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なぜ元帝は宣帝の後継になれたか

2006-01-06 18:25:29 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-140 なぜ元帝は宣帝の後継になれたか

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

宣帝没後、漢王朝は57年続く。その間、帝位についたのは元帝、成帝、哀帝、平帝であったが、いずれも名君と言える器ではなかった。57年間見事なまでに下降線を辿ったのだが、その禍は儒学であった。

元帝の太子時代、彼は温和な性格で儒学を学んだ。彼から見ると父の宣帝は法治主義に偏している。官吏には法律に通じた人物ばかり登用するし、もっぱら刑罰によって人民を統治している。

ある日、酒宴の席をかりて、太子はもの静かな調子で宣帝に訴えた。「陛下は刑罰に頼り過ぎておられるかと思われます。この際、是非儒者を採用して、聖人が教えた政治をなさってはいかがでしょうか」

宣帝はさっと顔色を変えてこう言った。

「漢家には、立派に漢家の制度がある。覇道と王道、双方を併用するのが伝統となっている。なにゆえその片方である徳治主義だけを用いて、周代の政治をまねしなければならぬのか。その上儒者どもは、時宜にかなったことは何一つわからんのだ。連中は口を開けば昔を誉め、現代をそしって、世人の判断を惑わせ混乱に陥れる。あんな連中に政治が任せられると思っているのか」

こう言ってから、宣帝は大きくため息をついた。「わが漢家を混乱させる者は、この太子に違いない」

それでは、その太子がなぜ帝位につくことができたのか。かつて宣帝は、少年時代、太子の母(すなわち宣帝の妃)である許氏の実家に身を寄せていた。その恩義があった上、のち許皇后が霍氏によって毒殺されたので、この太子を廃するに忍びなかったからである。かくて、宣帝没後、太子が即位した。



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