雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第六話

2009-12-26 11:50:41 | 言葉のティールーム

『 露の世 』

 

   露の世は 露の世ながら さりながら

 

この句は、小林一茶の作品です。
一茶は俳人として極めて著名な存在ですが、あなたは、小林一茶という人物に対してどのようなイメージを持っていますでしょうか。

 

一茶は類い稀な多作家で、現在に伝えられている俳句だけでも二万句に及ぶそうです。
その中から代表作を数句選ぶというのは至難なことですが、私が描いていた一茶像を表現するという基準で選んでみますと、次のようになりました。
   我と来て 遊べや親の ない雀
   雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
   是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
   やれ打な 蠅が手をすり 足をする
   名月を 取てくれろと なく子哉
   目出度さも ちう位也 おらが春
どうでしょうか。あなたが描いている一茶像を表現しているでしょうか。

代表作を選ぶという観点から見れば多々異論があるでしょうが、よく知られているということでは、どの句も上位にランクされるものだと思います。
そして、これらの句に込められているようなイメージが、一般に知られている一茶の人柄というか、人物像といったものを浮かび上がらせているのではないでしょうか。

 

私が一茶について調べてみたいと思った切っ掛けは、一茶の作品の中には、少しばかりふざけ過ぎだと思われるものや、下品過ぎると思われるものがみられるのが不思議に思えたことからです。
それまでの一茶に対する私のイメージは、雪深い田舎の貧しい生活の中で、小動物に対してもいたわりの心で接する優しい人物、として受け取っていました。
もっとも、その根拠になる知識は、子供の頃教科書か何かで知った幾つかの俳句やその解説などで、それらをもとに自分の中で勝手に育てていたものですが。

 

それが、最近になって一茶の作品集を見る機会があったのですが、その中の幾つかの句が、素朴というより下品と感じられるものでした。
一茶は何故このような作品を残したのか気にかかり、少しばかり勉強しました。そして分かったことは、一茶という人物が、私が勝手に描いていたイメージとは違う凄まじい人生を送っていて、僅かな勉強を通じてですが、その生きざまの一端を感じ取ることができたように思い、ここに紹介させていただきました。

 

当時の俳諧師と呼ばれる人たちが、どのような生活をしていたのかあまり勉強していないのですが、俳諧師に限らず、江戸時代中期、芸術に生きた人々の生活が経済的に厳しいものだったことは十分想像できることです。
一茶の人生もまた、経済的に苦しく、そして重く悲しいものだったのです。

 


小林一茶は、西暦千七百六十三年(宝暦十三年)北信濃の柏原で生まれました。本名は弥太郎、現在の長野県にあたる北国街道の宿場町での誕生でした。
父弥五兵衛は農民です。農地を所有する本百姓であり宿場の役もしていましたので、生活程度は中の上か、もう少し裕福であったと考えられます。
くには、近郷の庄屋の娘でした。母方の実家もそれほど貧しい家ではなかったと思われます。
弥太郎は、この両親のもとに誕生したのですが、経済面でみる限り、当時の庶民としては恵まれた家庭環境だったと考えられます。

 

弥太郎、後の一茶にとって、不遇の人生の始まりは母の死でありました。
弥太郎三歳、母の死の意味さえも理解することができない、早い別れでした。
その後、弥太郎が八歳の時に父が後妻を迎え、その二年後に、後年父の遺産を争うことになる義理の弟が誕生しました。
継母は性格のきつい人だったようですが、一茶が強く訴える継子の悲哀は、相続問題が表面化してからより激しくなっているようなので、一方的に継母側に非があるというのは公平でないように思われます。

 

しかし、そうだとしても、三歳で実母を亡くし、さらに継母に男子が生まれたとなっては、幼年期から少年期にかけての弥太郎が辛い立場にあったことは、十分推察できます。
このあたりの関係の緩衝役になって幼い弥太郎を庇護したのが祖母でしたが、この祖母も弥太郎が十四歳の年に亡くなります。そして、その翌年、十五歳の弥太郎は江戸に奉公に出ますが、祖母の死去が少なからぬ影響を与えたのだと思われます。

 

一茶は、十五歳から五十歳までを江戸で生活することになります。
信州を代表する俳人の一人として考えられる一茶ですが、実は、青年期から壮年期にかけては江戸と諸国行脚の生活だったのです。

