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根木勢介 さんの記事・・・いごっそう:儀七・いごっそうと酒④

2012-12-29 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・いごっそう:儀七・いごっそうと酒④
 
昨日のNHKテレビ・嵐の明日に架ける旅「桜井翔が馬路村へ」を皆さん
見られましたか?
高知県にとって(もちろん、馬路村にとっても)大きな宣伝をしていただいたように
思いました。
馬路村の人たちの”温かさ”が伝わって来ました。
私の考える高知の未来、そのスローガンは、絆から一歩進んで、人の温かさがある
「温もりのある高知県」です。
高知県は、人の温かさを全国発信できる県だと思います。
全国へ発信する第一線にいる観光ガイドの一人として、馬路村の皆さんに学ぶことが、
多くありました。
 
●「いごっそう」シリーズですが、YさんやNさんに次のコメントをいただきました。
 ありがとうございました。
(コメントを要請しているわけではありませんのでよろしくお願いします。)
 
武市瑞山、中岡慎太郎、板垣退助らが、土佐人に多い型とすれば、どなたも人情家で
 努力家ながら、長短合わせ持つ人ばかりと私には思えます。
 そこが土佐の男で、それが人間よと。
 
・「木戸昭平覚書」根木さんの参考に木戸先生がでてきてビックリ。
 恩師の先生です。こんな本がありますか?
 高知市史の稿本を書かれたと思いますが、未完のままではないかと。
 いごっそうに人情家で、悔しさはお酒で癒す方でした。
 よって長生きはできませんでした。いごっそうにお酒が加わると身体を壊します。
 高知の男子は要注です。
 
・ガイドの時に「いごっそう」とはと聞かれて、知っていることをお話ししても、
 納得してもらってないなと思ったことがあります。
 いごっそうの捉え方がそれぞれなのかなと思いました。
 
いごっそう(話)にお酒が憑きまわる例として、とりあげてみました。
■土佐画人伝  甲藤勇 高知市民図書館発行・平成5年発行より
 
<池添儀七>
『土佐奇人伝』に載っている池添儀七は、鋳掛け屋(いかけや)である。
「元禄消費」の言葉に洗脳された現代人には必要もなくなったが、昔は必需品、
鍋釜からはじめて割れ物一切が鋳掛け師の手によって補修されたと思えばよい。
鋳掛け屋の儀七、絵に一切関係ないと思えばさにあらず、一門一族みな絵かきで、
儀七自身も絵をかいた。弟が、藩の絵師池添義光で、甥が有名な池添楊斎である。
絵はどれぐらい、どの程度のものをかいたか、わからないが、幕末のころ高知の
菜園場に住んだ国学者田内喜三次というものの家に儀七のかいた水墨画「飛馬の図」
伝えられていた。落款を知りたいものだが、今ではどうしようもない。
(途中略)
儀七は、高知の”そそっかしや”―菜園場の与八―に匹敵する奇人だった。
 
ここらで息抜きに、儀七の奇行を繰り広げておいて絵師の家、池添の伝に移りたい。
『奇人伝』によると、儀七の家は、はじめ城東細工町にあったが、のち新町小谷の
横丁で借家住まいをした。儀七は享和年間に没したらしい。
興左衛門、氏助と二人の弟がありながら、酒好きの母を養って至孝の聞こえが
あったというから早くから父がなかったのであろう。
儀七は生まれつき、正直ではあるが放逸であり、そのうえ強度の酒ぐせがあった。
飲まねばおとなしいが、飲めばがらりと人柄が変わり、日夜狂態を繰り返して皆から
指されても平気の平左であった。
 
