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根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族

2013-01-11 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族
 
 

 正月一日に室戸に行きました。キラメッセで食事をしましたが、海を見ていつも

女房とはなしをするのですが、「鯨」が見られたら面白いね、と。

鯨が目の前で泳いでくれたら最高ですが、現物の鯨が無理ならちょうど真ん前・

50メートル先に「岩礁」があるのでそこに「浮力発電・鯨」を浮かべても

いいと想います。お正月の初夢でした。

 

さて、高知城でも次のガイドもできると、「ひとくちメモ」的に紹介しました。

●お城の植栽:城には、どのような植物を植えていたのか?

<戦国の堅城‐築城から読み解く戦略と戦術・学研発行・歴史群像シリーズより>

 

・植栽(131pより)           

 城造りでは、植栽もおろそかにできない。城の植物は、美観だけでなく、防御面

でも大切な役割を担っているからだ。

城に植える木は、籠城戦に役立つものを選びたい。まず挙げたいのは松竹梅だ。

おめでたい木として知られるこの三種は、実は、戦闘時の利用価値も高い。

中でも、松は悪条件にも強く、城の木の定番となっている。竹も利用価値が

高く、矢の材料となる矢竹は、密生させれば、強力なバリケードにもなる。

梅は不可欠なものではないが、実が兵糧になる。

樹木以外の植物では、薬草類も充実させたい。城の一画にお花畑を設けて管理すると

よいだろう。

木を植える際は、塁の内側に並べると外から見えにくくなり、効果的だ。塁や堀の

外側は、敵の隠れ場所をなくすよう、見通しよく空けておくとよい。

 

 ◇松の利用法 

  松は、柵・乱杭・逆茂木の材料のほか、油分が多く燃えやすいので、薪や夜間の

  警備に必要な松明(たいまつ)にも重宝した。松脂(まつやに)も利用範囲が

  広く、弓弦や狼煙(のろし)の材料、血止めにもなったとされる。

 

 ◇竹の利用法

  竹は様々な道具の材料になるが、城ではやはり臨時的な防御用具である虎落

 (もがり)や、竹束の材料となることが重要。いざとなれば竹鎗(たけやり)にも

  なる。小型の竹である矢竹は、文字通り矢の材料となる。

  中世の曲輪の名に見られる「笹曲輪」は、この矢竹を栽培した曲輪だろう。

 

 ◇城の植栽

  城に植える木は、戦闘時には柵や逆茂木(ぎゃくもぎ)等の臨時的な防御施設に

  なる。松が主流だが、他に柵等に使いやすい杉、実が食用になるカヤやイチョウ

  等も考えられる。

  木は、堀などの内側に沿って植えるのが定型。土塁には芝を張ると、表面の

  くずれを防ぐ効果がある。塁や堀の外側は木を植えないが、敵を近づけたくない

  搦手側の斜面等には、矢竹を密生させるのもよい。

  城によっては梅林を設けることもある。桜もよく植えるが、現在桜の名所と

  なっている城跡には、明治以降の植樹も多い。 

 

婉の母「きさ」の名前:Nさんから次のメールをいただきました。

 Nさん、連絡をありがとうございました。

 確かにご指摘の通り小説の「あとがき」と小説「文中」と名前が相違していました。

 私が紹介したあとがきの「校正ミス」ですね。気がつかなくて、すみません。

 このようなメール、大歓迎です。皆さんは、根木よりずっと勉強・研究されて

 います。

 その知識の「共有」の場であり、共有できたらと願っております。

 

 

 えんの生母は、やはり、池きさ だとおもいます。
その1  「高知観光ガイドブック3 」 p69、に きさ とでている。
      「野中兼山」 横川末吉著 吉川弘文館 p281 えんの母 きさ とでている。
その2  「えんという女・正妻」 大原富枝著  講談社  p53、54  清七,希四郎、

      わたくし。貞四郎、そして その母池きさ。 と表記されている。 
その3  筆山にある 「野中兼山と一族の墓 」には、左前に えんの母の墓があるが

      母池氏之墓と記名されているだけで きさの名はない。    
その4  本山町の大原富枝文学館へ調査研究に行ってきた。

      そこでも明確に えんの母として きさ が記されている。

                             (以上は、Nさんからのメールです。)


 

<合姫(一豊の妹・兼山の祖母)のことについて>

どのような一族だったかも、少し長くなりますが、紹介しました。

■野中兼山・婉女そして土佐山田:野中神社改築委員会・土佐山田町教育委員会発行

・二、兼山の人と治績(依光貴之執筆) 35pより

 

1.生い立ちと時代

 野中氏の家系

濃尾平野の西部を南北に流れる大河揖斐川(いびがわ)を遡ると、大垣市の北方

約十五キロで山麓の町揖斐川町にさしかかります。その町の三輪地区が野中氏

発祥の地といわれます。

系図上の初代は野中道永といい、かなりの土地をもつ地主(名主)であったようです。

(付録の系図を参照してください)

