雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第十一話

2009-12-26 11:46:56 | 言葉のティールーム

『 虎を描いて猫にも成らず 』


   少年捨父奔他国       少年、父を捨て他国へはしる
    辛苦描虎猫不成   辛苦、虎を描いて猫にも成らず
    箇中意志人初r問   箇中の意志、人もし問わば 
    只是従来栄蔵生   
ただ、これ、従来の栄蔵生


これは、良寛の詩の一部です。
詩はこの後にも続くのですが、この部分の意味は次のようなものです。
「少年は、父を捨てて他国へ行ってしまった。 辛苦を重ねて、虎に成ろうとしたのだが、猫にさえ成ることができなかった。 今の気持ちはどのようなものかと、人が問うなら、 ただ、自分は昔のままの栄蔵にすぎなかったのだと答えるだけだ・・・」
なお、「栄蔵」というのは、良寛の幼名です。


詩の続きの部分に、「四十年前行脚日」とありますから、良寛が出家してから四十年ほど経った頃に書かれた詩であると考えられます。
良寛、すなわち栄蔵少年が出家したのは十八歳の頃とされており、また故郷を離れて備前玉島に向かったのが二十二歳の頃ですから、この詩は六十歳前後の頃の作品ということになります。


波乱の日々を越えて還暦を迎えようとしている良寛は、少年の日に突然出家して厳しい禅の世界に身を投じた栄蔵の姿を想いうかべ、取り返すことのできない日々を悼んで、この詩を詠んだのでしょうか。
禅の道に学び、漢詩や和歌を中心とした文芸の分野で認められ、還暦の頃には多くの人々の尊敬を受け、それ以上に慕われ愛されていたと思われる良寛であっても、少年の日を想うとき、鬱々としたものが限りなく込み上げてくるものだとすれば、人の生きてゆくことの難しさが思い知らされます。



良寛さんという人物は、現代の私たちにもたいへん親しみを感じさせる人物です。
良寛さんにまつわる物語として伝えられているものは、五百に及ぶそうです。当時、良寛に直接接した人たちが、その魅力について伝え、さらにそれらに尾ひれがついて、五百もの逸話になっていったのだと考えられます。

天衣無縫の貧乏な乞食僧 ( コツジキソウ )にすぎない良寛さんに多くの人たちが惹かれたのは、その文学的、あるいは宗教的な才能による部分が大きいのはもちろんですが、それらの才能を超えて人々を惹きつける人物であったということは、伝えられるエピソードの一つ二つを見るだけで想像されます。


ところで、現在の若い人たちは、良寛さんという人物をどのようにイメージしているのでしょうか。
私の場合は、良寛さんといえば、子供たちと手まりやかくれんぼをして遊ぶ姿が浮かんできます。子供の頃に読んだ本などから、私の中に植えつけられている良寛像は、山のお寺で自由気ままな生活を送り、世間の欲得など超越して、子供たちと本気になって遊ぶような日々を過ごしている住職さん・・・、そのような感じでした。
そして、その姿は浮世離れしていて、自分たちが生活している次元とは違うところに存在しているような、そのようなイメージを抱いていました。


数年前、私は良寛さんに関する記事を見る機会がありました。
大人になってからの私は、良寛さんに特別関心を持つようなこともなく、関係する書物などを見る機会がありませんでした。
それでも、良寛さんが漢詩や和歌を残している文学者であることはある程度知っていましたし、伝えられている俳句を読んだこともありました。また、修業を積んだ禅僧であることも知っていました。


しかし、今回良寛さんについて勉強してみたいと思った切っ掛けは、禅僧として過大なほどに評価されている記事を見て驚いたからです。
もっとも、過大というのは、これまで私が描いていた良寛さんに対してということですが・・・。
恥ずかしいことですが、私の良寛像の中には優れた禅僧というイメージは殆んどなく、人の良いお坊さん程度の感覚しかなかったものですから、その記事が大変新鮮なものに感じました。


