『権兵衛が種をまく 』
�♪�� ゴンベが 種まきゃ からすが ほじくる・・・
あなたは、このような唄を聞いたことがありませんか。
少し前のことになりますが、私は突然のように、この唄、というよりこの言葉の部分が思い浮かんで、無意識のうちに口ずさんでいることがよくありました。
声に出すというほどのことはないのですが、気がつくと、緊張すべき状況なのに周囲の雰囲気とは不似合なこの唄を心の中で口ずさんでいるのです。
その頃は、精神的に少々苦しい時でしたので、自分の気持ちを安定させるために本能的な何かが働いて、荒んだ気持ちを和らげてくれているのだと思っていました。
確かに、崩れそうな精神面を安定させてくれる働きのようなものがあったようにも思うのですが、それが、なぜ「ゴンベが 種まきゃ・・・」なのかということが気にかかっていました。
この唄について特別な思い出もありませんし、正式な形で歌った記憶もないのです。
そのような状態がしばらく続き、ある期間この唄に助けられていたのだと思うのですが、この唄が登場してきた謎は今も解けておりません。
やがて、いつの間にか「ゴンベが 種まきゃ」を口ずさむようなことはなくなりましたが、この唄のことは気になっていました。
そこで、少し調べてみようと思い二か所の図書館で参考になる本を探したのですが、作者や出典について書かれている資料を見つけることができませんでした。
断片的に書かれているものから推定しますと、どうやら、古くから俗謡のような形で伝えられたものらしいのです。
私はそれらしい節も分かっていますし、ラジオかテレビで歌われているのを聞いたことがあるような記憶もあるのです。ですから、もしかすると作者がはっきりしているのかもしれませんが、ここでは「読み人知らず」ということで紹介させていただきます。
ところで、この唄の次の文句をご存知ですか。
私は何人かの知人に同じ質問をしてみました。結果は一人も知りませんでした。中年以上の方の多くは聞いたことのある唄だと思うのですが、殆どの人が次の句を知らないようです。
私も二十年ほど前に何かの小冊子で読む機会があって知ったのです。
次の文句は、「三度に一度は 追わねばなるまい」と続くのです。
これは大分前のことになりますが、父親のイメージを漢字一字で表わすと、「優」とか「働」とかが上位にくるという新聞記事がありました。
ある保険会社の調査だったと覚えているのですが、頑固の「頑」や雷親父の「雷」などは、あまり上位にはこないようです。
これらの文字が日常生活で使われる機会が少ないためかもしれませんが、やはり、よく言われるように、父親像というか、男の持つイメージが昭和初期頃までとは変化しているのも確かなのでしょう。
そして、その傾向は現在も続いているように思われます。
選ばれた文字のうち、「優」は優秀という意味ではなく優しいという意味として選ばれているようですが、それは額面通り優しいということではなく、柔弱というイメージであり優柔不断ということに連動されているように思うのです。
中国の思想家である老子は柔弱であることが最も大切だと説いていますが、私たちの日常生活ではあまり良い意味では使われません。
それでは「働」は、どのような姿としてイメージされているのでしょうか。
どうも、額に汗して働く姿というイメージではないような気がします。
若干個人的なひがみがあるかもしれませんが、「馬車馬のように働く」とか「理不尽なことにも必死に耐え忍ぶ会社人間」などといった姿を表現しているように思えてならないのです。
しかし、どうでしょうか、父親のイメージ、「優」とか「働」でいいじゃないですか。
いえ、決して投げやりな意味ではなく、もっと積極的な意味で、これらの言葉を親父を表現する言葉として受け止めていいのではないでしょうか。
私はサラリーマンとしての生活が長く、極めて限定的な経験でしかお話しできませんが、平均的なサラリーマンの「働」がそれほど楽なものでないことだけは断言できると思います。
決して辛いことばかりではありませんが、組織の中での苦労も少なくなく、耐えたり、乗り越えたり、挫折してしまったり、それでもなお家族の生活を背負っていこうと頑張っている姿を思い浮かべます。
会社を通じて得ることができる人間関係が、かつての戦友につながるものなのかどうかは分かりませんが、苦しい時に職場を同じくした人のことはいつまでも心に残り、交際が長く続くことも多いようです。その一方で、組織を離れれば絶対に会いたくないという人物がいることも事実のようです。
裏切られた、足を引っ張られた、成果を横取りされた、などという恨みの一つや二つは誰でも持っているのではないでしょうか。