それで儀七が毎朝鋳掛けに出る時は、年端もゆかぬ一人の孝行娘が必ず後に
つき従うた。
一日の仕事が終わると三人の米代と母の酒手を除いて置いて、後はごっそり酒屋で
使い果たす。
酒もやがて酔いがさめかけると、儀七は肩に風箱を負いなおし、娘に手をひかれて
”蹌踉””蹌踉”(そうろう・よろめく様子)帰途につく。
時には、大酔いの果て、物につまずき倒れると昼夜の見境もなく路頭で寝てしまう。
―娘はこれを見守り、介抱して、立てばまた手をひいてゆくという状態が嫁入りまで
続いた。
折節は、か弱い肩に父の道具をにないあげて先に立つと、奇人たる儀七は悦に入って
わが娘を指しながら「あのお姫様を見よ見よ」とはしゃいだという。
若尾瀾水は、『土佐奇人伝』にある儀七の肖像を見て詳しく親子の姿態を書いて
くれた。まるで漫画である。
 
 眼のはたかった顔の、相好のだらしない、酒太りのした儀七が、鋳掛け道具をちょこなんと
 背にのせ、よろよろと歩いている。短い着物が肩から抜けかかって布袋腹が突き出ている。
 背の低い、顔の大きい娘が先に立って歩きながら、後ろを振り向いて何かとりなおしている。
 
こんな儀七だが、見廻りがくると唄うことをやめて、路上に平伏し、役人が過ぎ去る
のをみてまた唄うてゆくという調子であった。
 
こう書くと儀七はだらしない一変人に過ぎないが、儀七の奇人たるゆえんは本職の
鋳掛けは天下一品で、特に大物の修繕にかけては土佐の国で儀七の右に出る者が
なかった。
あるとき城下の豆油店で大釜が少し傷んだので儀七を呼んで来て修理した。
白銀一枚の修理代が高いと思った番頭は、はげ頭をふりながら「大破なればともかく、
これしきの小傷みに白銀とは法外だ」と支払いを渋ったところ、儀七はほけを
立てて怒った。
「儀七という男を知らんか、儀七は金のある大家だから高くとってるんだ。
貧しい家ならただでも直す。ぐずぐず言いなさんな」と。
聞いた主人は感心して儀七に望みの金を与えたという。
 
また或る時、酒屋の大釜が大破したものを巧妙に補修してやったところ、不相応の
要求に主人は支払いを拒んだ。儀七は「よし、それでは元のように叩きこわしてやる」
ただちに直した箇所を槌で砕いて立ち去った。
酒屋は別の鋳掛け屋に頼んだが誰も直し手がない。大阪に送っては引き合わない。
ついにそのまま廃品となったので主人は、はじめて「しまった」と気づいたが、
後の祭りであった。
 
鋳工儀七、一代の功績は、寛政四年七月二十六日、暴風で飛んだお城の”鯱”を
取り付けたことである。
「お国では修理の仕手なし、この上は上方の鋳物師お呼び下し」と公儀が一決の
ところへ、儀七は「私めに仰せつけ候へ」と持ちこんで詮議のうえで差しゆるされた。
やがて、人夫を指揮して、鯱を天主の屋根に運び上げると、老年の儀七は、
目もくらむ天主の上でふいごを使い、鉛を溶かして「チキリ」というもので
鯱をとめ、日ならずして、鋳込みに成功した。
工成った儀七は、役所に出て広言を吐いた。
「一方の鯱は、次の暴風で落ちるかも知れないが、私の勤めた鯱は、この儀七の
目の黒いうちには、絶対に御請け合いする」と。
一説には、役人からからかわれたので、再度天主に登って鯱の上で角兵衛獅子
さながらに逆立ちして見せたともあるが、とにかく役人がご褒美を申し出よとの
言下に、儀七はしゃあ・しゃあとして
「元来寸志と心得て細工したから格別に望まぬが、お構いなければ御領内どこの
酒屋でも飲み放題に許してほしい」と答えたという。
 
※根木のコメント:
 儀七のような人を「いごっそう」と言うかどうかわからないが、いごっそうは、
 ”変人・奇人”と評価されるひと、だろう。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 

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