早速、良寛さんに関する本を何冊か読んでみました。そのいずれからも、私にとっては新しい良寛さんの魅力が読み取れました。同時に、自分なりにであっても、良寛さんという人物を理解することが、そう簡単でないこともよく分かりました。


ただ、その中で、ここに挙げました「虎を描いて猫にも成らず」という一節には強い感動を覚えました。
良寛さんについて語るのは私には荷が重すぎることは承知しているつもりですが、自分が受けた感動を抑えきれず「虎を描いて猫にも成らず」と詠み上げた良寛さんについて考えてみたいと思ったのです。



良寛は西暦1758年(宝暦8年)12月、現在の新潟県出雲崎町に誕生しました。
当時の出雲崎は、江戸幕府の直轄地(天領)であり、かつては佐渡金山への積み出し港として栄えた要衝の地でありました。良寛の生家は、この出雲崎の名主、橘屋山本家という名家でした。


西暦1616年(元和2年)、佐渡金山の重要性を認識していた徳川氏がこの地を直轄地として代官所を設置したことから、出雲崎は新潟、直江津と並んで北越の三津の一つといわれる重要港に発展していったのです。
その後も佐渡金山の開発は、江戸幕府にとって重要プロジェクトでありました。人材や資金が積極的に投入され、産金量は飛躍的に伸び、佐渡相川の人口は爆発的に増えていきました。
その佐渡島との物資の集積地である出雲崎も、さらに重要性を増し発展していきました。


しかし、時代は橘屋山本家にとって不運な方向へ動いていきました。それは、急激な輸送量の増大が、出雲崎を発展させるとともに弱点を露呈させることにもなったのです。
もともと出雲崎港は水深が浅く、周囲に岩礁も多い所でした。小さな船の出入りには大した支障はなく、むしろ利点も多かったのですが、佐渡金山の生産量の増大に比例して増え続ける輸送には、これまでのような小型船だけでは対応できなくなり、大型船の必要性が高まっていったのです。


出雲崎の隣接地である尼瀬は水深が深く、大型船を着けるのに便利な港を有していました。次第に尼瀬に寄港する船が増えていき、西暦1625年(寛永2年)に出雲崎の代官所屋敷が災害で壊れたのを機に、代官所も御金蔵も尼瀬に移されました。
これにより、出雲崎の繁栄は尼瀬に移っていき、尼瀬の名主、京屋野口家の権勢は年ごとに強くなり、一方で、橘屋山本家の家運は傾いていきました。


橘屋山本家の歴代の当主とて家運の傾くに任せていたわけではなく、代官所や京屋野口家などを相手に回し、権益をめぐる確執は延々と続くのです。それは、西暦1810年(文化7年)良寛の弟である由之(ユウシ)が、財産没収のうえ所払いという、名門橘屋山本家にとって誠に悲しい決着を見るまで、実に百七十五年にわたって続きました。
良寛が生まれた時には、代官所が尼瀬に移ってからすでに百三十年程の歳月が過ぎており、まさに没落名主となっていた名家に誕生したのです。


良寛が出家したのは、十八歳の時とされています。
しかし、この頃の良寛は名主見習役として代官所に届けられており、代官所からも届け出に対する許可が出ていましたので、簡単に出家できる状態ではなかったと考えられます。
そのような状況の中を強引に出家の道を選んだらしく、尼瀬にある光勝寺に飛び込んだのです。


光勝寺は永平寺を大本山とする曹洞宗の寺院でした。
橘屋山本家の菩提寺は真言宗であり、越後は親鸞聖人や日蓮上人の遠流の地であり、ともに信者や寺院の数も多い土地柄です。その中で良寛が光勝寺を選んだのは宗教的な理由からではなく、幼い頃から数年間手習いに通ったことと住職が遠縁にあたることが理由であったと思われます。


ともあれ、強引に出家の道を選んだ良寛は光勝寺で四年ばかりを過ごしました。
そして、二十二歳の時、高僧との誉れ高い備中玉島の円通寺住職大忍国仙(タイニンコクセン)和尚と出会うのです。この運命的な出会いにより国仙和尚に弟子入りすることとなり、和尚に付き従って備中玉島に向かいました。
備中玉島は現在の倉敷市にあたりますが、良寛は円通寺で十二年を過ごすことになります。


