雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第一話 後半

2009-12-26 11:54:59 | 言葉のティールーム

和泉式部は、平安時代を代表する歌人の一人です。
生没年は不詳ですが、西暦九百七十八年前後に誕生したという説が有力のようです。
大まかに言いますと、西暦一千年前後に活躍した人ということになります。


時は一条天皇の御代、藤原氏の最全盛期にあたります。
王朝文学が絢爛と咲き乱れる時代です。紫式部や清少納言といった、わが国の歴史全体を通しても代表される女流文学の才媛たちが競い合った時代でもあります。


和泉式部も、この時代を生きた女性でした。
後に、藤原氏の長者道長の長女である、一条天皇の中宮彰子に仕えることになりますが、ちなみに、紫式部も彰子に仕える女官の一人でしたし、清少納言は皇后の定子に仕えていました。


和泉式部は大江氏の出とされていますが、異説もあります。
出生地や晩年の消息にも諸説があり、秘密のヴェールに包まれた部分が少なくない謎多き歌人であります。
もっとも、当時の女性の伝記は男性に比べて圧倒的に少なく、彼女に限らず、平安朝の宮廷を彩った才女たちの殆んどが、正確な消息が伝えられていないのです。



和泉式部は二十歳の頃、橘道貞と結婚しました。夫は三十七歳くらいだったと考えられています。
二人にとって幸せな日々が続き、のちに小式部内侍と呼ばれる娘を設けます。
夫道貞は愛娘誕生間もない頃和泉守となり、彼女も和泉の国に下向したようですが、それほど長い期間ではなかったようです。


和泉式部という呼び名は、夫が和泉守であったことと、実父の役職からつけられたものです。  
本文では和泉式部の名前で統一していますが、幼名は御許丸、女房名としても、最初は単に式部、その後に江式部、和泉式部といわれるのは和泉守になった後のことです。
それともう一つ、二人の円満な結婚生活の期間は、せいぜい四、五年に過ぎないのですが、和泉式部という名前が相当長い期間使われていたことをどう考えればよいのか、興味が尽きません。


道貞と結婚して四年ほど経った頃でしょうか、和泉式部は為尊(ためたか)親王の求愛を受けます。
為尊親王は冷泉天皇の第三皇子で、年齢は彼女と同年か少し上くらいと思われます。
文学や絵巻の世界にみられるような、宮廷を中心とした京の都の華やかな舞台の中で、為尊親王も高名な貴公子の一人であったことでしょう。


二人の出会いについては、夫の女性問題から不和となり沈んでいる時に親王が声をかけられたのだと、彼女の和歌などから推察されますが、夫がある身での恋であったことには違いありませんでした。


二人の仲は二年足らずで幕を閉じます。
親王が二十六歳の若さで病死したからです。
彼女は亡き親王を偲びつつ悲哀の日々を過ごします。


そして、十か月ばかり経った翌年の四月半ば頃に、亡き親王の弟宮、帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王の訪問を受けます。
帥宮は二十三歳、彼女より三歳ほど年下でした。


やがて二人の仲は深まり、噂は宮中じゅうに広がっていきました。
その年の十二月には、召人として帥宮邸に引き取られ、激怒した帥宮妃が実家に帰ってしまうというスキャンダルに発展します。
この時代の道徳観や貞操観念については、源氏物語などにも描かれているように現代とは同一視できませんが、当時としても大きな話題を提供するものでした。


二人は世間の非難に挑むように、大胆な行動を続けます。
そして、この、二人の出会いから翌年正月までの経過を綴ったものが「和泉式部日記」です。
二人の贈答歌を中心としたもので、女主人公を「女」という第三人称で書かれていますが、いわゆる日記というより激しい恋のドキュメンタリーといったものです。


この作品の作者を別人とする説もあるようですが、作中の贈答歌の過半が彼女の歌集に収められていることをみれば、やはりこれは、帥宮との激しくそして切ない恋愛の一端を私たちに残そうとした、彼女自身の心の叫びだと思うのです。


世間の非難と煩悩の苦しみを背負いながらも、和泉式部の最も激しい情熱の日々は、またも長くは続きませんでした。
帥宮との同棲生活は四年半ほどで儚くも終末をむかえるのです。
西暦千七年(寛弘四年)十月、帥宮が二人の間に一子を残して二十七歳の若さで病死したからです。


道ならぬ恋の償いだとしても、彼女の受けた衝撃はあまりにも大きなものでした。「和泉式部続集」に残されている亡き帥宮への挽歌が百二十首にも及んでいることは、その証左でもあります。



帥宮を喪って一年半ばかり経った頃、和泉式部は中宮彰子のもとに出仕することになります。


時の権力者藤原道長は、わが娘彰子のもとに才媛を集めていて、すでに歌人として名高い彼女を女房職に抜擢したのです。
道長は、彼女を「浮かれ女」と言ってからかったとの記録がありますが、歌人としての才能ばかりでなく、中宮に仕えるに足る女性としてその人柄を認めていたのだと思うのです。


絢爛華麗、平安王朝絶頂期の宮廷には、紫式部、清少納言、赤染衛門、伊勢大輔などの逸材が競い、さらに彼女の愛娘である小式部内侍が登場するなど、時代は女流文学の絶頂期でもありました。