さて、そこで、権兵衛さんの登場です。
♪ ゴンベが 種まきゃ からすが ほじくる
三度に一度は 追わねばなるまい
この唄といいますか、この言葉をテーマに選びましたのは、この言葉が実に見事にサラリーマンの不満や悩みに対して答えてくれていると興味を持ったからです。
ある時期、私の心に浮かんでいた権兵衛さんが、このような教えを伝えようとしてくれていたのかどうかは分からないままなのですが・・・。
「権兵衛が 種まきゃ からすが ほじくる」という言葉は広辞苑にも載っていて、「愚かしい無駄骨折りをするたとえ」と説明されています。また、ことわざ辞典のようなものには「人のやったことを、あとからぶち壊しにするたとえ」とか「ばかばかしい無駄骨仕事のたとえ」などと説明されていました。
この言葉は、唄というよりことわざの範疇に入るのかもしれません。ただ、私が調べた範囲では下の句の「三度に一度は 追わねばなるまい」について説明されているものは見つけられませんでした。
ここに登場してくる権兵衛さんというのは、お百姓さんのことです。
と言っても、単に農民ということではなく、働く者の代表という意味です。この言葉が作られた頃の働く者の代表が農民であり、権兵衛さんだったのです。
すなわち、現在でいえばサラリーマンということになります。
種をまくというのは、仕事をするということです。
それも単純な労働というより、将来の成果を考えて仕事を進めるということ、プロジェクトとまではいかなくとも、ある程度の計画や段取りを考えて進める仕事ということになります。
そして、からすです。
からすとは、ライパル会社であったり、同僚であったり、調子だけ良い上司だったりします。
彼らは、権兵衛さんが丁寧に耕し、種をまき、水や肥料をやり、収穫を楽しみに畑を離れるのを待って、ほじくり返します。
畑は荒らされ、種は食べられてしまいます。
それどころか、種をせっせと自分の山へ運んでいくからすもいます。
さらに驚くことには、さんざ畑をほじくり返したうえで、これだけほじくり返したのだから、この畑は自分の畑だと言い張るからすさえいます。
権兵衛さんの苦労がよく分かります。
権兵衛さんの無念さは、サラリーマンがたびたび味わう無念さと同じだと思われてなりません。
しかし、私たちが学ばねばならない大切な教訓は、下の句ではないでしょうか。
そうです、権兵衛さんは「三度に一度は 追わねばなるまい」と言っているのです。
人の良い権兵衛さんですが、いつもいつもからすの勝手にさせておくわけにはいきません。三度に一度は追い払ったのです。
私たち平均的なサラリーマンも、いつもいつもお人好しでいるのではなく、三度に一度は自己主張すべきなのです。
しかし、権兵衛さんがからすを追い払うのは、三度に一度なのです。
すなわち、あとの二度は、自分の努力はからすたちに取られるものだと達観しているのです。
サラリーマンの相手は、からすではなく人間です。
困ったことに、人間は自分に優しく他人に厳しい動物です。
最初から人の成果を掠め取ろうと考えている人は多くはないでしょうが、結果として、他人が得るべき成果を自分の手中にして何食わぬ顔をしている例は少なくありません。
また、私たち自身が、掠め取る立場に立っていることも少なくないはずです。さらに困ったことに、自分自身にその認識さえ無いことが多いということです。
私たちは、自分が努力をした結果に生まれてくるものは、三つのうちの二つまでは他人のもとへ行くものだと考えておくことが必要なのではないでしょうか。
確かに悔しい思いは避けられないでしょうが、自己主張するのは三度に一度くらいがいいところと覚悟していれば、腹が立つことも少なくなります。
それが、優しさというものではないでしょうか。
世の親父諸兄殿。「優」と「働」で結構、この二つをもっと強くイメージさせる男になろうではありませんか。
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先日リモートワークをする息子を見ることが出来ました。2歳と8ヵ月の息子を嫁があそばせ、本人は食卓で仕事をしていました。これも働くですね。
詳しくは自分のブログで書いてみたいと思います。
ご返事遅くなり申し訳ありません。
ご覧いただきました作品は、大分前のものですが、今読み直してみますと、少し違う感慨があります。
働き続ける姿は示せなくなってしまいましたが、せめて、真剣に生きている意気込みだけは持ち続けたいと願っています。
今後ともよろしくお願いいたします。