円通寺は曹洞宗屈指の名刹であり、修業僧は数十人に及ぶ大寺院でありました。
良寛が円通寺に到着したのは、二十二歳の年の十一月頃と思われますが、極めて遅い入門でした。円通寺の修業僧の多くは、幼年期か遅くとも十代半ばまでに入門していたと考えられます。
良寛がそれまでにかなりの修業や学問を積んでいたとしても、また優秀であったということが事実だとしても、飛びぬけて遅い入門からの厳しい禅僧としての修業は、並々ならぬものであったことは想像に難くありません。


良寛はここで、十二年に及ぶ修業を積みます。傑僧、大忍国仙和尚のもとで、曹洞禅について学び、宗祖道元の教えを学んだ時期であります。
そして、良寛三十三歳の年の十二月に師匠より印可が与えられました。卒業証書のようなもので、一寺の住職になってよいという証明でもあります。
良寛を十二年にわたって指導した師匠は、この弟子に、印可を許すにあたって一篇の詩と何の細工もない藤の杖を与えます。


漢詩は「良也如愚道転寛」という言葉で始まっています。
「良や愚の如く、道はうたたひろし・・・」と呼びかける師匠の最後の教えは、良寛の後の半生に少なからぬ影響を与えたことは確かだと思われます。
さらに、師匠が愛用していた一本の杖を与えたことは、円通寺を出よと良寛に諭しているように思えるのです。



大忍国仙和尚は、良寛さんに印可を与えた翌年春に亡くなりました。自分の歩いてきた道を引き継ぐようにと、良寛さんに遺言するかのように、一本の藤の杖を与えてから、僅か四ヶ月ほど後のことでした。
良寛さんは、このあと忽然として円通寺から姿を消しました。


良寛さんが生きた時代は、江戸時代といっても幕末に近い頃です。
多くの漢詩や和歌や俳句を残し、伝えられている書や手紙の数も少ないものではありません。
伝説化されたものも含めた逸話は五百に及ぶといわれ、日本人の郷愁の原点ともいえる人柄に惹かれた多くの人々が、良寛さんについての研究を続けています。
しかし、それでもなお、円通寺を去った後の足跡や行動については多くの謎を秘めたままです。


良寛さんが消えるように円通寺を去ったことについても、様々な推察がなされているようです。
例えば、師匠から印可を受けたことから当然円通寺住職の後継になると思っていたのが、別の人物が指名されたため失望したから、というものがあります。また、後継指名された玄透即中和尚が、考え方の合わない良寛さんを追放したという説も伝えられているようです。


しかし、これらの話は事実とは思えません。それは、円通寺の寺格の高さと、玄透即中和尚の人格を推量すれば、納得性がないことが分かります。
円通寺は、永平寺を大本山とする曹洞宗にとって屈指の名刹です。良寛さんが、仮に出色の才能の持ち主だったとしても、印可を受けたばかりの若い僧に託すような寺院ではないのです。後継人事は本山の意向によるものと考えるのが自然なのです。


さらに、後継者となった玄透即中和尚は、その時すでに六十二歳、名僧の誉れ高い人物でありました。後に永平寺五十世となり、本山ならびに教団の改革をすすめ、永平寺中興の祖と呼ばれるほどの人物です。良寛さんがいくら気に入らないからといって、短期間の間に追放するなど有り得ないことだと思います。
むしろ、良寛さんは、この大和尚に出会うことなく円通寺を去ったのだと思うのです。


良寛さんが円通寺を出たのは、師匠と死別して間もない頃だったのではないでしょうか。
師匠の遺言ともみえる教えは、お前が身を置く場所は大寺院などではなく行脚の中にこそある、と指し示していたのではないでしょうか。
「良や愚の如く・・・」十二年に及ぶ修業の結果良寛さんが得たものは、この師匠の教えだったのではないでしょうか。


