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好色皇帝

2006-01-07 20:44:11 | 十八史略を読む Ⅱ
十八史略を読むⅡ-145 好色皇帝

「十八史略Ⅱ 権力の構図:徳間書店、市川宏、竹内良雄訳、1986年12月七刷」から

いったん、衰勢と向かった流れを変えるのは、至難の業である。むしろ、駄目なときは駄目なことが続くのが通例である。元帝の跡を継いだ成帝には、そもそも政治に立ち向かう気構えさえなかった。外戚、すなわち母親王氏の一族が次から次へと登用される。

成帝の名は“ごう”という。皇后王氏の子で、第一宮殿で生まれた。

成帝は幼少の頃経書ばかり読んでいたが、その後、酒と音楽に興味を持ち始め、日夜宴会にふけるようになった。元帝の時に太子の位についたが、あまりの放蕩ぶりがたたり、あやうく廃位されそうになったこともあった。その時は、史高の子の丹が元帝の寝室まで入り、号泣して元帝の翻意を求めたので、事なきを得た。

元帝が亡くなり、この太子が帝位についた。母の王氏を尊んで皇太后の称号を贈り、また母の長兄である王鳳(おうほう)を大司馬大将軍に取り立て、尚書を統括させた。

健始元年、中書令の石顕は、罪を得て罷官された。そして郷里に帰る途中、急死した。

この年成帝の母方の叔父王崇(おうすう)を安成侯に封じた。また、王譚(おうたん)、王商、王立、王根、王逢時(おうほうじ)の五人にも関内侯の爵位を与えた。

河平二年、成帝は母方の叔父をすべて列候に封じた。

陽朔(ようさく)三年、大司馬大将軍王鳳が死んだ。弟の王音(おういん)が代わって大司馬となった。また王譚が近衛兵を管轄するようになった。

鴻嘉(こうか)四年、王譚が死んだ。王商が代わって近衛兵を管轄した。

永始元年、成帝は、大后の弟、王蔓(まん)の子である王莽(おうもう)を新都侯に封じた。この年、趙氏を皇后として立てた。この人の名は飛燕(ひえん)という。妹の合徳(ごうとく)も女官として宮中入りした。

* すさまじい王氏一族の登用ラッシュである。
* 趙飛燕、合徳の姉妹は、中国史上の代表的美女かつ淫女として名高い。成帝はやりたい放題の生活がたたって、在位26年にしてある夜急死を遂げる。この死因は合徳が帝に勧めた精力剤だったとされ、彼女は自殺した。飛燕も転変の末、平民に身分を落とされ自殺に追いやられた。



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