江戸に出てからの奉公生活についての資料は少ないようです。
一茶が生活を支えることができるような職を手に付けていたというような資料が無いようですので、長期の年季奉公を勤め上げたのではなく、身過ぎ世過ぎの十年ばかりを送ったと思われます。

 

一茶が俳諧の舞台に登場するのは、二十五歳の頃です。
それ以前に俳諧の世界で活動している形跡もあるようですが、プロの俳諧師として活躍し始めたのはこの前後だと推定されています。
そして、二十代の後半から三十代にかけては、諸国を巡る生活を送っています。
この諸国遍歴は、俳諧の修業を積むためのものとされている説が多いようです。
確かに、修業を積むということもあったでしょうが、本当はもっと切実なもので、生活の糧を求めての必死の選択であったと思われます。

 

行き倒れとなる危険を背負いながらの旅から旅の日々が、一茶の作品に大きな影響と成長をもたらしたことは間違いないことでしょう。しかし、そのような生活を選択した主たる動機は、芸術的能力の研鑽のためではなく、生きるための手段だったと思われてならないのです。
それは、当時の世相が、他に生業を持っていない駆け出しの俳諧師が生活できる環境ではなかった、と考えるのが極めて自然な推定だと思うからです。

 

そのような厳しい環境は、何も駆け出し時代だけでなく、諸国修業を経て少しは世間に知られるようになり、やがて宗匠としての身分を得たあとも、一茶の生活は経済的には安穏なものではなかったと思われるのです。

 

一茶の生存中には、彼個人の作品集は一冊も発行されることがありませんでした。
作品そのものは、いろいろな出版物に掲載されていますし、宗匠として指導料のような収入もあったのでしょうが、生活費の主体はスポンサーからの援助のようなもので成り立っていたと推定されるのです。
従って、諸国修業といってもその本当の狙いは、江戸でのスポンサーだけでは生活が成り立たず、故人となった師匠のスポンサーを当てにした旅だったというのが事実に近いようです。

 

諸国修業などの苦労を重ねて、一茶は三十代の半ば頃には相当名の知れた宗匠になっていました。しかし、依然江戸をベースに旅の多い生活が続いていました。
その旅も、芭蕉などにならった部分もあるのでしょうが、やはり生活のための部分が少なくなかったと思われる節が多いのです。

 

一茶三十九歳の年、故郷に立ち寄っていた時父が急逝しました。
これにより、遺産相続をめぐって継母・異母弟と十年に渡って争うことになるのです。
一茶は長子でしたから相続権を主張するのは当然ともいえますが、継母や義弟たちの側からいえば、今さら何だという気持ちもあったことでしょう。長らく家を離れているうえ俳諧師として高名な宗匠になっている一茶が、自分たちが守ってきた資産の割譲を求めることに不条理を感じたことでしょう。

 

この相続争いは相当激しいものでした。
一族や土地の有力者なども巻き込み長期に渡るものでした。この激しい争い方をみれば、一茶が長子としての権利を求めたというより、
どうしても父の遺産を得なければ、生活がままならない状態にあったのが大きな理由だったのではないでしょうか。この時点でも、俳諧の宗匠というだけでは生活が成り立たなかったのでしょう。

 

結局この争いは、遺産を折半するということで解決をみました。一茶は解決と共に、自分の取り分を義弟たちが使っていた期間の使用料を請求し獲得しています。
経済理論からすれば当然の請求なのでしょうが、何だかヴェニスの商人を連想してしまいます。

 

一茶は、江戸での生活を清算します。
相続で得た住居と田畑を生活の基盤とすべく、故郷に向かいます。
一茶、五十一歳。少年の日に、おそらく追われるような思いで生家を離れてから、三十五年という歳月が過ぎていました。

 

故郷に戻った一茶は、翌年結婚します。五十二歳で経験する初めての結婚でした。経済的にも精神的にもゆとりができたことで、結婚生活に踏み出せたのでしょう。
妻に迎えた二十八歳のきくとは、仲も良く幸せな結婚生活のようでした。相続で得た田畑は、殆んどを小作に出したのでしょうが、それでも収入は村の平均的な百姓より多く、経済的にも安定したものでした。
一茶の人生の中で、経済的にも精神的にも最も豊かな期間は、この頃の一、二年だったのではないでしょうか。

 

しかし、この幸せも長くは続きませんでした。
遅い結婚でしたが、二人の間には四人の子供が誕生しました。けれども、どの子もどの子も幸薄く夭折してしまいました。
長男は一か月、長女は一年、次男は三か月というはかなさでした。
さらに、妻も三十七歳で先立ち、妻の死の前後に人手に預けた三男は、十分な世話を受けられず妻と同じ年に亡くなりました。