大愚良寛 (タイグリョウカン) の誕生であり、一本の藤の杖と鉄鉢がすべての旅立ちでもあったのでしょう。
乞食僧 (コツジキソウ、托鉢により修業を続ける僧) として、旅から旅の行脚の日々は、四年、あるいは五年にも及んだのでしょうか。その行く先は、詩や和歌などに残されていることから、兵庫県の赤穂・明石・須磨、大阪から和歌山、伊勢、高野山などを旅したことは確かと思われ、さらに四国や遠く長崎にまで及んだとの話もあります。


乞食僧といえば、仏の教えに立てば意味あることとはいえ、崇高な教えを知らない大部分の人から見れば、こじき・物もらいと同じに見える生活だったのではないでしょうか。


おそらく、各地の禅寺や他宗の寺院も訪れ、さらに教えを受けたり自ら修業する生活だったのでしょうが、五年にも及ぶとなれば、どのような毎日であったのかと胸に迫ります。
時代はまさに「天明の大飢饉」と呼ばれる大飢饉の真っ只中でありました。田畑を持つ農民でさえ餓死者を出す飢饉の中を、良寛さんは何を想い、何を求めて歩き続けたのでしょうか。


母は円通寺での修業中に亡くなっており、少年が捨てたという父も、この行脚の日々の間に亡くなっています。
少年に捨てたといわれた父もまた、悲しい人生を背負った人のようでした。名門の名主の家に養子として迎えられ、激しく没落してゆく運命の中で、世俗の争いに抗しきれず俳諧の世界に逃れ、子に捨てたと詠まれる父親の足跡は、哀れではありますが触れてみたいような温もりを感じてならないのです。


良寛さんが父の死をどこで知ったのかは分かっておりません。少年の日に父を捨て他国へ行ってしまってから、一度でも父と再会することがあったのかどうか、これも分かっておりません。
しかし、良寛さんにいくら固い決意があったとしても、俗世間を捨て禅一筋の十数年を送ったからといって、父の全てを捨て去ることなどできるものなのでしょうか。


良寛さんの果てしない行脚は、ついに曹洞宗の大本山永平寺に達します。その肉体も、おそらくその魂までもがさ迷い歩く旅を通して得たものは、曹洞宗に対する失望だったのです。
大忍国仙和尚から教えられたものや宗祖である道元禅師の教えと、現実にみる宗門の姿とのあまりにも大きな乖離に落胆したのです。


良寛さんは、再び出家します。
十八歳の時に捨てた家は、父がおり母がいる家でした。そして今、再び捨てる家は、曹洞宗という全てを託したはずの宗門でした。


良寛さんは曹洞宗団という唯一の拠り所からも離れ、まさに身一つで故郷を望む丘に立ちます。僅かに身に着けているものは、身を覆う襤褸 (ランル、ぼろぎれ) と鉄鉢と師匠から譲り受けた藤の杖だけでした。
良寛さんは、眼下に広がる故郷の村を、どんな思いで見たのでしょうか。


   少年、父を捨て他国へはしる
   辛苦、虎を描いて猫にも成らず
   ・ ・ ・ ・


良寛さんの胸に去来するものは何だったのでしょうか。
良寛さんにとって、描こうとした虎とは何だったのでしょうか。
描こうとしても猫にも成らなかったという、その虎とは何だったのでしょうか。
修業から得た悟りのようなものが言わせるものだったのでしょうか。それとも、挫折感が言わせるものだったのでしょうか。


良寛さんは、故郷へと足を踏み入れます。
そして、この日から三十五年に渡って、後世の人の多くが最も良寛らしいと評価するであろう日々を生きます。
故郷を望む丘に血を吐く思いで立った良寛さんが、多くの人たちから慕われる良寛さんに変わっていくのですが、還暦に至ってなお掲題の詩を詠むことを想えば、その心境が胸に迫ってきます。
最後に蛇足ながら、私がずっと持っていた良寛像と違い、良寛さんは生涯住職になることはありませんでした。


 


 


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 言葉のティールーム   第... | トップ | 言葉のティールーム   第十話 »

コメントを投稿

言葉のティールーム」カテゴリの最新記事