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背水の陣

2005-09-30 09:15:38 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-50 楚漢の戦い-項羽と劉邦-22 背水の陣

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

韓信・張耳の漢軍はまず対趙作戦を開始、全兵力を井(せい)けい口(こう)に向け進めようとした。迎え撃つ趙軍の指揮者は趙王と西安君陳余である。

陳余の軍師李左車が、迎撃作戦を陳余に進言した。「井けい口からの道は戦車1台しか通れない隘路(あいろ)で,騎馬も隊列が組めないところです。是非奇襲隊を与えていただきたい。間道から撃って出て敵の本体をバラバラにすることができます。あなたは城の守りを固め撃って出ては行けません」と。

ところが、陳余は儒者であって、かねて義にかなった戦い方を主張している人物なのでこのような策は用いようとはしなかった。

韓信は間者からこの顛末を知らされると、内心ほくそ笑んだ。早速、全軍が大いばりで井けい口の隘路を通り、井けい口の手前まで来て宿営する。そして真夜中、韓信は騎兵2鮮明にそれぞれ漢の赤旗を持たせて、間道づたいに出発させ、これを趙軍の目と鼻の先に待機させ、次のように命令した。

「夜が明けて、わが本隊を発見すれば、趙軍はきっと城を空にして出てくるだろう。その際に乗じて、すばやく城に入って趙の旗を抜き、漢の赤旗を立てるのだぞ」
一方、本隊は河を背にして陣をしいた。

翌朝、韓信は、大将の旗、太鼓を先頭に、井けい口の陣から太鼓を鳴らして撃って出た。趙軍は城門を開いてこれを迎え撃つ。暫く互角に戦ったあと、韓信、長耳はわざと太鼓、旗を捨て、河岸の陣めざして退却した。

趙軍はそれとばかり、全軍が追撃に移った。河を背にした漢軍は、全員が決死の覚悟で防戦する。趙軍は敵の大将を取り損ない、ひとまず矛を収めて城に戻ろうとした。

ところが、見れば、城壁には漢軍の赤旗が立っているではないか。驚いた趙軍は、列を乱して逃げまどう。そこへ、前後から漢軍が襲いかかって挟み撃ち、さんざんに趙軍を蹴散らし、陳余を血祭りにあげ、趙王を生け捕りにするという大勝利を博した。

戦いが終わり、祝賀の席上、諸将は韓信に口々にたずねた。「兵法には、布陣の要諦として、山や丘は右または後ろにし、河や湖沼は左または前にするとあります。にもかかわらず、今回の戦いは河を背にして勝利を得ました。これはどうしてでしょうか」

「ごもっとも。しかし、兵法はこうも教えています。質に陥り窮地に身を置いてこそ、生存の道が開けると」

一同、なるほどと感心した。

さて韓信は、趙の名軍師李左車を賞金付きで捜した。捕まえるとその縄をほどいて、燕攻略について教えを乞うた。彼の策を用い、弁舌巧みなものを選んで、燕に降伏勧告の手紙を持たせたところ、燕は漢を恐れ、草がかぜになびくように降伏勧告を受け入れた。


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