか。同門の友人が、遠くから、尋ねてきてくれた。何とうれしいことだろうか。他人が自分を認めないからといってそれについて腹を立てたり愚痴をこぼしたのでは君子とは言えない。(私の訳ですので念のため)
この部分を理解するには、孔子が生きた時代の歴史背景を知っておく必要があるという。孔子(紀元前551年~前479年)は春秋時代の魯という国の人である。彼は仁を理想の道徳として魯国に仕えたのだが、認められずに諸国を歴遊した。結局孔子を登用する国はなかったのである。この歴史を知っておくと、この部分を理解しやすい。
孔子は魯国はもとより歴訪した諸国からも認められなかった。しかし彼は腐らずに、いつしか登用されることを期待して、学問に励んだ。意気消沈しているとき、友達が尋ねてくれた。「お前随分苦労しているなあ。でもいつの日か、陽が燦々と君の身にふりかかるようになることだろう」孔子は友の励ましの言葉を聞いて涙を流したことだろう。“私はなかなか認められないのだが、腐っていないし、怒ってもいないのだよ。しかるべき時に備えて、先人の教えを繰り返し自分に説いているのです”
楽には三つの意味があるそうです。①楽しい②音楽③好む、好き。これはもちろん中国にも三つの意味があるので日本語で三通りの意味があるということだそうです。学ぶは“まね”という意味があります。孔子の生きた時代は竹簡(竹の小札)に文字を書き記していました。まだ紙は発明されていません。この時代は書くことは大変な作業だったので先生の言ったことを生徒は耳から聞いて必死で覚えようとしたのです。習うは復習の意で繰り返し、先生の言われたことを思い出しては、口に出したのでしょう。時には“つねに”と読む人もいる。朋は同門、友は同志。
出典:論語