『 光あれ 』
初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵
の面にあり
神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ」
こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。
これは旧約聖書の冒頭部分です。
新共同訳による聖書から引用させていただいたものですが、荘厳な言葉で天地の創造が語られ、造物主の毅然たる言葉で物語は始まります。
「光あれ」
ご承知の通り、旧約聖書はユダヤ教ならびにキリスト教の聖典であります。
古代イスラエルの人々は、神と人間との関わりについて、多くの物語や規律として伝承していましたが、それらを、ユダヤ教徒の人々が信仰のもととなる「聖なる書」としてまとめ上げたものが旧約聖書であります。
従って、ユダヤ教徒には「旧約」という観念はなく、聖書と言えば旧約聖書のことを指します。
キリスト教徒には、イエス降誕以降の新約聖書がありますが、旧約聖書もそれに先立つ大切な聖典として位置付けされております。
旧約、新約という「約」は、契約の「約」です。
旧約聖書は、神と人間との契約の書という意味であり、信仰の根幹をなすものと言えるでしょう。
そして、この膨大な書物は、単なる宗教上の指導書という範囲を超えて、神を信ずるということを知らない私などにも、多くの教えが示されております。
一方、わが国最古の歴史書は、古事記とされております。
もちろん古事記は聖典ではありませんが、神話的要素も色濃く、冒頭部分は、やはり国造りから始まります。
その成立過程には諸説があり、また描かれている多くの説話が歴史的事実か否かは別にして、実に興味深く示唆に富んだものが数多くあります。
私たちは毎日の生活のなかで、多くの言葉を見たり聞いたりします。
その殆どのものは、通り過ぎて行くだけで記憶に残るほどのこともないのですが、中には、いつまでも記憶に残り、何かの節々に浮かび上がってくるものもあります。
それは、美しい言葉であったり、力強い言葉であったり、進むべき方向を示唆してくれる言葉であったりします。
また、同じ言葉であっても、発信する人によって、あるいは受け取り手である人の心の状態によって、その意味の捉え方が大きく変わることは、よく経験するところです。
このように、言葉はまさしく生き物なのです。発信者と受信者との関係で意味さえ変わってしまうことがあるのです。
それは、書かれた言葉でも同じことが言えますし、目や耳を通しての言葉だけでなく、もっと違う形で伝えられるものであっても同じだと思うのです。
伝達手段としての言葉は、本来、発信する人と受信する人との特定の関係の間で、独自の意味を持っているものです。従って、第三者が一部の言葉を取り出して論じることは、誤解を生む危険が大いにあります。
古くから書物などで伝えられている言葉についても、同じことが言えると思います。
しかしながら、私たちが知ることのできる先人たちが残してくれた言葉の中には、限られた範囲の人々にだけではなく、現代に生きる私たちに感銘を与えてくれるものがあるのも事実です。
いわゆる名言といわれる言葉や文章などです。
それらは、優しさや、勇気や、安らぎを与えてくれ、さらに、決断や、進路や、断念を示唆してくれる力が含まれているように思うのです。
中国の大思想家である孔子は、その書の中で「巧言令色すくなし仁」と巧みな言葉に誠実さが少ないことを教えています。同時代の人で、思想的には孔子と対立する立場であった老子にも「信言は美ならず。美言は信ならず」と、同じように美言は信用できないと教えています。
偉大な二人が言われるからには、そのような面があるのでしょうし、詐欺師と呼ばれる人たちが巧みな言葉を操ることも事実でしょう。
しかし、たとえそうであるとしても、先人たちのすばらしい言葉を否定することにはならないと思うのです。
それに、巧言や美言が信用できないと諭している孔子や老子のこれらの言葉こそ、まさに私たちが大切にしたい名言だと思うのです。
私たちは、あわただしい生活の中でふと疲れのようなものを感じた時、喫茶店に立ち寄ることがあります。一杯のコーヒーが、ひとときの安らぎと気分転換の切っ掛けを与えてくれることがあります。
同じように、走り続けているような生活に小さな疑問を感じた時などには、先人たちの珠玉の言葉が、いくばくかの安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。
コーヒーを遥かに凌ぐ香り高い言葉は、私たちに何かを語りかけてくれると思うのです。
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