雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第十二話

2009-12-26 11:44:53 | 言葉のティールーム

『 拈華微笑 』


拈華微笑・・・「ねんげ みしょう」と読みます。
日常使われる言葉ではありませんが、言葉の意味は、以心伝心と同意語とされているようです。


この言葉は仏教の経文の中に出てくる言葉です。釈迦歎偈 (シャカタンゲ) といって、お釈迦さまを称える経文の中の一つに出てくるそうです。仏教の教えを伝えるにあたって、文字や言葉ではとうてい表現できない部分を伝える手段という意味のようです。
そして、この言葉には、たいへん有名な仏教説話があるのです。


ある日、お釈迦さまが霊鷲山 (リョウジュセン) で説教をした時のことです。
霊鷲山といいますのは、インドのマガダ国の都にある山で、お釈迦さまが法華経など多くの教えを説いたといわれる山です。
そこで大勢のお弟子さんなどに説法されていた時、お釈迦さまが、はすのはな (華) をつま (拈) んで、お弟子さんたちに示されました。お弟子さんたちは、お釈迦さまの意中をはかりかねて、誰もが呆気にとられてただ黙っていました。
しかし、ただ一人、高弟の一人である摩訶迦葉 (マカカショウ) だけがその意を悟り、にっこりと微笑んだのだそうです。これによって、その時のお釈迦さまの正しい教えは摩訶迦葉に伝えられ、その後連綿として多くの人に伝えられて行くことができたのです。


私たち日本人にとって、仏教の教えは極めて大きなものです。宗教としての仏教を考えるのは、それぞれの立場により考え方も変わってくるのでしょうが、文化としての仏教が持つ私たちへの影響力の大きさは、否定できないのではないでしょうか。
せっかく、摩訶迦葉はじめ多くの聖人が、お釈迦さまから正しい教えを授かり後世に伝えて下さいましたが、私たちがどれだけ正確に受け取れているのか少々疑問です・・・。


この摩訶迦葉といわれる方は、お釈迦さまの十大弟子の一人で、お釈迦さまが亡くなられたあと、教団の中心となってお釈迦さまの教えの集大成を取りまとめた人物でもあります。


さて、私がこの「拈華微笑」という言葉を初めて知りました時は、いわゆる四字熟語の仲間としての認識しかありませんでした。
その後、年齢を重ねたことと、他の切っ掛けもあったのですが、再びこの言葉と出合った時には、最初とは全く違うイメージの言葉として感じるものがありました。

その再会した書物には、この言葉の出典や説話について詳しく述べられていたのですが、私の心の中に広がっているものは少し違うものでした。
私の心の中で広がってゆく「拈華微笑」という言葉が持つ光景は、限りない優しさを秘めて微笑を浮かべている方の姿でした。お釈迦さまと摩訶迦葉さまとの師弟愛に包まれた感動的な場面は浮かんで来ず、ただひたすらに優しく微笑む方の姿を思い浮かべていました。

その方とは、「弥勒菩薩半跏思惟像」 (ミロクボサツ ハンカシユイゾウ) という仏像のことで、冠を戴いていることから「宝冠弥勒菩薩」とも呼ばれている有名な仏さまです。
仏さまのことを、気安く「その方」などと言うのは誠に不謹慎なことは十分承知していますが、「拈華微笑」という言葉と直接結びついているように私の心に浮かんできたのが、この仏さまの姿だったものですから、自分の正直な気持ちとしてこのような表現になってしまったのです。


この仏さまは、京都の洛西、太秦の地にある広隆寺に祭られています。
広隆寺は、古い歴史を持つ京都にあっても、最も古い歴史を有する寺院であります。聖徳太子とのゆかりは深く、建立されたのは推古朝の頃とされています。その後、幾度も災害や大火にあっていますが、そのつど不死鳥のように再建されてきたことをみれば、いかに多くの人々の信仰を受けてきたかが偲ばれます。
さらに、度々の大火にあいながら多くの仏像が今日まで守られてきているのです。


広隆寺は広大な境内を持つ寺院ですが、京都の中にあっては特筆するほどではありません。建物群も、国宝や重文に指定されているものも含まれていますが、京都という所は街全体が国宝みたいなものですから、特別に目立つものはありません。
私のような観光目的の者にとって、この寺院の最大の魅力は、安置されている仏像群ではないでしょうか。


正面にあたる仁王門から入って、一番奥まった辺りに位置する霊宝殿には、たくさんの仏像が安置されています。
仏像の数は多く、圧倒されるほど巨大なものから、等身大のもの、さらにはもっと小ぶりなものまでさまざまです。その表情も、おどろおどろしいものから慈愛に満ちたものまで、これもまたさまざまです。


その数多の仏像群の中で、、ひときわ注目を浴びているのは三体の弥勒菩薩像であります。そして、その中央で、静かな微笑をたたえておられるのが宝冠弥勒菩薩像です。
私たちの悲しみや苦しみの叫び声を、欲望や自棄が渦巻く心を、ただ静かに受け取って下さって、なお変わらぬ微笑をたたえておられる仏さまなのです。そして、私たちの心が壊れそうな時には、この弥勒菩薩さまは限りない微笑みでもって話しかけてくれるはずです。


私がこの仏さまを最初に拝観したのは随分昔のことです。その時のことを正確に覚えていませんし、それほどの感激はなかったと思います。それから後にも、教科書や旅行案内書などでも写真を見る機会が何度もあったはずですが、やはり特別の感慨を抱くことはありませんでした。

そして、ある切っ掛けで広隆寺を訪れる機会があり、この仏さまに再会しました。その頃は、大変苦しい出来事の直後で自棄になりそうな気持を辛くも支えているような状態でした。
私は、その時宝冠弥勒菩薩さまに再会して救われました。私が「拈華微笑」という言葉と「宝冠弥勒菩薩さま」とが連動するようになったのはこの時からなのです。



さて、あなたには、限りなく優しい表情を見せてくれる方はいますか。
それは、必ずしも人間である必要はないと思うのです。もちろん仏さまである必要もありません。
私たちが、多かれ少なかれ旅にあこがれるのも、ペットを飼ってみたいと思うのも、そのような存在を求めているからではないでしょうか。
打算や感情を超越して、ただ静かに優しく微笑みかけてくれる存在・・・。肩肘張って生きてゆくことの多い私たちには、そのような存在が必要なのではないでしょうか。


幸い私は宝冠弥勒菩薩さまに出会いました。
その後、弥勒菩薩という仏さまがどのような仏さまなのか勉強もしました。しかし、私にとって必要なのは、本に書かれているような功徳ではなく、あの深い微笑みなのです。「拈華微笑」という言葉に連動する、あの仏さまの表情そのものが何より大切なのです。


私たちは合理性を何より重視する社会に生きています。
生きてゆくために、心ならずも人を傷つけたり押し退けたりしています。もっと悠々と、もっと優しく生きてゆきたいと思いながら、あさましい行動に出てしまうことが少なくありません。
そして、自己嫌悪に陥り反省もするのですが、また同じような過ちを犯してしまいます。


哀しいことですが、その繰り返しのように思われるのです。その哀しみを癒すために、ひたすら私たちを見つめてくれていて、それでいて利害や打算が起こり得ない何かを、私たちは必要としているのではないでしょうか。


周囲の人を傷つけてばかりいて、そのくせ最も傷つきやすい私たちには、ひたすら優しく接してくれる存在が絶対に必要なのです。
そして、そのような限りなく優しい存在に接している時は、私たちも、ほんの少しばかり、いつもより優しい心や優しい表情になれているかもしれないと思うのです。


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