道永の子伯仙は、天正十三(1585)年に七十三歳で没しており、戦国動乱の

なかを生きた人です。

そのため、青年時代に剣術家衣斐丹石(えびたんせき)について学び丹石流の奥義に

達していたようです。丹石流は短い刀を使い相手のすねを蹈(ふ)み折るぐらいに

肉迫する気合を尊ぶなかなか激しいもので、野中家の気風を養ったのはこの剣法

だったともいわれてます。

 

その奥義書は、長男良平が若死をしたため伯仙の臨終に際し、次男益継に譲られ

ました。

伯仙は剣術だけでなく医術・和歌・書道にも通じた文武両道の人でした。

伯仙の妻は丹石の姪(一説に娘)で二人の間には四人の子供が生まれ、長男が兼山の

祖父良平(よしひら)、次男がのち兼山が養子入りする分家野中家の租・益継

(ますつぐ)、三男が遂繼(かつつぐ)です。

良平は、戦国の風雲に乗じて身を立てようと、はじめ織田信長(あるいは信忠か)に

仕え、秀吉を経て、山内一豊に属し、その妹合姫(ごうひめ)を妻としました。

一豊が近江(滋賀県)の唐国(からくに)で四百石を領した頃のことです。

 

合姫は良平より四歳年下で、兼山の父良明(よしあき)と通姫(つうひめ・乾和三妻)

を生みましたが、夫良平が天正七(1579)年三十一歳で早死したため、自分より

八歳年下の義弟益継と再婚し、そこでも三男三女をもうけました。

その長男直継(なおつぐ)は宿毛の領主安東氏の娘と結婚、一男二女が生まれましたが

、男子(合姫の孫)が早世して後継ぎがなかったため、末娘の市に兼山をめあわせて

養子としたのです。つまり、合姫からいえば自分の血を分けた孫同志の結婚であり

”同姓娶らず”の儒教の教えにめざめた兼山にとっては、忌むべき結婚となるのです。

 

合姫は至って健康で、土佐へ入国してのち、兄一豊のあとをうけて甥の忠義が藩主と

なり夫の益継、子の直継、孫の兼山と三代続けて重臣として藩政を掌握した時代に

、酒を友として豪奢(ごうしゃ)に暮らし、正保三(1646)年九十三歳の生涯を

終えました。兼山の全盛時代で、儒教による葬式のうえ、日を改めて法華宗による

盛大な葬儀があり、筆山の北麓に葬られました。

諡(おくりな)を慈仙院妙仁日大大姉といいます。

 

さて、兼山の父良平は七歳で父に死に別れましたが、後嗣のなかった伯父一豊に

愛せられ、土佐入国時には五千石を受けています。有能な伯父益継が二千三百石

ですから、野中家の本家筋とはいえ、いかに優遇されたかわかります。

それが慶長十三(1608)年ごろ、妻もつれずにわかに国を出奔し、海路

播州姫路へと赴きます。その間の事情はよくわかりませんが、かねて一豊から

山内の姓を許され、幡多郡中村で二万九千石を与えられる約束を得ていたところ

、慶長十年の一豊の死によって反故(ほご)にされたためであろうといわれます。

一豊の弟康豊の辣腕ぶりもさることながら、良明の癇癖(かんぺき)の強い性格も

原因であったようです。

 

良明の妻が池田侯の重臣の妹であったので姫路へ行き、池田家では一万石をもって

召し抱える話もあったけれども、良明はこれを辞退し、年に二百石の扶持米をもらって

姫路や京都で何とか浪人暮らしを続けたようです。

良明の妻はあとを追って姫路へ来て間もなく死亡しました。その後妻として迎えられた

のが、豪商秋田家に養われていた孤児の萬でした。その時萬は二十四歳で、六年後の

元和元(1615)年に兼山を海、九年後に良明に死別します。兼山の誕生日に

ついては、六月十三日説と一月二十一説と両説あり、お婉堂の位牌には”六月十三日

己亥午刻生”とあります。

上方での良明一家の暮らしは決して楽ではありませんでした。良明は家計を顧みて

限度内で暮らせる人ではなく、やがて、二百石の扶持米も池田家の備前転封とともに

打ち切られたはずです。

 

萬は良明の死と共に上方での生活をあきらめ、当時四歳の佐八郎(兼山の幼名)の

将来も考え、海山を隔てた土佐へ下り、分家の益継・直継父子を頼むことにしたのです。

(この間の経緯については小倉少助が境から呼び下したとの説もありますが、『野中

遺事略』によりました。)

萬は慶安四(1651)年六十六歳で急死したので、兼山は儒葬をもって野中家の采地

(さいち)の帰全山に厚く葬り、山崎闇斎執筆の「夫人秋田氏墓表」を碑に刻みました。

それには、夫人は針仕事や織物などで家事万端に通じ、夫によく仕えて内助の功あり。

わが身を飾らず、姑の看病を怠らず、下女をも懇(ねんごろ)に教え導いた。

兼山の短所を見ぬいて、友とよく交わり、寛容であるようさとし、また父良明の美点も

伝えた。はじめ姑に従って仏教を尊んでいたが、兼山が儒教に帰したのちはこれに従った。

などと誌され、「けだし夫人のごときは婦女の楷模(かいも・手本)なり」と結ばれて

います。 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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