 

一茶もいつか老境にさしかかり、自身も中風で倒れ寝たきりになる期間もありました。
その後、二人目の妻を迎えますがうまくいかず、二か月ほどで離縁しています。
さらに三人目の妻を娶り、この妻との間に女の子を授かり、この女の子だけが順調に成長して行くのですが、この子の誕生をみる前に一茶は生涯を終えています。
一茶六十五歳の六月、村に大火が起こり一茶の家も被害を受けました。その後は、焼け残った土蔵での生活となり、同年十一月、その波乱に満ちた人生を終えたのです。

 

一茶は、実に多くの作品を残しています。
伝えられている俳句だけでも二万句に及ぶということですが、芭蕉が一千句、蕪村が三千句程度という数字と比べますと、その多さが計れると思います。
その原因の一つは、一茶が克明に記録し残していたということにあります。作品を中心とした日記を記録していたからです。そしてもう一つは、生きてゆくために来る日も来る日も作品を作り続けなくてはならなかったのではないか、と私は推定しました。
あたかも、大海を奔放に駆け巡る鮫が、実は泳ぎ続けなければ生きておれないように、獰猛なまでに荒々しく作品を作り続けなければ、一茶も生きてゆけなかったのではないでしょうか。

 

私が一茶に興味を持つ切っ掛けとなった、乱暴といえるような作品が残されているのも、このあたりの事情からくるのだと思うのです。
一茶は、作品を作り続けなくてはならなかったのです。
芭蕉や蕪村を超える豊かな天分が、あの膨大な数の作品を生み出したのではなく、江戸での日々や旅先で、あるいは故郷に落ち着いたあとでも、身を削るようにして句作を続けなければ生きてゆけなかったのではないでしょうか。

 

一茶は多くの作品を残しましたが、生前に発行された句集や作品集は一つもありません。いずれも後世の人によって、日記などをもとに編纂されたものなのです。
そのため、一茶が生活に追われるようにして作ったうめき声のようなものまでが、本人の意思に関係なく玉石混淆のままに発表されていったのでしょう。それが、一茶の俳人としての評価にどのように影響しているのか、人間一茶を語る上でどのような役割を担っているのか、興味深いところであります。

 

最初に掲げました句は、長女さとの死に臨んで旧作を一部手直ししたものだと言われています。一茶の代表作とされる「おらが春」に収められているものです。
「おらが春」は、一茶五十七歳の時の俳句を中心とした記録でありますが、一歳の可愛い盛りで死んでいった長女への断ち難い思いを、同時代の俳人たちの句をも借りて表現している部分は、悲しみに打ちひしがれた老いた父親の、血を吐くような姿を彷彿とさせるものであります。

 

並べられた悲しみの句の一つ一つは、人は生きてゆくなかで何故これほど悲しい別れを経験しなくてはならないのかと、私たちの胸に迫ってきます。
そして、この激しい一茶の生きざまを考えれば、私が原因を探したいと考えた作品一句一句の巧拙など、全くたいしたことがないように思えてきています。

 

最後に、「おらが春」の中から、最初に掲げました「露の世」の句とその前後十句を引用させていただいて、結びにしたいと思います。

 

  小夜しぐれ なくは子のない 鹿にがな   (一茶)
  子をかくす 藪の廻りや 鳴く雲雀     � (一茶)
  露の世は 露の世ながら さいながら    (一茶)
      子におくれたるころ
  似た顔も あらば出て見ん 一踊      (落梧・岐阜の人)
      母におくれたる子の哀れさに
  をさな子や ひとり飯くふ 秋の暮     � (尚白・大津の人)
      娘を葬りける夜
  夜の鶴 土に蒲団も 着せられず      (其角・江戸の人)
      孫娘におくれて三月三日野外に遊ぶ
  宿に出て 雛忘るれば 桃の花    (猿雖・伊賀上野の人)
      娘身まかりけるに
  十六夜や 我が身にしれと 月のかけ �� �(杉風・江戸の人)
      猶子母に放れしころ
  柄をなめて 母尋ぬるや ぬり団扇   �� (来山・大坂の人)
      愛子をうしなひて
  春の夢 気の違はぬが うらめしい   � �(来山・大坂の人)
      子をうしなひて
  蜻蛉釣り けふはどこ迄 行た事か  (かが千代・加賀の人)

 

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