やがて、和泉式部は藤原保昌と再婚します。
出仕の翌年くらいのことで、彼女が三十四歳の頃で、保昌は二十歳ほど年上でした。
保昌は家柄良く、道長の信任も厚く武勇に優れ、丹後守のあと大和守を三度務め、最後は摂津守になっています。


華やかな宮廷生活や地方長官の夫人としての生活はそれなりに充実したものであったのでしょうが、その一方で悲しい出来事が続きます。


西暦千十六年(長和五年)四月、前夫橘道貞が死去しました。
二人の離別には、おそらく複雑な原因があったのでしょう。その後激しい恋愛に生きた和泉式部でしたが、最初の夫とは、愛娘小式部内侍の養育や病気などについて相談を続けていたと思われ、埋み火のような愛情がうかがえる関係でした。


和泉式部研究の大家でもあった与謝野晶子は、「いまひとたびの 逢ふこともがな」という情熱的な訴えの相手は、初恋の相手であり最初の夫である橘道貞であろうと推定しているそうです。
もしそうだとすれば、この和歌が和泉式部の生涯にとってどのような位置を占めているのか、そしてまた、彼女の生涯というものがどういうものであったのかと、いとおしさを感じるのです。


西暦千二十五年(万寿二年)十一月、小式部内侍が死去します。
藤原公成との子供を出産した後の病のためですが、まだ二十八歳という若さでの旅立ちでありました。
恋歌の名人上手と噂され、派手な恋愛経験を持つ和泉式部ですが、小式部内侍こそが何物にも替えがたい珠玉の宝でした。


この二年後には、彼女にとっても夫保昌にとっても後見役ともいえる道長が世を去り、かつて仕えた彰子が出家しました。


和泉式部の活躍の記録が次第に消えてゆきます。


西暦千二十七年(万寿四年)九月、三条院妃の追善法会で和歌を詠進したというのが、彼女の最後の消息です。
五十歳になろうとしている頃のことでした。


夫の藤原保昌が摂津守として亡くなるのは、この九年後のことです。彼女は、それ以前に世を去ったとも、その後も生存したとも伝えられていますが、真偽のほどは不明であります。



和泉式部を語る時、まず奔放な恋愛遍歴と平安朝を代表する恋愛歌人との表現がついて回ります。本稿でもそのように紹介させていただきましたが、そのことが、彼女にとってマイナスイメージに働いているように思われます。


実際に、道長から「浮かれ女」とからかわれたり、紫式部がその著書の中で「けしからぬかたこそあれ・・・」と彼女の倫理面を責め、即興的な才能を認めながらも高く評価していないらしいことが伝えられていて、それらも彼女の人物評価に影響を与えているように思われます。


そして何より、同時代の歌人たちとの才能の優劣については意見が分かれるとしましても、彼女が類まれな美人であったことだけは確かなようです。
小野小町と並ぶ美貌の持ち主と伝えられているだけに、当時の一部の人たち、特に同世代の女性から厳しい評価が与えられるのは仕方のないことかもしれません。


しかし、後年、その内容はともかくとして、彼女を題材とした多くの物語が伝えられ、和歌においても、勅撰和歌集に合計二百四十七首採られていて、これが全女流歌人中の最高ということをみれば、実力人気とも一流であることは確かだと思うのです。


そして、伝えられる彼女に関する膨大な資料のごく一部を垣間見れば、情の深さが単に恋愛感情だけのものでないことが分かると思うのです。父や妹に対して、特に娘に対する熱い心を思えば、接するすべての人に対する深い愛情が感じられます。
私たちは、どうしても華やかな宮廷生活や恋愛遍歴に目が向いてしまいますが、悲しみ多い人生を背負っていたことを見落としては本当の彼女の姿を見失うのではないでしょうか。


しかしながら、その深い悲しみや道ならぬ恋に苦しむ時にこそ、彼女の姿が最も輝き千年の時を超えて私たちに感動を与えてくれるのも事実です。それは、美貌の天才歌人であるがゆえの宿命のようなものなのでしょうか。

最後に、華やかで情熱的な舞台を演じ切り、舞台の袖では悲しみや切なさを噛みしめていた和泉式部という大歌人の心境の一端を偲ぶよすがとして和歌三首を引用しました。


   黒髪の 乱れも知らず うち伏せば
               まづ掻きやりし 人ぞ恋しき


   くらきより くらき道にぞ 入りぬべき
               はるかに照らせ 山の端の月


   とどめおきて たれを哀れと 思ひけん
                子はまさるらん 子はまさりけれ



さて、私たちは「いまひとたびの」という願いを、どのような場面で使うのでしょうか。
実生活においてこの言葉を使う時、叶えられる可能性のある場面での使用と、絶対に叶えられない場面での使用が考えられます。
それぞれの場面によって、この言葉は大きく姿を変えます。
あなたにとっての「いまひとたびの」が、叶えられる場面であることを願うばかりです。


そして、和泉式部のこの絶唱にめぐりあってしまった以上「いまひとたびの」という言葉を、実生活であれ創作の場であれ軽々しく用いることに躊躇してしまうわけですが、いつか、誰かが、この和歌を超える場面でこの言葉を生かすことが、先人への恩返しだとも思うのです。


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